走りに行こう
「それで? どこを走るかは決めた?」
「うん。夏の森を走ろうかなって思ってる」
「わかった。じゃあ、着替えてくる」
「そうだね、走るんだからそれなりの格好をしないと。僕も着替えて外で待ってるよ。」
先日の冬の山登りで、体力の無さを露呈してしまった僕は、彼女の提案により走り込みをすることにした。
運動が苦手な僕にとってこれはなかなかの苦行ではあるが、また山登りをするとなった時に醜態を晒すのはまっぴらごめんだからね。
そんなわけで。運動着に着替え、外に座ってぼーっとしながら彼女を待っていると、
「それじゃあ、行きましょう」
という声と共に現れた。現れたのだが……
「……ねぇ」
「どうしたの?」
「その服は?」
? という表情で、彼女は自分の体を見た。
「どこかおかしい?」
「いや、おかしいっていうか……」
僕は苦笑しながら彼女を見る。苦笑の理由、それは彼女の服装が僕の通っていた高校の体操服だったからだ。
左胸のあたりに「奏」と書いてある白い半袖のシャツに、膝が見える黒いハーフパンツ。白い靴下に運動靴。覗く肌が透き通るように白く美しい。金の髪はポニーテールに結い上げられ、いつもの髪を下ろしている時とは全く違う印象を与える。青の大きな目にすっと通った鼻筋、かわいらしい桜色の唇。体操服を着た、何もかもが完璧な絶世の美少女である。
「この服は、クローゼットの中に入ってたの」
「……まあ、僕も学校の体操服だしね。気にせず行こうか」
自然の中を体操服姿の2人が歩く光景は、なかなかシュールなものだったに違いない。生き物達が不思議そうにこちらを見ていたし。
夏の森に到着した。ここは常夏の森。木は青々と茂り、溢れんばかりの生命を感じる。確かに暑いが、心地よい風が吹いているので、とても清々しい。
「到着。もう走る?」
「……よし、走ろう」
彼女にすぐに走ろうと言われ、僕は決意が鈍る前にそうすることにした。
まだ入り口のほうなので、木はそこまで密集していない。奥に行くと困難だろうが、今のうちはまっすぐ走れそうだ。
「いくよ。……よーいどん」
よーいどん、なんてどこで覚えたのと言いたかったが、彼女がすいすい進んでいくため、何も言えなかった。それにしても速い。かなり一生懸命走っているのに、平気な顔で走っていく。徐々に彼女の背中が遠ざかっていく。
「は、速すぎっ」
たまらずそう叫んだ僕に、彼女は顔だけ振り返って怪訝そうな顔をした。
「遅すぎっ」
グサッときた。そ、そんなストレートに言わなくてもいいじゃないか…… そう思ってしょんぼりしながら少しペースを落として走っていると、彼女は僕の隣に並んで、同じ速度で走り出した。
「ごめんなさい。言いすぎた」 彼女は前を向いたままそう言ってくれた。前を向いたままなのは照れ隠しなのだろうか。
「大丈夫、気にしないでっ。それより、頑張ってっ走ろっ」
息を切らしながら言ったせいで、変な喋り方になってしまった。それを聞いてクスクス笑う彼女。僕も自分で吹き出しそうになるが、とにかく走ることに集中した。
「お疲れ様」
「……ふぅ」
大分走ったのだろうか。彼女にそう言われて止まったのは森の奥だった。木が大分茂っているので、木陰ばかりになっている。ここにも気持ちよく風が吹いていて、汗をかいた身には心地よい。木から少しだけ漏れ出した太陽が、まるで宝石を散りばめたように地面を照らす。
二人並んで木に背中を預けて座った。
「森林浴なんてどう?」
「ん、いいと思う」
彼女は頭上高くにある枝を、顔を上げて眺めている。僕が前にある木を眺めてぼんやりしていると、彼女は頭を僕の肩に預けてきた。目を閉じているところを見ると、眠いようだ。
「気持ちいいねぇー……」
「うん……」
お互いそれだけ言って手をつなぎ、心地よさに任せて目を閉じる。手から彼女の温もりを感じる。生きている。僕らも、森も、何もかもが生きているんだ。幸せなこの今に感謝しながら、僕らはゆっくりと眠りへと落ちていく。
ずっと、ずっと。こんな優しい世界が続きますように。そんな願いを抱きながら。