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第1話「お母さんが望んだ進学校」

「このページの訳は……」


 中学三年生のときは、進学校、進学校、進学校と連呼してきた大人たちに囲まれて育った。

 大学進学率の高い高校を目指すようにという一種の洗脳が行われてきた中学時代を終え、私は無事に希望していた鐘木しゅもく高校に進学することができた。


「次のページの訳にいきます」


 進学先の鐘木(しゅもく)高校は進学校と呼ばれているのが理由なのか、それともハズレの先生を引いてしまったのか。

 英語Ⅰの授業になると、教室の空気が一気に張りつめる。

 時計の針だけは静かに進んでいくのに、先生の声だけは快活に響き渡っていく。

 中学校時代ののんびりとした英語の授業が、遥か遠い記憶の彼方に感じられる。


(速い……)


 無情という言葉は、英語Ⅰを指導する先生のためにある言葉のような気さえしてくる。

 目の前に表示された文字は先生の手によって、あっという間に消去される。

 どんなに心の中で《《速い》》と嘆いたところで、それを声に出す余裕すら与えてもらえない。


「っ」


 先生からはスピードを落とすつもりなど微塵も感じられず、淡々と授業が進んでいく。

 同じクラスで授業を受けている人たちは付いていくことができているのか確認したいけど、その確認作業すら怯えてしまう。


(付いていけてないの、私だけかも)


 教科書のページが次々と捲られていく。

 周りは先生の速度についていくことができて、置き去りにされているのは自分だけかもしれない。

 頭が混乱し、焦燥感が募っていく。

 理解しなければならないという重圧は、さらに自分のことを追い詰める。


「もう一度、説明してください」


 まだ名前も覚えていないクラスの誰かが、勇気を奮ってくれた。

 先生は一瞬だけ止まってくれたけど、すぐに質問があった場所への返答を終えると次のコースへと向かってしまう。

 その冷たさが、思っていたよりも深く突き刺さる。


(これが、お母さんが望んだ進学校……)


 新しい世界の中で、立ち止まることは許されないと諭されているような気持ちになってくる。

 必死に先生のペースに食らいつこうとしても、無力感という名の大きな波に襲われる。


「英語の授業、嫌い……」

「ねえ、ねえ、ノート見せて」

「私も、ほとんどメモれなかったんだけど……」


 まともに呼吸することすらできなかった英語Ⅰの授業が終わり、笑顔を失っていたクラスは晴れやかな表情を取り戻し始める。


羽澤(はねさわ)さん、ノート、どんな感じ?」

「訳がさっぱりで……」

「羽澤さんも、そっかぁ」


 同じ教室で授業を受けていた女の子たちは、このクラスで、まともに授業内容を記録できた人はいないのだと悟った。

 ほかのクラスのノートに期待することしかできず、今後この教室で展開される英語の授業に溜め息を漏らした。


「部活、行こ……」

「何部?」

「ダンス」


 高校一年の一年間だけは、全員が部活動に入ることを義務づけられている。

 クラスの子が話題にしているダンス部のように毎日活動がある部活もあれば、生物部のような週に一回しかないような部活動もある。

 どの部活動に入るかを決める体験入部の期間はあっという間に終わってしまい、高校一年として一緒に入学してきた人たちは一年間の時間の使い方を選択したということ。


(とりあえず、一年間……)


 あんなにも過酷な英語の授業を終えたばかりなのに、クラスはこれから始まる部活動への期待に包まれる。

 もちろん部活動が面倒という感情を持つ人たちもいるだろうけど、そういう人たちは週に一回の部活動を選択しているはず。

 私の視界に入るのは、どちらかというと期待の眼差しが多いような気がした。


「え、これからバイトなの?」

「うん、ちゃんと学校の許可もらってるんだよ。ほら」


 学校に届け出をすることで、高校一年生でもアルバイトを通して賃金を得ることは許可されている。


「高校卒業したら、学費は出さないって言われたから」


 長いまつ毛に大きな瞳。

 少しだけ明るい茶色の髪は軽くカールされていて、お洒落に気遣っていることが一目瞭然の彼女はしっかりと将来の夢を持っていた。私とは正反対の鮮やかな人生を送る彼女は、もう既に三年後の未来を見据えていた。


(見えない未来に向けて頑張る、か)


 校則をきちっと守った容姿をしている自分は外見だけが真面目で、少しも進学した高校の色に染まることができていないと下を俯く。


(怖い、な)


 入学式が執り行われた日は、《《おめでとう》》の言葉が異様に少なかったことを思い出す。

 校長先生に始まり、偉い先生たちはみんな厳かな声で進学の話を始めたことに目を見開いた。

 やっと《《合格》》の二文字を手にすることができたのに、もう次の未来に向けて行動しなさいと諭されるとは思ってもみなかった。

 進学という言葉が、今も重たい石のように心にのしかかっている。


(努力が実らなかったら、もう、人生は終わっちゃうのかな……)


 毎日の授業に付いていくだけでも精いっぱいな私は、無事三年生になれているのかさえ不安になる。

 入学式初日から偏差値の高い大学に進学するための競争が始まっていると言われたら、友達を作ることさえも思い通りにならない。 

 あの子やこの子と、志望している大学が同じになったらどうしたらいいのか。


(なんでこんなに、余裕がないんだろ)


 なんでと言われたら、授業に付いていけない時点で後れを取っているから。

 授業に追いつくために余計な時間を費やして、自分の時間はどんどんすり減っていく。

 余裕なんてものが生まれてくるはずがない毎日に頭を抱えながら職員室に向かうけれど、その下げた視線を上げてくれる人は私の前に現れない。

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