みじめな有様
都会は土地が高いために自家用車の一台を持っているだけでも駐車場の料金が馬鹿にならず、充実した公共の交通機関を利用すれば大抵の目的地には行けてしまうので、大多数の人間は自動車を放棄して電車やバスの駅に押し掛ける。特に電車は移動距離や一度に運べる定員の多さから人気が高く、朝方の通勤ラッシュなどは電車に乗らずに見ているだけでも息苦しくなる有様で、なんともまあ、よくあんなすし詰め状態のところに乗り込めるものだよなあ、と感心しつつも呆れながら眺めていた。
「この時間帯がね、あの路線が最も混み合う時間なんだよ」
隣の友人が私に教えてくれた。彼は都会育ちで、上京してきたばかりの私に色々と都会のことを解説してくれるのだ。
私たちは今、とある駅のホームの隅で通勤ラッシュを眺めている。電車に乗って行きたい目的地があるわけでもなく、一度通勤ラッシュを間近で見てみたいという田舎出身の私の好奇心による見学会だ。
「一番混む時間と言っても、本当にひどい。見ているだけで苦しくなる。あ、なんだあのおっさんは。もう乗り切れないだろうに、無理に押し入っているぞ」
「もう乗れなさそうなところでも、無理に押し込めば一人分くらいの隙間ができるからね。見なよ、駅員も彼の背中を押しているだろう」
肥満体の親父が、どう見ても満員だろうという車両めがけて突撃し、入口付近の先客を奥に押し込みながら乗り込んでいる。そこに近くにいた駅員が近づいていくので、てっきり親父の悪行を見咎め、親父を車両から引きずり降ろすかと思いきや、駅員まで親父に加担し、ぐいぐいと背中を押して車両に詰め込んでいく。さらに、それはその一か所に限った話でなく、同じ車両の別ドアおよび別車両でも同様に各駅員による詰め込み作業が行われているのだ。最初に車両に乗り込んだ人間は押し潰されて死んでいるのではないかと思った。
「客を押し込まないで次の電車を待つように言っていたら、どんどんホームが人であふれてしまうからね。それに、乗り込もうとしている客を無理に止めたらクレームを出されかねない」
駅員の行動が信じられぬ、という顔をしているであろう私に友人が説明するが、それを聞いても、いや、だからといっていくらなんでもあれはないだろう、というのが私の感想だった。
「もし、仮に車両に子供や体の弱い人が乗っていたらどうなるんだ。あんな勢いで乗り込んだら冗談抜きで押し潰されてしまうぞ」
私の質問に対し友人は、女性専用車両があること、女性専用といっても子供や体の不自由な人なら利用できることを順番に説明した。先ほどの親父が乗り込んだ電車は既に出発しており、次の電車が止まっていたが、確かに先頭の方に「女性専用車両」と記された車両がある。あらためてよく見れば、一般車両をぎゅうぎゅうに満たしている乗客の大多数が男性であることに気付いた。
「もちろん、女性全員が女性専用車両に乗り込むわけでなく、一般車両に乗る女性客も多いけどね。満員電車では男性客の方が負担が多めというのは事実かな」
「ははあ、都会で働く男は大変だなあ。あんなに押し込まれていたらろくに身動きも取れないだろうに。しかも痴漢に疑われることもあるんだろう。あのすし詰め状態じゃ意図せず触れてしまうこともあるんじゃないか」
友人が痴漢の問題について説明しようとしたとき、ホームに放送が流れだした。見ると、先ほどまで停車していた電車は未だに出発しておらず、ホームに待機している乗客の数が増え始めていた。放送を聞きながら友人は、ああ、これは、と事態を察知したようで、私に説明を開始した。
「どうやら、ここから二つほど隣の駅で人身事故が発生したようだ。一時間くらい運転を見合わせることになるんじゃないかな」
「人身事故って、つまり、人が電車にはねられてしまったのか。現場は想像したくないな」
「なに、電車の人身事故自体は都会じゃそんなに珍しいものじゃないよ。現場に居合わせたことは僕も経験ないけどね。ただ、こうなってしまうと駅の混雑はもっとひどいものになるな」
ホームの様子を伺えば、放送を聞いて舌打ちする人、時刻表を見つめて顔をしかめる人、駅員に質問を投げかける人、携帯電話で連絡を取っている人、停車中の電車に留まり続ける人、様々だった。
「人身事故ということは、少なくともはねられた人は無事ではないだろうに、客も駅員も随分冷めているというか、電車が動かなくなることで頭がいっぱいになっているんだな」
「さっきも言ったように、そんなに珍しいことではないからね。それに、君だって知りもしない人が電車にはねられて死んでしまったとしても、別に悲しんだりはしないだろう。おっと、こう混雑してくるとホームに留まり続けるのはまずそうだ。出ようか」
混雑するホームから抜け出て駅前の広場で一息入れながら初めて目の当たりにした通勤ラッシュを思い返してみると、感想として出てくるのはやはり、ひどすぎる、なぜあんな状態に耐えることができるんだ、といった否定的なものばかりだった。
「あんな混雑を毎日耐えている人たちは何を考えているんだろう。改善しようとは思わないのか」
「改善しようったって、一人二人がどうこうできるわけもない。企業が通勤ラッシュを避けるように業務時間を設定することもあるそうだけど、根本の解決には至らない。都会という時点で、多くの人が集まってしまうんだからどうしようもないことなんじゃないかな」
都会育ちの友人には見慣れた通勤風景でも、田舎出身の私からすればやはりあれは異様な光景だった。女性専用車両に乗ることも適わず、身動き一つ取れない車両に押し込まれていく男性乗客たちの、朝だというのに既に疲れきっている表情を思い出す。働かなくては生きてはいけないとはいえ、みじめな有様だな、と思った。
「まあまあ、都会で生きるっていうのはそういうことだよ。ところで、君も朝食はまだだろう。あそこにおいしそうな食事処があるのを見つけたんだ。寄って行こうじゃないか」
混雑する駅の前で電車の運行再開を待っていた男が、ふと道路わきを見てつぶやいた。
「うわ、この鳩どもゲロをついばんでやがる。平和の象徴っつっても、これじゃみじめな有様だなあ」