第6話「言葉を交わすことを、諦めなかった」
「これからも……俺のこと、見守ってくれる?」
新しく始まる人生に、河原くんが存在してくれることが何よりも心強い。
新しく始まる人生に、私を存在させてくれることが何よりも嬉しい。
「っ、河原くんがどこにいても、私は河原くんに会いに行きます」
溢れ出しそうな涙に気づいた河原くんの繊細な指が、私の瞳から涙を奪い去ってくれる。
だから、私は泣かずに済んでいる。
涙を溢れさせることなく、彼の瞳を見つめることができる。
「限界を決めるのは自分。自分がやれると思ったら、やれるところまで突っ走ってもいいんだよね?」
言葉を交わすことを、私たちは諦めなかった。
それらが未来に繋がったのだと思うと、胸の中に込み上げてくる感情に再び涙腺が揺すられる。
「羽澤さんの夢は?」
他人が向いていない、諦めなさいって言うのは簡単。
でも、その言葉に従いなさいなんて決まりはどこにもない。
「私は、なんとか意地を張って、ヴァイオリンを弾き続けようと思います」
他人の、あなたはこの世界に向いていない。
あなたは、この世界を諦めた方がいい。
そんな通告ほど、辛いものはないかもしれない。
他人から向いていないって評価を下されてしまえば、そこでその言葉たちを受け入れてしまう人は必ずいる。
ああ、自分はここまでの人間だったんだって、大好きなものを諦めてしまう。
だから、育つ環境が与える影響の大きさというものを考える。
「社会人になってからとか、おばあちゃんになってからとか、そういう具体的な年齢は想像もつかないですけど……」
ヴァイオリンを購入する経済的余裕もなければ、習い事としてのヴァイオリンを始めることもできない。
そんな状況であることに間違いはないけど、私は相変わらず音楽の世界が大好きで、音ある世界にしがみついていたいと願っている。
「お父さんが教えてくれた音楽を、これからも愛していきたいです」
他人の言葉を聞いて、尚も努力を積み重ねていける人っていうのは、本当に凄いと思う。かっこいいと思う。
本当にその分野が大好きで、本当にその世界で生きていきたいんだと思わせてくれる。
でも、人類皆、そういう強さを持っているわけではない。
「俺も、羽澤さんの夢が叶うように見守りたい」
また、河原くんの表情が和らいだ。
言葉で表現してしまえば、ただそれだけのことでしかないのに。
ただそれだけのことが、とても嬉しい。
「もちろん羽澤さんが一人で頑張りたいときは、応援するだけにする。でも、見守るから。絶対」
何か特別面白いことがあるわけでもないのに、私たちは笑った。
笑うって、なんかいいなって思った。
何がいいかなんてよく分からない。
ただ、今この時間を心地いいと思った。
「音楽に愛を注ぐ人生、かっこいいね」
「照れちゃいますけど……ありがとうございます」
幼い頃は、天才ヴァイオリニストが現れたともてはやされた。
でも、だんだんと羽澤灯里はねさわあかりの名前が残らない世界になりつつある。
プロの世界を諦めて、舞台に立つことから逃げたヴァイオリニストのことなんて、きっと忘れ去られていく。
私のことを好きだと言ってくれた人たちだって、百合宮さんだって、いつかは羽澤灯里を忘れてしまう。
「いつか、お母さんにも聴いてもらえたらなと」
暖かい春風を感じられるようになって、海の見える本屋に吹き込んできた風に心を和ませる。
夢を語るタイミングで吹き込んできた風に、自然と口角が上がる。
「多分だけど、今って、羽澤さんが休む期間なのかなって」
どうぞ、と差し出された麦茶をいただこうと思った。
「俺、天才ヴァイオリニストの羽澤灯里さん、知ってたみたいなんだよね」
けど、河原くんの言葉を受けて、伸ばしかけた手を引っ込める。
「母さんがクラシック好きな人だったみたいで、家に羽澤さんのちっちゃい頃の演奏が残ってた」
私が手を引っ込めたため、河原くんは麦茶をどうぞどうぞと勧めてくる。
「え、え?」
「俺がちっちゃい頃に気に入ってた曲、羽澤さんの演奏らしいよ」
こんなにも都合のいい物語が展開されることに驚きを隠せず、開いた口を塞ぐために自身の口へと指を当てる。
「あんなに素晴らしい演奏する羽澤さんには、休息が必要だなって」
河原くんの口から、素晴らしいという言葉をいただくことができた。
話の流れで出てきただけの言葉だとしても、私の演奏を聞いたことのある彼に言葉をもらえたこと。
少しは誇ってもいいのかもしれないって、自惚れた。
「インタビュー記事とかも残ってて……ああ、ちっちゃい頃から、喋り方も鍛えられてたんだなぁって」
私が丁寧な喋り方をしている理由を、河原くんは見破っていた。
「鍛えられたというか……見様見真似です……同い年の子役さんとかの……」
自分から、夢を諦めると口にしたのは本当。
自分の才能のなさに絶望したのも、本当。
でも、許されるなら、音ある世界にしがみついていたかったのも本当だった。
だから、ずっと、ずっと、丁寧な喋り方を続けて、遠回しに駄々をこねてきた。




