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第7話「雲ひとつない春空に、会いたくなった」

「なんで……なんで……気づいちゃうんですか」

「あ、羽澤さん、泣きそうになってる」


 河原くんが、意地悪そうに笑う。

 その、今、浮かべた笑みは、無理をさせていないか。

 そこを見破るほど彼のことを、まだ知らないことが悔しい。


「泣きません」

「ん、羽澤さんが、そういうなら信じる」


 でも、彼との間に、無理という言葉が存在しなくて済むように、これからも心を配っていきたいと強く思う。


「母さんは置いていっちゃったけど……俺は、今も羽澤さんの演奏が好きだなって」

「そう言ってもらえると励みになります」

「あ、信じてないでしょ?」


 そんなことないって言い切らなきゃいけない。

 私は彼の言葉を信じなければいけない。

 それくらいのことは分かっているのに、言葉が詰まる。言葉が出てこなくなる。


「ヴァイオリンがすっごく上手い同い年の女の子がいるの」


 人の記憶は曖昧になっていくものなのに、その記憶に音楽を残すことの難しさを知っていく。


「それが、母さんの口癖だった」


 誰かの記憶に残ることができないと気づいた瞬間が、夢を諦めた瞬間。


「ちっちゃい頃、いっぱい勧められた」


 夢を諦める瞬間の痛みを知っているはずなのに、心が始まろうとしているのを感じる。


「同い年の羽澤灯里(はねさわあかり)さんが演奏している姿を」


 私が幼い頃に頑張った日々を、こうして記憶している人がいることを河原くんに教えてもらう。


「名前を覚えてなかったのは事実。嘘は吐かない。でも、羽澤さんがいなくなったあとも、羽澤さんの演奏を記憶に残して、羽澤さんの音楽を忘れないようにしてた人がいたってこと。信じてほしい」


 嬉しい言葉をいっぱい言われたはずなのに、なんだか現実離れした話を、どう受け止めていいのか分からない。


「こんなこと言われても、他人事だよね」


 自分が残した作品に、覚えていてもらえるほどの価値があったのだと泣きそうになる。


「本当に、あの演奏をしていた羽澤灯里さんとは思えない表情」


 あのときの、羽澤灯里と私は違うかもしれない。

 名前が同じだけで、まったく違う演奏をする二人かもしれない。

 過去を生きる私と、今を生きる私は別人かもしれない。

 それでもやっぱり、彼がくれる言葉に心が動かされる。


「自信、持って」


 人の記憶なんて脆いもので、覚えていようと頑張ったところで忘れてしまうものは忘れてしまう。

 それなのに、私の音楽を記憶に残そうとしてくれた人がいるっていう奇跡のような話を河原くんが教えてくれる。


「どっかの段ボールに証拠、残ってるんだけど……」

「持ってきてくれたんですか?」

「なんか、運命感じない?」


 そんな、益々、惚れこんでしまいそうになる笑顔を簡単に見せないでほしい。

 そんな簡単に、私の心も掴んでしまわないでと思う。


(でも、嬉しい)


 戸惑ったように唇を噛んだけど、河原くんの笑顔が私の心を揺らす。


「河原くん」

「ん?」


 いただいた麦茶を飲み干して、私は勢いよく立ち上がった。

 一緒に麦茶を飲んでいた河原くんを驚かせてしまったことは申し訳ないけど、これくらい勢いをつけないと立ち上がれないような気がしてしまった。


「海、行きませんか」


 雲ひとつない春空に、会いたくなった。

 立ち上がった理由は、ただそれだけ。

 厳しい冬を越えた春の、澄んだ青色の空に会いたい。


鐘木(しゅもく)高校に合格した特権だね」

「すぐそこが海って、なかなかないですよね」


 忘れられてしまうことって、意外と怖いものだなって思っていた。

 でも、もう俯くことはないのかなって、ほんの少しだけ自信が生まれた。


「羽澤さん、音楽馬鹿すぎて、碌に青春送ってこなかったでしょ?」


 ずばりと指摘されたことに、反論する術も見つからない。


「俺が、青春ってものがなんなのかを伝授してあげよう」

「ふふっ、なんですか、その喋り方」


 体中の血液が、私に暑さを訴えてくる。

 初めての経験ってものに、心が動かされていく。


「これが、春の暖かさ」

「あったかいですね」


 この暖かさを意識したことはあるのかって問いただしてくるような春の風に、自分の体が負けそうになる。

 春の空気が駆け巡る中、大きく息を吸い込んだ。

 広がる大空に目を向けるだけで、ほんの少しだけ目が潤んでしまう。


(綺麗すぎるのかもしれない)


 この、蒼い空が。


「空って、こんなにも綺麗だったんですね」 

「……綺麗だよ。俺も、そう思ったこともなかったけど」


 空は誰にでも平等に与えられるものなのだから、空を見たことない人なんていない。

 だけど、空を見て何も感じない人。何も感じることができない人。何かを感じる余裕がない人は大勢いる。

 平等に与えられているものが、そのまま受け取られているかといったら、そうではない。


「私も空を美しいと感じるようになったの、つい最近の話です」


 音楽の世界で生きることができた時間と、勉強に費やした日々を後悔しているわけではない。

 ただ、河原くんと再会してからの日々は毎日が新鮮で、視界に映り込むすべての光景が脳裏に焼きついたまま離れない。

 河原くんと再会する前と視界に入れているものに大きな差はないはずなのに、視界に入るすべてが初めてのもののように思える。

 まるで、別の世界に来たような感じ。受験のときには気にも留めてこなかった、自然の移り変わりを河原くんと一緒に体感していく。


「俺は、音楽に夢中になってた頃の羽澤さんも大好きだよ」

「……ありがとうございます」


 大好き。

 その言葉に、怯えてしまいそうになる。

 その言葉に、とてつもなく大きな喜びを感じてしまいそうになる。

 その言葉に、ずっとずっと縋っていきたいなんてことを思ってしまう。

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