第8話「ピアサポート部員」
「河原くん」
「うん」
そんな素直に『うん』なんて言葉を送られてしまっては、私は上手く言葉を組み立てられなくなってしまう。
何から話そう。
何から伝えよう。
何を、どんな言葉で河原くんに受け取ってもらえればいいのかを考える。
「もう少しだけ、河原くんとお話がしたいです」
「俺で良かったら」
この優しさに守られていると、独りになったときに怖気づいてしまうと思う。
それでも、河原くんと過ごす日々の中から、未来を生きる強さを見つけられるようになりたい。
「ちゃんと言葉、交わさないとかな」
河原くんの横顔を見ていたときには気づかなかったけれど、ふと彼の表情を視界に入れると……彼が向けている視線に違和感を抱いた。
「あ……」
河原くんの視線が、もうすぐで青い色を失ってしまう空に向かっているような気がした。
単に前を向いているだけと言われればそれまでだけど、前方を真っすぐ見ているように思えなかった。
「空……」
「ん?」
蒼い空を、見ているような気がした。
「河原くんは」
なんとなく。
なんとなくだったけれど。
そう思った。
「空、好きなんですか」
気づけば、私たちは足を止めていた。
河原くんを見つめることすら躊躇っていたはずなのに、ごく自然な形で私たちは向かい合うことになった。
思い切り逸らすこともできた視線を逸らすことなく、河原くんの瞳を真っすぐ見た。
「空?」
「え、あ……」
話題を探す。
必死になって探す。
河原くんを見つめていましたと釈明するだけでは、変な子の印象しか与えかねない。
明日も明後日も学校で会う仲なのに、そんな印象を彼に与えるわけにはいかずに焦る。
「河原くん……空が……好きなのかなって思って……」
考えた結果が、この話題だった。
「羽澤さんは?」
「私ですか?」
質問を質問で返されるとは思っていなかったうえに、この質問は自分が答え辛い質問だということを《《思い出した》》。
「昔は……大嫌いでした……」
太陽の色と空の色が混ざり合った蒼さが。
だけど、今は眩しすぎる空の色が苦手だった。
惨めになるから。自分が。
空の世界は綺麗に映るのに、自分が生きている世界はまったく美しくなかったから。
「今は好き?」
「あっ……あの、はい。むしろ、綺麗なものほど惹かれるかもしれません」
「なんでこんなに感性、似てるんだろうね」
好きと言葉にすることに照れて俯きそうになったけれど、顔を上げて、河原くんの顔を見た。
河原くんの視線は、青い色を失い始めている空の向こう側。
もうすぐで、青い空が終わりを迎える時刻が近づいている。
「こういう綺麗な空を見てると……」
河原くんの視線は逸らされることなく、空の向こう側にあった。
「昔あった嫌なこと、思い出す」
空の色が変わり始める瞬間に立ち会っているせいかもしれない。
春の空が、今までと違う哀しい色を映し出す。
「悪い、暗くなっちゃったなって。気分悪くない?」
彼の声を聞くと、あ、私はやっぱり彼の顔が見たいって思う。
「気分が悪くなるようなら、私はここにいませんよ」
この場に、河原くんと言葉を交わすことができる相手は私しかいない。
彼が私のことを気にかけるたびに、彼の視線が私に注がれていく。
「話が下手なところは、申し訳ないですが……」
歩を、進める。
「羽澤さんは、ピアサポート部員でしょ?」
止めていた足を動かす。
そんな、反則。
「っ、はい! 私は、音楽教諭、目指します!」
彼が私の前を歩けば、私は彼と目を合わせずに済む。
でも、置いていかれたくないと思った。追いかけたいと思った。
河原くんから許可が下りる前に、私は彼の隣へと並んだ。
「だんだん、音に触れる機会が減ってしまうんだなってことに寂しさを抱いたのが、教師を目指すきっかけでした」
最初は、天才ヴァイオリニストという肩書から逃げるため。
でも、高校に入学すると、音楽は選択科目という扱いになることを知る。
音楽を履修しない人たちが増えてきて、音楽の授業は中学で最後だったって人もいるってことを知っていく。
それが、音楽の教師への道に進みたいと思い始める理由。
「音楽に触れる最後の時間が、素敵なものになるように力を貸せたらいいなと思いました」
授業以外のところでは、多くの音に触れていくと思う。
大好きなアーティストを見つけて、大好きなアーティストを推していく。
好きな楽器を見つけたり、自分で声を発する楽しさを知って、習い事としての音楽に親しみを持つ。
それが、残された人生の中で楽しむ音楽のかたち。
「生徒が、周りを敵だと思わずに済むように……」
「敵?」
「未来の幸せを奪い合う敵、です」
河原くんと隣り合っているだけで、私たちの視線は交わらないまま。
でも、隣り合うことを許してもらえたことが嬉しすぎて、私は自分の気持ちを隠さずに話すことができるようになった。
「私はずっと、周りが敵だと思っていました」
中学受験を経験しなかった私は高校受験を通して、人が選抜されるという現実を知った。
高校に合格した人だけが幸福を受け取ることができるんだと思い込んでいた私は、上手く笑うことすらできなくなった。
「未来に待っている幸せの量は決まっていて、それを奪い合っていると思っていたんです」
友達の作り方も分からなくなって、友達と言葉を交わし合っている中でも上手く笑う自信がなくなった。




