第1話「未来は決まってない」
(今日のお夕飯、何、作ろっかな)
教室の窓から差し込む午後の日差しに包まれながら、教室の掃除を終わらせていく。
教室の隅ではスマホを触っている生徒がいて、静かに箒を使って床を掃く生徒もいて、先生が来た途端に真面目に掃除する生徒もいて、人の数だけ掃除の仕方もいろいろだってことを感じ取っていく。
(最近、カレー粉も高いよね)
カレーライスなら簡単だと思うものの、材料費が高騰している中、安易にカレーライスと決めることができないのも悔やまれる。
「よしっ! 部活、行ってくるね」
「お疲れー」
夕飯のメニューを考えているうちに掃除は終わり、生徒たちには放課後の時間が与えられる。
各自が、何をするかを決めていい自由な時間。
一年生は部活に入るのが義務づけられているといっても、週に一回。
もしくは月に一回しか活動がない部活動もあると噂には聞いている。
それぞれが選んだ放課後の過ごし方が、三年後にどう影響を及ぼすのか。
相変わらず未来は見えてこないけど、今日も私たちはやってくる明日のために精いっぱい生きていく。
(ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと勉強しないと)
廊下を歩きながら部室に向かっていると、真っ先に聞こえてきたのは運動部の掛け声。
バスケットボール部に入っている人たちは、みんながプロを目指すわけではない。
卓球部に入っている人たちが、みんなプロを目指すわけではない。
それでもみんなは、それぞれの目標に向かって部活動に力を注いでいた。
(私は、音楽の先生になるって決めた)
私との会話を希望してくれている仲間のために、と立派なことを言いたい。
でも、今日は私とお話ししたいと思っている生徒がいない。
お話し会が開催されない日は帰宅部同然となってしまうけど、志だけは高く持ちたい。
そんな日常に馴染み始めている自分に、理想通り世界に順応できている自分に、安心感のようなものが生まれるようになった。
「演奏……したいな……」
管楽器を扱う聖籠せいろう高校に進学しなかった時点で、私に残された道はヴァイオリンを買うだけの経済力をつけるしかない。
自分が迷子にならないための道を模索して、他人の力を借りなくても生きていけるってことを証明しながら、最後にヴァイオリンを選択することができたらなと夢見る。
(今の時点で、未来は決まってないから)
未来を変えるなら、今しかない。
そう意気込みを抱いたとき、放課後の校舎に吹奏楽部が音を出す練習をしている様子が響き渡り始める。
自信のなかった音を積み重ねて、理想の音へと向かっていく過程を思い出す。
自分が、いつまで懐かしさを覚えていられるのかは分からない。
それでも大好きな音楽に耳を傾けることで、ヴァイオリンへの想いを深めていく。
(少し覗いてもいいかな)
体験入部の季節でもなんでもない人間が、部活動の見学をするのは迷惑以外の何物でもないかもしれない。それでも、理想の音に向かっていく一秒一秒に惹かれてしまった。
(ダメだったら、潔く諦め……)
小心者の自分が勇気を振り絞ろうとした瞬間。
生徒の姿が見つからなかったはずの廊下で、私は何者かに肩を叩かれた。
「っ」
大きな声を上げることすらできない臆病者は、恐る恐る後ろを振り返って肩を叩いた人物の正体を確かめた。
「ごめん、ごめん、灯里ちゃんの姿を見つけたから、つい」
「こちらこそ、ごめんなさい……」
吹奏楽部の見学を望んでいた私に声をかけてくれたのは百合宮杏珠さん。
彼女の手には、ヴァイオリンケースが存在していた。
「百合宮ゆりみやさん、ヴァイオリンなんて持ち歩いてどうしたんですか」
「この学校ね、昔は管弦楽部があったんだって」
「…………え」
「びっくりだよねぇ」
まだまだ高い位置にある太陽に見守られながら、私たちは春の穏やかな陽気に包まれながら言葉を交わし合った。
「少子化の影響で、管弦楽部は廃部になっちゃったらしいよ」
管弦楽部という珍しい部活動なら狭い地域で有名になっても可笑しくない気もするけど、そんな噂すら聞いたことがない。
管弦楽部がなくなって長い年月が流れ去ったということを、古びたヴァイオリンケースが教えてくれた。
「楽器のメンテナンスの専門家じゃないけど、眠ったままは可哀想かなって」
ヴァイオリンケースですら埃塗れなのだから、中のヴァイオリンは音を奏でることはできなくなっているかもしれない。
「こういうのって、寄付したりしないんでしょうか」
「需要がないんじゃないかな。管楽器に興味を持ってくれる人が、世の中に何人いるのかなーって思うよ」
世の中には娯楽が溢れ返っていて、音楽も溢れ返っていて、その中から管楽器に興味を持ってくれる可能性は限りなく低い。
望んでいる人に寄付できれば一番いいけれど、その望んでいる人に出会うことすら難しいのが現代の娯楽事情なのかもしれない。
「楽器のリペアをやってみようかなーって手を出したのはいいけど、気を遣いすぎて、肩が死にそうになってたところ」
百合宮さんは幸せを噛み締めるように、柔らかな笑みを浮かべた。
言葉と表情が合っていないって思っても、百合宮さんの幸せそうな笑みに心が和むのを感じた。




