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第3話「彼と一緒に見上げる」

灯里(あかり)ちゃん?」

「一音だけ……」


 幼い頃はヴァイオリンを安定して構えるだけでも、かなりの時間を要した。

 肩当てがないと演奏どころではなかったはずなのに、今では楽にヴァイオリンを構えることができるのだから不思議に思えた。


「っ」

「ふっ」


 ぎぃぃぃという重低音が鳴っただけでも、よしとすべきなのか。

 それとも、そんな雑音しか奏でることができないのだったら、始めから弾かないでくれとヴァイオリンは叫んでいるのか。

 聞こえない声に耳を傾けながら、私たちは二人で笑い声を溢した。


「小さい頃のこと、思い出します」

「そうそう、ちっちゃい頃は、めちゃくちゃに弾くのが楽しかったよね~」


 当時の年齢なりに、必死に演奏していたとは思う。

 けれど、結局は拙い演奏という言葉に尽きる。拙いという言葉どころの話じゃなかったはずなのに、それで良かった。それで十分だった。私にとっては、それがすべての始まりだったのだから。


「私たち、どんどん大人になっていっちゃいますね」

「あっという間に、卒業式を迎えちゃうんだろうね」


 たとえ売り物にならないような子どもの遊びごとのような演奏だったけど、そんな子ども遊びは私の毎日を激変させてくれた。夢を与えてくれた。日々が、音で溢れた世界を生きていきたいと願うようになった。


「子どものままでいたかったと言わないように、立派な大人を目指してみたいです」

「えー、灯里ちゃんは今でも立派なのに」

「そんなこと言ったら、私からすれば百合宮さんの方が立派に見えます」


 綺麗な彼女と、また一緒に笑い声が重なった。


「百合宮さんなら、絶対に夢を叶えることができます」


 同級生という贔屓耳もあるかもしれないけど、百合宮さんなら世界を魅了する奏者になれるという確信できる。


「奏者を志した人、全員が夢を叶えることはできないっていう厳しい現実。私もちゃんと理解しています」


 それでも、私には自信があった。

 百合宮さんは絶対に、夢を叶える力を持つ同級生ひとだってこと。


「ありがとう、灯里ちゃん」


 自分で頑張ったなんて表現は使いたくないけど、自画自賛ができてしまうくらい百合宮さんには頑張ってほしい。毎日を必死に生きてほしい。


「一緒に頑張ろうね」

「……はい」

「もう、灯里ちゃんの声は弱いなぁ」


 また、二人で一緒に笑った。

 上手く音を鳴らすことができなかったヴァイオリンは再び百合宮さんに引き取られて、百合宮さんは空き教室を探しに行った。


(この学校、まだ多くの管楽器が眠ってるってことだよね……)


 それらは、今度も一生、眠り続けたまま。

 通っている高校が廃校になれば話は別かもしれないけど、大きな何かが起きない限り、倉庫で眠った楽器たちに演奏の機会は訪れない。


(夢、見たいな……)


 私が教員免許を取得して、無事に教師になれたところで、今よりももっと少子化が進んでいるかもしれない。

 管弦楽部の復活どころか、吹奏楽部すらも廃部に追いやられているかもしれない。


(管弦楽部の復活、やってみたいな……)


 そもそも教員免許を所得できたところで、この学校の教師になることはできないかもしれない。

 管弦楽部のない学校の先生をやっている可能性の方が高いことは分かり切っていても、どうしても未来に夢を見てしまう。


(未来で、校長先生と闘ったりするのかな)


 楽器のメンテナンスに割く予算はないとか言われるのは目に見えているけど、それでも初めて生まれた夢を膨らませていくのはとても楽しい。


(夢って、絶望だけじゃないんだね……)


 聞こえてくる吹奏楽部の演奏が、耳と心に絶大な衝撃を与える。

 練習のときに聞こえていた一音一音が一つに集って、人の心に感動を巻き起こすために動き出す。


(未来を、見に行きたい)


 日差しが強い。

 校舎を出ると、太陽が多くの陽を浴びさせてくれる。

 でも、もたもたしていたら、この太陽の恵みだってすぐに失われてしまう。


「今の季節……こんなにも空が澄んで見えるんだ」

「そうらしいよ」


 背後から、声をかけられる。

 海の見える本屋にいるだろうと思い込んでいた人が、私に声を届けてくれた。


「河原くん……」


 声の力って、言葉の力並みに凄いものかもしれない。

 彼の声を聞くだけで、ただそれだけで、あ、幸せだって思ってしまう。


「空って、一日一日違う表情を見せてくれるんだって」


 感情を揺さぶるくらいの輝きを放つ青空を、彼と一緒に見上げる。


「あれだけの醜態をさらしてしまったので、もう……声をかけてくれないと思ってました」

「羽澤さんが、泣いていると思ったから」


 泣いてない。

 誰がどう見ても、私は泣いていないはずだった。


「泣いてると思ったから、声をかけたくなっちゃった」


 それなのに河原くんは、私が弱くなっているってことに気づいてくれた。

 河原くんの声が欲しいと思っているときに、彼は声をかけてくれた。


「……泣いてません」

「うん、そうだね。俺の勘違いだった」


 そう言って笑顔を見せた河原くんは、少しずつ以前の時間を取り戻しつつあった。

 彼は自分が生きてきた世界だけでなく、他人私が生きてきた世界をも魅了する笑顔の持ち主。

 だから、少しずつ彼が彼を取り戻すことで、私は心臓を揺すられてしまう。

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