第4話「努力って言葉の残酷性」
「羽澤さんは生きているんだから、笑ってよ」
河原くんが笑ってくれると、嬉しい。
河原くんは、私が笑ってくれると嬉しいですか。
問いかける前に、答えを聞く前に、私は口角を上げられるように努めてみる。
「生きているんだから、人生を楽しんでよ。そんな、暗そうな顔してたら、時間がもったいない」
河原くんの声は、穏やかで優しい。
だけど、彼の意思がはっきりしているのか、彼の言葉はマンガの決め台詞のようにビシっと格好よく決まった。
「行こっか」
「どこに……」
高校と海の見える本屋との距離は、相変わらず近すぎる。
感傷に浸る間もなく辿り着いてしまう距離が、もどかしい。
それなのに、余計なことを考えなくても済むくらい近い距離をありがたいとも思ってしまう。
「どうぞ」
なんの躊躇いもなく手を引かれて、私たちの距離はいつ縮まってしまったのかと焦る。
河原くんだけが大きく成長していくことを、肌で感じることができて嬉しい。
でも、成長速度があまりにも早すぎて私はまた一人置いていかれてしまったみたいで寂しい。
「麦茶でいい?」
麦茶を勧めながら、ちょっとした世間話でもしますか的な雰囲気を作り出す河原くん。
河原くんは至って普通で、いつもと変わらない。
いつも通りすぎて、私は抱えている戸惑いをどう処理していいか分からない。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「お母さんが帰ってこないと、涙ながらに語ったばかりなので……」
「泣かなかったよ、羽澤さんは」
気恥ずかしさが、胸の高鳴りを呼び寄せる。
中学時代は同じクラスにすらならなくて、私たちの間には空白の三年間がある。
三年間どころか、小学生のときだって同じ教室にいただけの顔見知りにすぎない。
九年もの年月、空白を作ってきた河原くんと、こんなにも近い距離で話しができるようになるなんて思ってもいなかった。
「怖いよね、言葉を交わし合うって」
河原くんの言葉に、静かに頷いた。
「嫌われたくないって気持ちがあるのに、羽澤さんから幻滅されたんじゃないかって……怖くなった」
「私も、同じことを思っていました」
高校生が語り合う内容にしては、私たちが抱えている家庭事情はあまりにも重たい。
同い年に背負わせる荷物ではないほどの重さを与え合ったことを、ずっと不安に思っていたのは私だけではなかった。
「重たかったですよね……こんな話、ほかの誰にもできなかった……」
麦茶を用意しているものだと思い込んでいた私は、急に彼が顔を覗き込んできたことに驚いて言葉を失った。
「重たいのは、俺も同じ」
唇に、河原くんの人差し指が触れる。
それ以上、私が言葉を紡がないように。
河原くんは、自身を傷つけるための言葉を止めてくれる。
「今日も、河原くんとお話をしてもいいですか」
すると、彼の人差し指が遠ざかっていく。
もう、言葉を発していいよって合図を送ってくれる。
「俺も、羽澤さんと話がしたい」
「両想いですね、私たち」
深呼吸を繰り返す。
自分の中に溢れる気持ちを言葉にまとめることができるかなんて分からないけど、自分の気持ちには正直にありたいと思えるようになった。
「そういうこと、さらっと言わない」
河原くんが返してくれたことに笑みを浮かべると、ふと薄暗い書店スペースが視界に映った。
段ボールの山が静かに積み上げられていて、以前、海の見える本屋を訪れたときにはなかった圧倒的な存在感に見入ってしまった。
一方の河原くんは麦茶の準備に向かって、この場には寂しい空気だけが居残った。
「本を片付けてるってのもあるんだけど、前の家からの引っ越し荷物も混ざってるよ」
トレイの上に、麦茶の入ったグラスを揺らしながら戻ってきた。
ついこの間までは寒さに体を震わせていた時期もあったはずなのに、小さな氷が音を立てるくらい気候が暖かくなってきたのだと感慨深くなる。
「荷物片づけてると、変わっていくんだなぁってこと……めっちゃ実感する」
言葉に出さなくても、河原くんの寂しさが空気を通して伝わってくる。
「本が好きで、ここに通ってた時期もあったんだ」
「書店って、夢のような場所ですよね」
河原くんは小さな笑みを浮かべようとしたけど、それはすぐに消えてしまった。
「でも、もう戻らないんだなって。本屋ここでの時間も、両親に育てられてきた時間も」
住居スペースにも段ボールが置かれていて、その一つに河原くんは手を触れた。
「失ってから大切なものに気づくって言葉もあるけど、俺はずっと家族のことが大好きだった」
本屋のスペースから、かすかな風が吹き込んできた。
古い紙の香りが広がったようなきがしたけど、それらの香りも一瞬にして消え去ってしまった。
「家族を笑顔にするって夢を持ってたんだけど、俺には、その夢を叶えるのが難しくて……」
海の見える本屋に来るまでのアスファルトの道で、私たちを包み込むかのように広がっている青い空と青い海を見た。
「だんだん笑顔を見せてくれなくなって」
ただただ眩しすぎる、蒼の景色に影響された。
その輝きに手を伸ばしたくても、私たちは輝きの手に入れ方を知らない。
「俺は、家族を笑顔にできなくて」
そんな河原くんに甘えて、私は過去の反省を彼女へと伝える。
「傷つけてばかりだった」
深い悲しみが、彼の声に滲む。
彼の手は段ボールの上でぎこちなく動き、その目は遠くを見つめている。
「その人に振り向いてほしくて頑張ってきたけど、やっぱり自分本位の幸福には限界があるなって」
努力って言葉は、時に残酷だと思う。
達成したい目標のために人は努力を積み重ねていくのに、自分が重ねてきた努力は実を結ぶとは限らない。




