第5話「夢、見つけた?」
「あのとき、誰も先生を馬鹿にしなかった」
「みんなが、先生の言葉に夢中になりましたね」
「……あのときの空気感、俺、忘れられなくて」
静まり返った体育館。
澤崎先生は話し終えると、優しい笑顔を浮かべた。
厳しい先生だよという噂を聞くだけだった澤崎先生が、生徒たちに向けて柔らかく微笑んでくれた。
あ、先生は生徒を傷つけるために言葉を向けたんじゃないって分かった。
あ、先生は、他人生徒の未来を想ってくれている人なんだって気づいた。
「先生の影響、受けまくって……」
あの離任式のあと、みんなで澤崎先生の授業を受けてみたかったと話し合ったことは今も記憶に新しい。
まるで、澤崎先生の言葉は魔法のようだった。
無関心の空気が漂っていた体育館に言葉の魔法をかけて、生徒たちは表情を変えた。
それだけ、先生の言葉は生徒の心に刺さったということ。
「鐘木高校に入学するって夢を立てて、それに向かって頑張ってきたのに……」
河原くんのために何もできないと思っていたけれど、同じ思い出という共通は彼の話を聞くための力になる。
「はい、今日からは次の進路に向かってくださいとか言われても……ね」
だったら、大学を目指せばいい。
そういう話ではないからこそ、私たちは真剣に迷っていく。
誰も迷子になんてなりたくないのに、真剣な表情で出口の見えない迷路をさ迷っていく。
「羽澤さんは……?」
ずっと、手の届かない空に目を向けたままだと思っていた河原くんの視線。
彼の視線が、私を真っすぐ見つめる。
「夢、見つけた?」
春風が穏やかに頬を撫でるような、そんな高校生活を夢見ていた。
窓から太陽の姿は見当たらなくても、空の青さだけははっきりと視界に映り込む。
私は、河原くんの問いかけから逃げ出した。
空の青さを愛でる勇気が私にはなく、私の青春はくすんだ灰色。
濁った色を、河原くんには見せたくない。
「私は……」
教師になりたい。
それが私に与えられた夢のはずなのに、夢を言葉にすることを躊躇った。
「こう生きたいっていう理想はあっても……」
正確には、躊躇ったとは違うかもしれない。
毎日の中に抱える不安があまりにも大きすぎて、私なんかに教師になるという夢を叶えられるのか。
そんな迷いが、私の口を理想通りに動かしてくれない。
「毎日、不安で……いっぱいいっぱいで……」
夢を語る余裕が、ない。
風に揺れる木々の音は、未来に対して否定的になっている私の気持ちをかき消してはくれない。
あまりにも心細くなって、とうとう私は河原くんに視線を戻すことができなくなってしまった。
「不安なんて分け合えばいいよって言うけど」
視線を戻すことができなくなった私に気づいたのか、それとも空の色を見たいという気持ちが河原くんにもあったのか。
私たちは一緒に、同じ窓へと視線を向けた。
「他人に不安、託せるわけないよね」
私たちの視線は、交わらないまま。
「不安を背負うことができるのって、結局は自分だけなんだよ」
ピアサポートの存在そのものを否定するような言い回しをする河原くん。
そのまま言葉を受け取るだけなら辛辣だなとも思ってしまうけれど、河原くんの声には優しさがある。
昔のような朗らかな笑顔は彼から見られなくなってしまったけれど、彼がくれる優しさは今も昔も変わっていない。
「あ」
河原くんの気づきに、私は目をほんの少し大きく見開いた。
「吹奏楽部の演奏ですね」
ふと、耳に届いたのは吹奏楽部の演奏。
私たち二人の視線が交わることはないけれど、私たちは一緒に聞こえてくる音楽に聴覚を引き寄せられていく。
「羽澤さん、吹奏楽部には入らないの?」
「どうして……」
「受験の日、聞こえてきた演奏に、すっごくいい表情をしてたから」
一緒に窓向こうへ視線を投げていたはずなのに、ここで河原くんが私に視線を向けたことに気づいた。
いま振り向けば、彼の笑顔に会えるかもしれない。
そんな希望が生まれたのも確かだけど、昔のような笑みを失った彼が、そう簡単に笑顔を向けてくれるわけがない。
そう思って、私は心の奥底まで届くような旋律に耳を傾けていく。
「……できたら、いいんですけどね」
晴れて受験生から卒業する瞬間を祝福するように流れてきた演奏は、近くの聖籠せいろう高校の管弦楽部のもの。
でも、私たちの聴覚に聖籠町高校の演奏は届かない。
鐘木高校を受験した日には確かに聞こえてきた管弦楽の音色が、私たちの空き教室に響き渡ることはなかった。
「また、戻ることができたらいいんですけど……」
空に吸い込まれそうになるくらいの青に魅了されながら、私たちは初回のお話し会を終了した。