静寂の中のプレリュード
朝の街はまだ体温を持たず、ビルの隙間をぬうように白い光が落ちていた。
登夢はマンション前で足を止め、手首のG-SHOCKを軽く傾ける。
七時を少し回ったところ。集合まで余裕はある――だが、燃のことだ。昨夜も間違いなく、ドラム譜と向き合ったまま朝方まで起きていたはずだった。
「……起きているか」
つぶやきながらエントランスに向かうと、自動ドアの向こうで影が揺れる。
燃だった。
ざっくり後ろで束ねられた髪、肩にかけたスティックケース。
Tシャツにグレーのスウェットという気負いのない格好。だが目の下に落ちた薄い影だけが、昨夜の努力を雄弁に物語る。
「登夢。早いね」
「……昨夜もまたやってただろ」
燃は伸びをしながら、眠気をごまかすように笑う。
「うん。なんかね、ハマらなくてさ。三時過ぎまで叩いてた」
「……体を壊すぞ」
「心配性だなぁ。でも、ありがと。迎えに来てくれて」
言葉は軽いが、声音にほんの少しだけ“支えられる安心”が滲む。
それを聞いた登夢は、表情には出さずとも、胸の奥が静かに和らいだ。
――昔からそうだ。
燃は、弱音だけが苦手だった。
幼い頃から隣同士の家で育ち、母親同士は一卵性の双子。燃は従兄弟であり幼馴染であり、ほとんど家族のような存在だった。
母を亡くし、父はロンドン赴任。マンションでの一人暮らしは長い。
それでも彼は、部員の悩みならどんな夜でも聞くくせに、自分の不安だけは誰にも預けない。
登夢は心のどこかで、そんな燃と自分の影を重ねる。
――こいつは、誰よりも人の温度を求めているのではないか、と。
登夢は鍵を取り出し、ガンメタのBMWに跨った。
メーターパネルが光り、朝の街に低く唸るエンジン音が響く。
「乗れ、燃」
燃は軽く頷き、スティックケースを背に背負いながらサイドシートへ。
二人を包む空気は、ほどよい緊張と期待で張りつめていた。
「さて、今日の予定は?」
「午前がリハ、午後から本番。シャケが機材の調整をしてくれる」
「おお、あのシャケが? すっかりエンジニアだな」
「泊まり込みだ。……谷神姉妹も風見鶏で準備してる」
「風見鶏か。打ち上げ、久しぶりだな」
燃の横顔に、朝日が柔らかく差す。
その笑みを見た瞬間、登夢の肩の力がわずかに抜けた。
「今日はいい日になるといいな」
「なるさ。お前がいるから」
燃はスティックケースを軽く叩き、いつもの調子で言う。
登夢はそれを受け取れず、ほんの少し視線をそらした。
「お、照れた? 景ちゃんに感謝しとこう」
「……行くぞ、部長」
「了解、マネージャー殿」
BMWのエンジン音が朝の街に低く響く。
通りの光がゆっくりと街の色を起こす。
向こうに見えるスタジオの看板が、まだ眠そうに光っていた。
二台のダンディム(バイク)――登夢のBMWと燃のスティックケースを背負ったシート――が、光と影の中を滑るように進む。
今日の一日が、静かに、しかし確かに始まった。
朝の商店街を抜ける風はまだ冷たく、夜の名残をわずかに引きずっていた。
シャケ――荒巻大蔵は、ヤマハXJのエンジンをかけると、低く震える音とともに小さく息をつく。
「――さて。今日も“お使い部隊”発進だな」
後部シートには風見鶏特製のサンドイッチボックス。
マスターが「スタジオのみんなに」と託してくれた、陣中見舞いだ。
雷たちは朝から照明セッティングに入っている。
一方の谷神姉妹はというと――まだ風見鶏の厨房にいるはずだった。
*
「静耶、そっちは紙皿じゃなくてグラス!」
「わかってるってば冬華! あ、スパークリングジュース冷やすね!」
「冷やしすぎないで! 伴隆くん喉繊細なんだから!」
風見鶏の厨房は朝からまるで戦場だった。
打ち上げ準備の音がリズムのように跳ね、双子の声がテンポよく響く。
だが時計の針はとっくに“出発予定時刻”をオーバーしている。
そこへ、バイクのエンジンが店の前で徐々に減速していく音。
シャケはヘルメットを外し、大声で呼んだ。
「――おーい! お姫様二人、出発の時間だぞー!」
ガラス越しから冬華が顔を出し、トングを握ったまま眉を上げる。
「シャケくん!? いま仕上げ中なの!」
「いや仕上げじゃねぇ! 雷が“全員揃ってから音チェック”って吠えてるんだぞ!
まだ家にいるの、お前らだけ!」
厨房のドアを開けると、温かいパンの香りが押し寄せてきた。
カウンターにはサンドイッチが芸術のように並んでいる。
「……これが例の“特製サンド”か」
「そう! マスターからの差し入れ。運搬よろしく、シャケくん!」
冬華が胸を張り、マスターが穏やかに頷く。
「ここは俺たちが片づける。静耶たちは行ってやりな」
「マスターありがとう! ……静、出るよ!」
「了解。あぁ~~サンドの匂い……これ途中で食べたら絶対怒られる……」
「俺も我慢するから静ちゃんも耐えろ。これは戦いだ」
おどけた声に双子が笑い、緊張が少し溶ける。
二人とシャケはそれぞれのバイクにまたがり、
XJが低く唸り、静耶のVTが軽やかな音を返す。
「気をつけてな。サンドとコーヒー、冷ましすぎんなよ」
「「マスター、いってきます!」」
声をそろえた双子に、マスターは誇らしげに手を振った。
朝の国道へ出ると、二台のバイクは並走しながら風を切る。
街路樹の葉が揺れ、雲の切れ間から差す光が、どこか祝福のように降り注いだ。
「ねえシャケくん、この朝の感じ……好きだなぁ!」
「わかるよ。……でもな、ここからが本番だ。
“音”を鳴らす場所は、いつだってスタート地点に風が吹いてんだよ」
エンジンの鼓動が胸の鼓動と重なる。
彼らはまっすぐスタジオへ向かった。
その先に――今日の“新しい音”が、確かに待っていた。




