第1話「教師じゃない私」
(今日のお話し会は、第二理科室……)
着慣れない制服を着ている自分は、周囲から浮いてしまってはいないか。
それを確認したくても、放課後の廊下は初対面の人ばかりが溢れ返っている。
人の目を気にしすぎていると気づいたから、私は窓の向こうへと視線を逃走させる。
(高校って、理科室が二つもあるんだ)
そもそも理科室を利用する機会に恵まれていないため、目的の教室に辿り着くまでが一苦労。
中学時代は理科室での実験が多かった気もするけれど、高校での理科系統の学習は大学受験に合格するためのもの。
理科室なんて飾りだけのもので、自分の体で起きている事象を体験するという機会には恵まれないまま高校生活を終えてしまうような気がする。
(教師じゃない私は、何ができるのかな)
ピアサポート部の部員は、同じ高校生。
ピアサポート部の生徒と話をしたいと思っている相手も、同じ高校生。
悩みがあるのなら、高校生ではなく教師に話すべきかもしれない。
でも、ピアサポートの制度を利用する人たちは教師ではなく、同世代の子に話をすることを選んでくれた。
部活内で行われている研修の内容を頭に浮かべながら、私は目的の教室へと足を運んでいく。
(他人の人生を変える可能性……)
言葉は人を傷つける武器にもなるけれど、人を救う武器にもなる。
私たちピアサポート部員は、そのことをしっかりと頭に入れておかなければいけない。
昨日今日が初めましての人たちと関わることの責任の重さと言ったら、とても一人で背負いきれるものではない。
(それでも、やるしかない)
ピアサポート部での活動を乗り切れるかどうかが、自分の未来を決めるような気がする。
教師になりたいって希望はあっても、私の未来はまだ何も決まっていない。
神様が現れて、君が進む道はこっちだよと教えてくれるわけでもない。
(今の私にできるのは、今の人生を生きること)
静かに扉を横に移動させ、第二理科室という名前の教室に足を踏み入れる。
生徒同士のお話し会のため、部屋に鍵をかけることはできない。
扉は必ず開けたままで、いつ顧問の先生が部屋を訪れても大丈夫にしておかなければいけない。
「あ……すみません、お待たせして……」
「あ、本物の羽澤灯里ちゃんだ~」
私を待っていたのは、眩しいくらいの笑顔が特徴的な女の子。
初めて会うにもかかわらず、いつも多くの友達に囲まれているんだろうなって容易に想像できてしまうような社交性に心惹かれる。
「あの、百合宮さんとは、初めましてですよね? どうして私の名前を……」
「感激だな~! あの天才ヴァイオリニスト、羽澤灯里ちゃんとお話しできる日が来るなんて」
ぎこちないだろう笑顔を返した私に対して、お話相手の百合宮さんは満面の笑みを浮かべながら話しかけてくる。
そして、彼女が私の名前を知っていた理由にも気づいてしまった。
「今は、ただの高校生ですよ」
「ただの高校生じゃないよ! 私からすれば、灯里ちゃんは憧れの人だよ!」
幼い頃に経験した記憶が甦ってくる。
蓋をして、永遠に開かなければいいのにと思っていた記憶が、扉をとんとんと叩いてくる。
「指定された教室はここですけど、かび臭いですね……この教室……」
「窓、開けてもいいかな?」
「開けましょう」
才能がない者は、夢を諦めなければならないと宣告された日の事を思い出す。
「先生に言って、場所を変えてもらいましょうか?」
「灯里ちゃんとお話してみたかっただけだから、場所はどこでも大丈夫だよ」
才能がないなら、才能がないなりに努力をすればいいと思っていた。
才能がある人に負けないためには、努力を積み重ねていくしかないと思っていた。
だけど、最後の最後には。
努力は才能に勝てないということを思い知らされたときの、あのときの感覚が鮮明に思い出される。
「私の名前を知っているってことは、百合宮さん……」
「世界で活躍するヴァイオリニストを志望している、百合宮杏珠ですっ」
暗くて陰湿な雰囲気さえも漂う教室なのに、百合宮さんの笑顔は消えたりしない。
彼女だったら、世界を魅了できるほどの実力ある演奏を響かせることができるのかもしれない。
「灯里ちゃんに会えて、すっごく感動してるの」
「……ありがとうございます」
何を、どう努力すれば、天才の領域に届くのだろう。
考えた。
でも、分からない。
いっぱい考えた。
でも、分からない。
どうすればいい?
どうしたら、私は世界に勝つことができるの?
勝つための方法を、ひらすら考えてきたときのことを思い出す。
分からない。
分からない。
分からない。
努力って、何?
『よくヴァイオリン、続けられるね』
『好きだからって、続けられるものでもないからなー……』
『追いかけるのも大変だけど、上からの転落はもっと大変だよね』
諦めよう。
諦めよう。
諦めてしまおう。
大好きなものを手放す喜びを受け入れよう。
終わるんじゃなくて、これは始まり。
私の、第二の人生開幕。
諦めよう。
諦めよう。
諦めよう。
私が幼い頃に、大好きな世界から卒業することを選んだことを思い出す。