第3話「大丈夫」
(お母さんが、松田さんを選んだら……)
未だに家に帰ってこないお母さんのことを考えると、私は自由の身というものになれるのかもしれない。
好きに未来を選択することができるようになるけれど、経済力が伴っていない私は抱く夢にも限界がある。
(お母さんが帰ってこなかったら、就職の相談……)
ピアサポート部の顧問である深野先生の元を訪れようと廊下を歩いているのに、視線がだんだんと下を向いていくのが分かる。
このままでは足が止まってしまって、目的の教室まで辿り着くことができないかもしれない。
「私も音楽が良かったなー」
「音楽って、楽器経験者だと優遇されるらしいよ」
「あ、だから私、選択で落とされたんだ……」
廊下には同じ学校に通う人たちの笑顔が広がっていて、無邪気な笑い声や弾む声を耳にしていると、これが理想の高校生活だったなってことを思い出す。
誰にだって悩みがあると頭では分かっていても、輝かしい高校生活を送るみんなが遠い存在に思える。
私だけが生きることに必死にもがいているように思えて、益々、視線が下を向いていきそうになった。
「…………」
完全に廊下の床と睨めっこをする前に、視界の隅に何かが引っかかった。
ふと顔を上げると、英語教諭室の前で英語の先生とはなしを教師としている河原くんのようすが何やら目に入った。
「あ、羽澤さん、おはよ」
「おはようございます……」
そのまま通り過ぎても良かったのに、彼は私の存在に気づいてくれた。
「端先生の授業、わかりやすいって聞いて」
「だーかーらー、河原さんを教えてないのに英語を教えるのって、ほんっとに立場が悪くなるから」
「少しだけ。生徒を助けると思って」
目の前にいる端先生には、私もお世話になったことがない。
先生の言う通り、どんなに端先生の教え方が良くても端先生の立場が悪くなるのは本意ではない。
そうは思っているものの、目の前の端先生という先生は河原くんを無視しなかった。
「羽澤さんも、一緒に質問してみる?」
河原くんの表情が、ほんの少し柔らかくなったような気がした。
昔のような柔らかさを取り戻しつつある河原くんに期待した私は、河原くんの誘いに導かれるまま端先生の元へと歩み寄った。
「俺が英語の先生たちから省かれるようになったら、河原さんと羽澤さんのせいだからな」
私は、まだ名前を名乗っていない。
それなのに、河原くんが発する言葉を端先生は聞き逃さなかった。
「で、どこがわからない?」
教科を教える先生は厳しい人ばかりで、誰を頼ることもできないと思い込んでいた。
でも、穏やかな目元に笑い皺が刻まれた端先生に、一気に親しみを感じた。
「ここは……」
眼鏡の奥にある瞳は、どこか温かい。
敵の数が圧倒的に多いと思っていた鐘木高校で、一人一人の声に耳を傾けてくれる先生がいることに目を丸くする。
ピアサポート部の顧問の深野先生からも授業を習ったことがなく、授業を習ったことがない先生とは距離を取りがちだった。
でも、こうやって生徒に手を差し伸べてくれる先生がいることに心から込み上げてくる感情があった。
「羽澤さんは、今、どこやってる? 河原さんの教科書借りて……」
「っ」
厳しい先生方の言葉に押し潰されそうになっていたけれど、先生の笑顔が息を整える余裕を与えてくれる。
「羽澤さん? どした? 体調でも悪……」
「河原くん……」
どうしようもない孤独感と窮屈さ。
これが自分の選んだ高校だと言われれば、孤独も窮屈さも耐えるしかないと思っていた。
「助けて……ください……」
太陽が顔を出すような時間帯なのに、自分の笑顔はちっとも晴れやかではなかった。
震える声で口を開くと、河原くんと端先生は私のすべてを受け止めるように話を聞いてくれた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
大丈夫って言葉は、何を根拠にと問いただされてしまうこともある。
でも、河原くんがくれる《《大丈夫》》って言葉には無限の力が込められているような気がした。
「心臓、痛いです」
「うん」
放課後、河原くんに付き添われながら自分の家へと向かった。
端先生を通してピアサポート部の深野先生にも話が伝わり、今日は部活を休んで家庭の事情を優先することになった。
お母さんの職業も考慮して、本当にお母さんが帰ってこなかったときは学校に相談することを約束した。
「入学してからずっと根詰められたら、担任に相談できるものもできないなって」
バスに乗っている間、河原くんがずっと手を繋いでくれた。
私からお願いしたわけでもないのに、私たちの手は自然と繋がった。
「なんか……高校の先生、みんな、敵みたいに見えて……」
「俺も家庭の事情、話したくない先生ばっか」
先生たちも、生徒の敵として立ちはだかったわけではないはず。
生徒のことを最優先に考えてくれているはずなのに、いつしか先生たちの目線を冷たいものに捉えるようになっていく。




