風の止む朝、音はまだ動かない
目が覚めた瞬間、障子の隙間からこぼれる白い光が、まだ眠たいまぶたをゆっくり照らした。
畳の冷たさと、ほんのり香る木の匂い。
――ここは草薙登夢の離れだ。
昨夜、軽音部の録音機材を調整していたら、気づけば深夜。
「泊まってけ」
登夢はそれだけ言い残して自分の布団を放り投げてよこした。
幼なじみとのこういう泊まりは、もはや年中行事みたいなものだ。
だが、起きても本人の姿はない。
机に一枚のメモ。几帳面な字で、必要最低限。
『シャケへ。朝練。道場。登夢』
――やっぱり。
寝るか鍛えるかの二択。修行僧にも程がある。
父に怒鳴られる前に“あらまき商店”へ戻らねば――そう考えて離れを出たその瞬間、台所から柔らかな声。
「おはようございます、荒巻さん」
草薙昭。登夢の母だ。
朝の光をそのまままとったような、優しい微笑みを浮かべている。
「あ、おはようございます。昨日泊まってしまって……」
「いいのよ。登夢がそう言ったんでしょう? それに、今日は“お休み”でしょ」
「え、朝から仕込みが──」
「大丈夫。もうお父さんには話してあるわ。安心して登夢たちを手伝ってあげてね」
シャケは一瞬固まった。
相変わらず、この家の本当の参謀はお母さんだ。
「……ありがとうございます。本当に助かります」
「こちらこそ。登夢たちをよろしくね」
昭が差し出したのは、朝食をぎっしり積んだワゴン。
焼きたてのクロワッサン、ハムエッグ、湯気の立つスープにジュース。
「これを道場までお願いできる? 登夢と、平と、成の分」
「任せてください!」
外に出ると、爽やかな朝の空気が肺を抜けた。
風で揺れる竹の葉が、細かな影を落としている。
そこへ白い稽古着の少女が駆け寄る。
「荒巻さん、おはようございます!」
登夢の妹、成。
兄と同じ瞳を持ちながら、彼とは違って無邪気な光を宿す。
「おはよう、なるちゃん。兄貴たち、もうやってるのか?」
「うん! 登夢お兄ちゃんも平も、もう汗びっしょりだよ! 見てるだけで暑くなりそう!」
「ほんと、修行僧だなあ……」
「ふふっ、そうかも!」
二人で道場の戸を開けた。
空気が変わった。
パンッ──!
乾いた衝撃音が、床板ごと空気を震わせる。
次の刹那には、低くうねるような息づかい。
登夢と平が向かい合っていた。
白い道着ではなく、薄手の稽古着。
素手。
無駄が一切ない構え。
平が先に踏み込む。
沈むような重心移動から、鋭い右の突き。
登夢は一歩も退かない。
外受けで受けるだけでなく──
受けた瞬間、肘の角度で平の前進力を“殺す”。
(……いつ見ても、これ人間か?)
平はすぐに蹴りに移る。
腰の回転を使った綺麗なミドル。
だが登夢は後ろへ逃げず、逆に懐へ滑り込んだ。
足払い。
平の体勢が崩れ、畳に手をついて辛うじて倒れ込みをこらえる。
成が横で嬉しそうに解説した。
「いまの“刈り入り”って技だよ! お兄ちゃん、これ得意なんだ!」
(得意ってレベルじゃねえ……)
息を整えきれない平へ、登夢が短く言う。
「もう一度」
「……はい!」
今度は登夢が先に動いた。
踏み込み。
床が低く鳴る。
次の瞬間、拳が平の頬を数センチで止まる。
風だけが平の髪を揺らした。
続く連撃。
肘、裏拳、掌底。
すべて“流れ”の中にある。
力でなく、精密な軌道だけで倒すような動き。
(……やっぱ修行僧だわ、こいつ)
数分の稽古。
けれどその密度は、素人が数時間かける練習の比ではなかった。
二人が礼を交わしたところで、登夢はシャケの方へ顔を向けた。
額の汗をぬぐい、呼吸を整えながら言う。
「……シャケ、頼みがある」
「うわ、はい来た。嫌な予感しかしねぇ」
「風見鶏まで行って、谷神姉妹を迎えてくれ。レコーディングに遅れる」
「寝起き最悪ツートップね。了解」
「俺は燃を迎えに行く」
「赤紙燃? ……あの人、絶対寝てるよ。南無」
登夢は無駄のない動きでまっすぐ歩き出す。
背中に刀はない。
それでも、“芯”の通った鋼の線が見える。
庭を抜ける朝の風が、稽古の熱気を冷ますように吹き抜けた。
静かだ。
けれどその奥で──
軽音部の騒がしい一日が、もう転がり始めていた。




