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第2話「現実は、無情で、非情」

「あ、灯里(あかり)ちゃん! せっかくなら二人で掃除する?」

「制服が汚れちゃいますよ」

「なかなか掃除のし甲斐があるねっ!」

「演奏家志望の人を、怪我させるわけにはいかないので……」


 理科とは無縁そうな道具や資料が山積みの中……そもそも、一体何に使うのか分からないような道具や資料が山積みの教室。

 人手は一人でも多い方が助かるけれど、百合宮さんの手は将来数えきれないほどの人を幸せにするための手。

 傷ひとつ許されない体なのだから、まともに清掃なんてさせるわけにはいかない。


「百合宮さんは、雑巾禁止です」

「えー」

「私も、普通の高校生をやりたいなーって」


 どこから手を付けようかと頭を悩ませていたときに、百合宮さんがいる方向を振り返った。

 百合宮さんが笑顔を浮かべていることに間違いはない。

 けれど、百合宮さんが河原くんのような無理に笑おうとしていう笑顔を作り込んでいて、私の心はちくりと痛みを訴えかけてくる。


「今を……楽しみたいですよね」

「そうっ! ヴァイオリニストを目指している気持ちは本物でも、なれるかどうかは別問題だから」


 自分にも夢を抱いていた頃があったからこそ、百合宮さんの気持ちはとても分かる。

 高校生活を楽しみたい自分も本物で、プロになりたい気持ちも本物。

 将来が約束されていない実力だからこそ、私たちの心は揺れ動く。


「適当に箒、探してくるね」

「私が行きま……」


 音楽で食べていくことを決心して今までの人生を生きているはずなのに、音楽で食べていくことのできる人間の数は決まっている。


「百合宮さ……」

「箒くらいは触らせてー」


 こんなに無邪気な笑顔を向けてくる百合宮さん。

 彼女がどんなにヴァイオリンを愛していても、どんなに音楽への思い入れがあっても、百合宮さんを必要としてくれる人と出会わない限りプロの道は拓かれない。


「あーかりちゃんっ」

「百合宮さん、軍手」


 箒を取りに行って戻ってきた百合宮さんに、私は探し求めていた厚手の軍手を手渡す。


「女子高生は、軍手なんて身に着けません!」

「怪我! してもいいんですか?」

「うっ……」


 軍手を身に着けることに抵抗を示す百合宮さん。

 それでも、自分が抱いている夢を思い出した百合宮さんは渋々と軍手を受け取ってくれた。


聖籠(せいろう)高校だったら、音楽科がありましたよね? 掃除も免除されるのでは……」

「さっきも言ったでしょ? 私は、普通にも憧れるの」


 楽器を演奏する人にとって、ほんの小さな傷が命取りになることは知識として知っている。

 たいしたことのない傷でも、演奏には大きな影響を及ぼす。

 聴く人が聴けば、奏でる音の違いはすぐに分かる。

 知識としては蓄えられているはずなのに、普通の女子高生としての生活を望む気持ちもあるからこそ百合宮さんは苦しんでいるのかもしれない。


「私の実力だと、プロになれるかどうか怪しくて……」


 土曜日に開催される特別講義はお昼で終わったため、今はまだ太陽が輝く時間帯。

 百合宮さんは開いた窓から、淡い青が広がる外の景色を見渡した。

 大きく深呼吸をして、新鮮な空気を吸い込みたくなる彼女の気持ちがよく分かる。


「実力が中途半端。プロになれるかなれないか、微妙な位置に立っているのは、自分が一番よくわかるから」


 やることが山積みの部屋で吸い込む空気は、まだ美味しく感じられない。

 窓を開けることで新鮮な空気を取り込むことができるようになったのに、空気を吸い込もうとする動作に息苦しさを感じる。


「灯里ちゃんは昔、天才ヴァイオリニストって呼ばれていたでしょ?」

「昔の話を掘り起こさなくても……」

「私が産まれる前の話だっけ?」

「同い年です!」

「ふふっ、ごめんなさい」


 表情がころころと変わる百合宮さんは、小学生みたいな元気で快活な印象を与えてくる。

 でも、この感受性の豊かさが将来の彼女の大きな力になるのかもしれない。


「不安と、どうやって闘ってきたの?」

「私は、闘うことを諦めた人間です」


 少しも日当たりの良い教室とは言えない場所で、私は気丈に振る舞う。

 眩しいくらいの太陽の光を浴びることができない場所で、私は次の未来に向かっているフリをする。


「不安と闘うことが、怖くなっちゃいました」


 幼い頃は、望む未来を実現するために命を捧げる覚悟を持っていたはずなのに。

 いつの頃からか、心を燃え上がらせるほどの燃料がなくなってしまった。


「あんなに好きだったんですけどね」


 現実は、無情で、非情。

 そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。

 でも、どこかの大人が表現した通り、現実は無情で非情だと感じた。

 だから、私は大好きなものを手放した。大好きなものから離れる決意をした。


「もう、引いてないの……?」

「ヴァイオリン、売却したんです」

「……そっか」


 ヴァイオリンを手放そうと思った瞬間と、家庭の経済状況が悪化したのはほぼ同時。

 逃げるには最適の環境が用意されてしまって、私はその既定路線に乗っかってしまった。

 それが、自分の心を守る一番の方法。

 そんな言い聞かせを続けながら、私は今日まで生きてきた。


「今の私は、普通の高校生です」


 ピアサポート部の顧問の深野先生が言っていた通り、同じ高校に通う同士っていうのは大きな強みだと思う。

 初めましての相手でも、共通の思い出や感情があるだけで話を膨らませることができる。

 そういう意味では安堵の気持ちを抱くけど、共通があるということは他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうときもあるということ。


「お金……かかるもんね」


 安価で購入できるヴァイオリンももちろんあるけれど、幼い子どもの習い事と考えると体の成長に合わせてヴァイオリンを買い替えなければいけない。

 いつまで習い事を続けるかにもよるけれど、ヴァイオリンが高級な習い事であることに変わりはないと思った。


「子どもって、ずっと子どものままですよね」

「自分で稼ぐことができない限り、ずーっと私たちは子どもだね」


 互いの事情を知りながらも、互いの事情に踏み入りすぎない。

 ちょうどいい距離感の中、私たちは互いに置かれている環境下を思い合っているのを感じる。

 だからこそ、百合宮さんとの間に流れる空気にも不快感が発生しない。


「夢って、裕福な人しか叶えることができないのかな」

「そうであってほしくないですけどね」


 両親の収入によって、子どもの人生が変わるっていうのは本当かもしれない。

 でも、両親の収入が理由で、子どもの夢が狭まることのないようにと願わずにはいられない。

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― 新着の感想 ―
素晴らしい! これぞ純文学だ! 著者の文章表現は舌を唸らせる。 心に留めておきたい……そんな小説 ☆5入れときました!! 応援しています!! 頑張ってください!!
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