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第2話「子どもの願い」

(松田さん……)


 胸がざわめく。

 五番目のお父さん候補だった松田さんを家から追い出した日のことを思い出して、嫌な予感が体を駆け抜ける。

 お母さんがまだ不倫相手への恋心を引きずっているのなら、娘よりも不倫相手を優先してしまっても可笑しくない。


「松田さんの連絡先……」


 お母さんの不倫相手の連絡先を知っている自分が嫌になって、スマホの電源自体を床に落とした。

 家族ぐるみで不倫に加担していたと思い知らされ、益々、不倫相手に連絡することを拒んでしまった。

 それだけ親しい付き合いをさせてもらって、それだけ生活費を援助してもらえる関係になってしまったことに絶望した。


(朝になれば……朝になれば……)


 何も考えたくない。

 そんな気持ちに駆られた私は、明日の予習を休んでベッドに横たわってしまった。

 明日になったら予習しなかったことを後悔する自分が目に見えているのに、何も考えたくない気持ちの方が勝ってしまった。


(お母さんの顔を見れば……)


 お母さんに会うことができたら、それだけで勉強する意欲は回復する。

 きっと元通りの生活を送ることができると期待を込めて、私は眠りに落ちた。


「……ん」


 目覚まし時計の音が、次の日が来たことを知らせる。

 窓の外から太陽の光が差し込む時間になったことに気づいて、私は急いでベッドから体を起こした。


「お母さんっ!」


 寝起きの声は、どこかかさついていて可愛くない。

 それでも、覚醒した脳には不安が芽生え始める。

 その不安を安堵に変えるため、私はお母さんの顔を見るためにリビングへと向かった。


「お母さん、おはよう」


 そこに、私が大好きな家族の姿はなかった。

 食卓には誰の気配もなく、冷えた空気が流れている。

 その異様な静けさに、思わず立ち尽くしてしまった。

 お母さんとの何気ない日常が遠い過去のように思えて、今日から私は独りで生きていかなければいけないという巨大な恐怖に陥った。


(なんで、メッセージがないのかって考えたら……)


 お母さんが家に帰ってこないのは日常茶飯事のため、警察に連絡するのは時期尚早だった。

 私にできることは、ちゃんと学校に行く。

 自分で自分の足を奮い立たたせて、何も起きていない風を装って授業風景に馴染んでいく。


(やっぱり……松田さんのとこ……)


 帰りが遅くなったり、お店で泊まってくるようなことがあれば、必ず連絡をくれていた。

 お母さんからのメッセージが途絶えてしまったということは、それ相応の事態を覚悟しなければいけないのだと唇をぎゅっと結ぶ。


「次の訳は……」


 英語の予習を休んでしまったことを悔やんでも、もう流れしまった時を戻すことはできない。


「羽澤さん」


 先生に指名されたくないと願っているときに限って、教科書の訳を任されてしまった。

 怒涛の勢いで進んでいく英語の授業だったけど、生徒が指名されたときだけは一瞬の休みを得られる。

 私以外の生徒はペンを置いて、一息吐く。

 私は教科書に目を落とすけれど、初めて見る英単語を前に成す術なし。

 意味が繋がらない単語たちを前に、声を振り絞る。


「すみません、わかりません……」


 先生の口元が、大きく歪んだのを見逃さなかった。

 さすがに溜め息を吐かれるようなことはなかったけど、生徒への期待を裏切られたような冷たい視線が私に突き刺さる。


「ちゃんと予習しないと、駄目だからね」


 駄目という短い言葉が吐き出され、先生は別の生徒に視線を移す。

 まだ高校一年が始まったばかりなのに、先生に見放されたような感覚に胸が押し潰された。

 この恐怖と一年間も闘わなければいけないのだと思うと、明日以降の英語の授業に憂鬱さしか感じなくなる。


(できてないの……私だけ……)


 中学のときとは比べ物にならないくらいの速さで進んでいく授業に戸惑っているのは私だけで、クラスのみんなは付いていっているように見えた。

 みんなが出来るような顔をして、私だけが取り残されているような感覚に陥った。

 陥ったのなら這い上がらないといけないけど、その這い上がるための手段すら私は見つけることができない。


(このままだと、推薦も奨学金も……)


 県内に、教諭免許の資格を取ることができる大学は一校しかない。

 鐘木しゅもく大学に入学することが唯一の夢を叶える手段なのに、入学して数週間程度で挫折しかかっている。


(県外に出たら、お母さんは……)


 子どもを自立させるために、子どもは早くに実家を出た方がいいと言っている人がいた。

 それは、確かにそうなのかもしれない。

 大人が言うのなら間違いないかもしれないけど、両親の傍で、両親を支えたいと願う子どもはどうしたらいいのか。

 そんな願いを持つ子どもは、みんな碌な大人にならないのか。


(お母さんの傍にいたい……)


 三十代、四十代、それ以降になって、ようやく後悔するときが来るのかもしれない。

 でも、高校一年生の私は、お母さんの傍にいたいと願っている。

 そんな子どもの願いは、世間からしたら悪ということで片付けられてしまうのかと思うと怖い。

 ただただ、怖い。

 実家を出ようとしない私は、碌な大人にならないと決めつけられているような気がして怖くなる。

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