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22/22

姫を守れと言われた日、僕は許されない恋を知った

◇15歳の夏


湖から吹く風が、薄いカーテンを揺らした。


僕はバルコニーの手すりに手を置き、遠くの水面を眺めていた。


あの日の記憶は、いつもこういう穏やかな昼下がりに戻ってくる。


――11年前。

シン様が姿を消した朝のこと。


「シュリ? こんなところにいたのね」


振り返ると、陽を受けて輝く金の髪と、まっすぐな青い瞳があった。

ユウ様だ。


十五歳になった今では、幼い頃よりぐっと大人びた。


それでも僕を呼ぶ声だけは、昔のまま温かい。


「また考え事をしてたでしょう?」

ユウ様は小さく微笑んだ。


その笑みを見るたび、胸の奥が痛くなる。


「・・・シン様のことを思い出していました」


まつ毛がかすかに震える。


「・・・私も、忘れてないわ。あの日のこと」


風がふわりと二人の間を抜けた。


触れようと思えば触れられる距離。


でも――触れてしまえば、もう戻れないことをお互い知っている。


「ユウ様。少し・・・昔話をしてもよろしいですか?」


「ええ。聞かせて」


僕は静かに息を吸い込んだ。


11年前、ユウ様が初めて泣いた、あの朝のことを語るために。



◇ 11年前の朝


冷たい風の吹く、いつもより静かな朝だった。


「シンがいないの! シュリ、一緒に探して!」

ユウ様は泣きながら、僕の服を握りしめた。


シン様はユウ様より一つ年上の、

いつも僕たちの前を歩く“頼れる兄”だった。


ユウ様の青い瞳からは涙がこぼれ落ち、

金色の髪はぐしゃぐしゃで、胸が痛くなるほど必死だった。


「だいじょうぶ。僕が探します。だから・・・泣かないで」


そう言いながら、手は震えていた。


4歳の僕には、何が起きているのか分からなかった。


ただ――ユウ様が泣いている。


その涙が不安で仕方ない。


その事だけが胸の奥で膨らんでいた。


僕ら二人は、朝の城を必死に駆け回った。


いつも三人で遊んでいた廊下も、

広場も、

台所の裏庭も、

温かい陽の当たる窓辺も。


シン様の黒い瞳が、どこにも見つからなかった。


「・・・どうして? どうして、シンはいないの?」

ユウ様の声は途中からほとんど掠れていた。


けれど僕には

「どうしよう、どうしたらいい」

という自分の胸の音の方がよく聞こえていた。


その時、ようやく気づいたのだ。


僕はユウ様の涙が、世界で一番苦しい。



◇


僕らは泣きながら、彼女の母シリ様の元へ走り込んだ。


「シンがいないの!!」

ユウ様の叫びに、シリ様は息を呑み、僕たちの前にしゃがみこんでくれた。


「シンは・・・遠くへ行きました」

その声は震えていた。


「どうして? どうして行かなくちゃいけないの?」


ユウ様の問いに、シリ様は苦しそうに目を閉じた。


「この城が、もうすぐ攻撃を受けるからです。

あなたたちは姫なので守られますが・・・シンは男の子。

だから――逃がしました」


その瞬間、ユウ様の小さな肩が震えた。


あの日の空気は今も忘れない。


暖炉がついているはずなのに、

部屋全体が冷たい井戸の中みたいだった。


シリ様は優しい手で僕らの頭を抱え込み、

「生きていれば、必ず会えます」と震える声で言った。


シリ様の言葉を聞いたあと、

僕はユウ様の手を握りながら、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。


その時、はっきり悟ってしまった。


――もうシン様には会えない。


優しいシン様。


乳母子の僕にも一度も偉ぶらず、

まるで本物の兄のように接してくれた人。


ユウ様が泣けば、いつだって黒い瞳を輝かせてなだめていた。


怖い夢を見れば一晩中そばにいてくれた。


僕が転べば一緒に土だらけになって笑ってくれた。


小さなころから、三人で一緒に過ごしてきた。


これからもずっと、同じように――何の疑いもなく、そう思っていた。


なのに。


幸せは、あっけなく崩れた。


音もなく、朝の光の中で跡形もなく消えた。


その現実を、四歳の僕は言葉で理解できなかった。



◇


その日の昼過ぎ、僕はユウ様の父である領主――グユウ様の執務室に呼ばれた。


普段、足を踏み入れることのない場所。


扉の前に立っただけで、心臓が喉まで上がってきた。


隣にいる母・ヨシノも、いつになく緊張している。


僕の母はユウ様の乳母だ。


そして僕は――乳母の子として生まれた瞬間から、

“シン様に仕える”運命が決められていた。


けれど、そのシン様はいない。


僕は・・・これからどうなるのだろう。


不安が胸の奥で渦巻いた。


重い扉が開き、広い部屋の奥でグユウ様が静かに頷いた。


僕が震えて立ちすくむと、

グユウ様はわざわざ僕の目の前まで歩み寄り、

膝をついて目線を合わせてくれた。


それだけで、胸がぎゅっと締め付けられた。


「シュリ」


名前を呼ばれた瞬間、背筋が固くなった。


「今日からお前は――ユウの乳母子になってくれ」


その言葉に、近くにいたシリ様も、母も息を呑んだ。


「グユウさん・・・シュリは、男の子よ?」

シリ様がためらいながら言う。


「わかっている」

グユウ様は、迷いなく答えた。


そして僕の頭を、優しく撫でた。


「ユウは特別な子だ。光が強い子は、影も同じだけ背負う。

その時――男の乳母子がそばにいれば、きっと支えになる」


意味はよくわからなかった。


ただ、その響きだけが胸に深く刻まれた。


領主からの直々の命。


四歳の僕に拒む権利などない。


それでも、震える声で返事をした。


「・・・はい」


こうして、僕はシン様に仕える立場から、ユウ様の乳母子へと役目を変えた。


人生が変わった瞬間だった。


◇


ユウ様の乳母子に任命されてから、

僕は――彼女との距離にずっと悩んでいた。


明るく人懐っこいシン様とは違い、

ユウ様は癇癪持ちで、強い気性を隠さなかった。


時々、鋭い青い瞳で僕をじっと見つめる。


その視線に射抜かれると、胸がすくみ、言いたい言葉が喉の奥に沈んでしまう。


まして、シン様がいなくなった後のユウ様は、

心がぐらついていて、不安定だった。


僕は、何を言っていいのかわからなかった。


ただ、彼女のそばに立つしかできなかった。


無言で俯くユウ様。

隣に立つだけの僕。


夕方になると、

ユウ様は決まってシン様を思い出し、声を殺して涙を落とした。


その震える背中は、見ているだけで胸が痛かった。


僕にできたのは、

ただそっと背中に触れ、温もりを伝えることだけ。


気の利いた慰めも言えない。


ただ――

彼女がひとりで泣かないように、隣にいることだけは、やめなかった。


それが当時の僕にできる、唯一の“支え”だった。



◇


ユウ様の乳母子になって、半月ほど経った頃のことだった。


その日の朝から、城全体がざわついていた。


侍女も兵も皆、顔を強張らせて走り回っている。


――何かあった。


幼い僕にも、それだけはわかった。


けれど誰も僕のような子どもに事情を教えてはくれない。

ただ、冷たい風だけが廊下を抜けていった。


そんな中で、ユウ様がふいに言った。


「・・・西の部屋に行く」


止めても無駄だと知っていた。


だから、僕は慌ててその後を追った。


ふたりで椅子を引きずり、

よじ登って、背伸びをして――窓の外を見た瞬間、息が止まった。


遠くにあるはずの館が、真っ黒な煙と炎に包まれていた。


ユウ様の祖父母が暮らしていた館だ。


赤い火の粉が空に舞い、

その周囲を、黄色の旗を掲げた兵たちが取り囲んでいる。


幼い僕にも理解できた。


あの館が燃やされたなら、次はこの城が狙われる。


「・・・おじじ様と、おばば様は・・・?」

ユウ様の声は、細く震えていた。


胸の奥がぎゅっと痛くなった。


何もわからないのに、

何も守れないのに、それでも、何かしなくてはと思った。


「ユウ様・・・」

気づけば、僕はユウ様を抱きしめていた。


何が“大丈夫”なのかなんてわからない。


けれど、言わなければいけない気がした。


「・・・大丈夫です。僕がいます」


その瞬間、ユウ様が顔を上げた。


青い瞳が揺れて、涙がこぼれ落ちる。


「シュリ・・・どうしたらいいの・・・?」


抱きしめた腕の中で、

ユウ様が小さく僕の名を呼んだ。


それは、これまで一度も聞いたことのない声音だった。


強くて、負けん気ばかりで、

誰にも弱みを見せたことのないユウ様が―ー

僕の服を握りしめて震えていた。


その小さな指先の震えが、

はじめて“僕を必要としている”と教えてくれた。


その瞬間、ユウ様は僕に心を預けてくれた。


あの時、初めてユウ様が僕のことを『乳母子』と認めてくれた。



◇


それから三日ほど経った頃だった。


朝食のあと、母が不自然なほど明るい声で言った。


「ユウ様・・・今日は、お出かけしましょう」


――お出かけ?


僕もユウ様も同時に顔を見合わせた。


物心ついた時から、城の外に出たことなど一度もない。


「ヨシノ・・・外の世界に行けるの?」

ユウ様は期待するように、けれど不安そうに尋ねた。


母は一瞬だけ、苦しそうに視線を逸らした。


そして、小さく頷いた。


「・・・ええ。外へ行きましょう」


なぜか母の声は震えていた。


事情もわからないまま、僕たちは馬車に乗せられた。


馬車は静かに動き出し、城の裏手の森の中を進む。


やがて、重い裏門の前で止まった。


「降りましょう」

母の声が、かすかに掠れている。


僕は慌てて飛び降り、そして――息を呑んだ。


馬車の後ろに、兵がいた。


数人ではない。


ずらりと、まるで盾の壁のように並んでいる。


ウイ様は小さな体を強張らせ、言葉ひとつ発しなかった。


「・・・母さん?」

僕は震える声で母を見上げた。


母は唇を噛み、肩を震わせていた。


ーー何か、とても悪いことが起きている。


ユウ様が僕の手をぎゅっと握った。


その小さな手は冷たく、汗で湿っている。


◇


重い裏門が軋む音をたてて開いた瞬間、

冷たい風がひゅう、と頬を撫でた。


光の中に――

領主グユウ様と、妃シリ様が立っていた。


ふたりとも、いつもの柔らかい表情ではない。

覚悟を固めた者だけが宿す、静かな強さがあった。


「ユウ、ウイ、レイ・・・こちらへ」


呼ばれた瞬間、ユウ様は胸の奥の不安に突き動かされるように走り出した。

その後を、ウイ様と僕も慌てて追いかける。


ユウ様は、ぐっと顎を上げて父を見上げた。


震えているのに、泣くまいとするその姿は、

幼いながら姫の品格を持っていた。


「・・・父上?」


その小さな呼びかけに、

グユウ様の厳しい表情がわずかにほどける。


膝をつき、両腕を広げると、ユウ様とウイ様を抱き寄せた。


「ここで・・・お別れだ」


ほんの一瞬、ユウ様の青い瞳から色が消えた。


「・・・どう、して」

息が震え、声がかすれる。


それでも、決して取り乱さない。

ユウ様は、そういう子だ。


「父は争いに負けた。この城は・・・間もなく攻め落とされる」


グユウ様は、子供を見るのではなく、

ひとりの“家の後継”を見るような真剣な眼差しだった。


「父はここを離れられない。

だが・・・お前たちは必ず、生き延びねばならぬ」


その言葉で堪えきれなくなったのはウイ様だった。


小さな肩を揺らし、声をあげて泣き出す。


ユウ様は唇を強く噛み、震えながら涙をこらえていた。


胸が痛いほど苦しくて――僕はただ、ユウ様の袖をぎゅっと握りしめた。


「ユウ、母と妹たちを頼む」


その言葉に、ユウ様の喉が小さく震える。


ほんの一拍の沈黙があって――


「・・・はい」


掠れた声だったけれど、その返事は、誰より強かった。


その後ろで、ウイ様が泣き叫ぶ。


「いや・・・父上も来て・・・!」


家臣のオリバーが優しく包みこむように抱きあげ、

泣き声を振り切るように門の外へ連れていく。



「頼む」

グユウ様が母ヨシノに視線を送る。


母は唇を噛み、深くうなずく。


「ユウ様、参りましょう」

母が声をかけるが、ユウ様は首を激しく振った。


「嫌!!父上のそばにいるの!」


ユウ様はグユウ様の袖から手を離さない。


その小さな手には、必死の願いが込められていた。


僕は、その横顔を見て、胸の奥がぐっと熱くなる。


ーーシン様なら、この時、何と言っただろう。


ユウ様より一歳上の、優しい兄。

僕やユウ様にとって、太陽のような存在だった人。


泣きたい時は隣にいてくれた。

怖い夢の日は背中を擦ってくれた。

僕が転んだら一緒に笑ってくれた。


もう、シン様はいない。


なら――


僕が、その役目になるしかない。


ユウ様が泣いても、僕が支える。

倒れれば、僕が立たせる。

怖がれば、僕が手を握る。


胸の奥で、言葉にならない誓いが静かに形を成した。


僕は、ユウ様の肩にそっと手を置いた。


「ユウ様・・・参りましょう」


強い声ではなかった。

ただの、震える僕の声。


でもユウ様は、はっと僕を見た。


青い瞳が揺れ、

その中に、深い迷いと、痛みと、かすかな信頼が映っていた。


「・・・シュリ」


小さな声が、僕の名前を呼ぶ。


次の瞬間、グユウ様の静かな声が重なる。


「シュリ。ユウを頼む」


その言葉は、幼い僕には重すぎるほどだった。

けれど、迷いはなかった。


「はい」


声が震えても、返事だけは強く言えた。


僕はユウ様の手を握った。


その手は冷たく、細く、それでも――握り返してくれた。


「父上・・・!」


ユウ様が最後に振り返ると、グユウ様は優しく微笑んでうなずいた。


その表情を見た瞬間、ユウ様の足が出口へ向かって動いた。


一歩、門を出た瞬間。


ユウ様は、張りつめていたものが崩れるように、

僕の胸に飛び込んできた。


「・・・っ・・・」


声にならない泣き声が、衣を濡らした。


僕は両腕で抱きしめ、倒れないように、離れないように支えた。


何も言えない。

慰める言葉も持っていなかった。


ただ、抱きしめる腕だけは決して緩めなかった。


ーー守る。


その日、僕は生涯の中心になる“誓い”を

まだ幼い胸の奥に静かに刻んだ。


◇


その記憶は、今も胸の奥で熱を帯び続けている。


「・・・そんな昔のことまで覚えてるのね」


ユウ様は、僕の肩にふわりと視線を落とした。


どこか遠くを見るような、少し大人びた、繊細な瞳だった。


「もちろんです。僕の生き方が決まった日ですから」


そう言うと、ユウ様はほんの少し目を見開き――

そして、頬を赤く染めた。


「・・・シュリはいつも私のそばにいてくれた」


口調は強いのに、声が震えている。


成長と共に僕は気がついた。


姫に男の乳母子。


それは異例のことだった。


けれど、グユウ様の予言通り、ユウ様には様々な試練が降り注いだ。


グユウ様の判断は間違ってなかった。


けれど、グユウ様の思惑と違うことが1点だけある。


その想いは、あの日の裏門で、生まれてしまったのだと思う。


それは、僕はユウ様を好いてしまったことだ。


十四歳の冬に初めて口づけを交わした。


ユウ様は・・・どう思っているのだろうか。


それを知りたくても、聞けない。


なぜなら、姫と乳母子。


決して、許される関係ではないからだ。



十五歳のユウ様は、

昔よりずっと綺麗で、ずっと立派で、

それでも時々、四歳のあの日のように揺れる。


それを見るたびに思う。


僕は、誰よりもこの人の涙に弱い。


だからこそ、誰よりも強くなりたい。


夕陽が湖の面を照らし、金の光が二人の影を長く伸ばした。


「あの日からずっと・・・僕は、ユウ様の味方です」


ユウ様は胸の奥で小さく何かを噛みしめるように、

ゆっくりと頷いた。


「・・・知ってるわ、シュリ」


その声は――心の底から、嬉しそうだった。


「シュリ、私のそばにいてくれる?」


「ユウ様が望む限り、いつまでも」


許されぬ関係でも、心だけは並んで歩ける。


二人の手は触れなかった。


けれど――触れなくてもわかる。


この先の未来を、もう離さない。



いつも読んでくださり、ありがとうございます。


毎週更新していた短編ですが、

年末は何かと忙しくなるため、しばらくお休みをいただきます。


ただし、連載(本編)はこれまで通り、毎日更新を続けます。

今年も残りわずかですが、どうぞよろしくお願いいたします。


短編を読んでくださり、本当にありがとうございます。


今回のエピソードは、

ユウとシュリの“原点”となる場面――

二人の運命が静かに動き始めた日の物語でした。


この短編から続く物語は、

親世代から子世代へ受け継がれる

《血と愛と宿命》を描く『秘密を抱えた政略結婚』シリーズの一部です。


そしてーー

ユウ×シュリの恋の続きは、ここから本格的に始まります。


▼シリーズ本編(ユウ×シュリの続きはこちら)


『秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―』

https://ncode.syosetu.com/n9067la/

<連載中・第三部:二人の恋が動き出す>


そして、今日は短編を更新しました。


本編では触れられなかったシンの逃亡劇と、

“偽りの家族”となる三人の物語を短編化しました。

読み切り(約1万字)です。


『落城寸前、家臣と偽りの夫婦になりました』

https://ncode.syosetu.com/n4192ll/


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