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第1話「止まりたくない」

「ありがとう……」


 感謝の言葉と共に、私は河原くんの腕の中から解放される。

 もう、私は河原くんに触れることは許されない。


「じいちゃんが来たら、ちゃんと送るから」


 夢を諦める喜びなんて、知ってほしくない。

 一人でも多くの人に、大好きなものを手放す喜びを与えないようにしたい。

 そんな想いを抱えながら、溢れ出しそうになった涙を堪えながら河原くんを見た。


「なんで、羽澤さんが泣きそうになってるの?」


 涙は溢れていないけれど、瞳が涙で揺らいでしまったのかもしれない。

 河原くんの人差し指が、私の目元の涙を拭うように触れてくる。

 でも、どんなに彼の温かさを知ったからといって、涙を溢れさせたくないと手に力を込める。


「泣いてません。泣いてませんからね」

「そういうことにしておく」


 少しだけ、ほんの少しだけ、河原くんの口角が上がったような気がした。

 昔のような、朗らかな笑みというのが難しいのは分かってる。

 それでも、彼が背負ってきたものが、ほんの少しでも軽くなっていることを願った。


「ありがとうございました」


 家まで送り届けてくれた河原くんたちに、深く頭を下げる。

 他人を送り届けている暇なんてないはずなのに、他人を気遣ってくれた二人への感謝の気持ちを込める。


「また明日」

「はい、また明日」


 また、明日。

 どこか遠くにいってしまいそうな儚い空気をまとう河原くんから、明日があることを示す言葉が返ってきたことに胸が温かくなる。

 その温かさを抱き締めながら、玄関の扉へと足を運んでいく。


(お母さんに心配かけないようにしないと)


 平気なフリをしないと、心配されてしまうから。

 大丈夫、って声をかけられてしまう。

 周囲から心配されないためにも、人は大丈夫だって嘘を吐きたい。


「あ……」


 いつの間にか夜空を覆っていた雲が晴れて、月と星の光が真っ黒な空に溶け合う瞬間を見つけた。

 受験が終わってから、こういう自然の美しさに気づくようになった。

 どれだけ余裕のない生き方をしてきたんだと言われてしまえばそれまでだけど、そんな季節や景色の移り変わりを楽しむことができないくらいの人生を歩んできたということ。


(お母さんも、星、見たかな)


 河原くんと再会することで、ようやく日々の変化ひとつひとつに気づくことができるようになった。

 教員を目指している人間が、今更の感覚を知ることをほんの少しだけ虚しいなって思う。


「…………河原くんの頑張りが、好きだよって……伝えたかったな……」


 この景色を見て美しいと感じても、これから素晴らしい感動と出会ったとしても、それを共有する相手が今はいない。


(頑張れ、私……)


 自分が挫けている間にも、河原くんは頑張りを続けていく。

 私だけが取り残されて、私の時間だけは止まったまま。


「止まりたくない……止まりたくないよ……」


 私だって、先に進みたい。

 どんなに年齢を重ねたって、前に進みたいって気持ちを止めたくない。

 自分がピアサポート部員に向いていない性格だなんてことは百も承知している。


(でも、私は選んだ)


 自分で選んだ道を、自分が否定するわけにはいかない。

 目標としている職があるのなら、それに近づく努力をするのが私に与えられた生き方だと言い聞かせる。


「ただいま、お母さん」


 家に帰るのが遅くなるという連絡はしたものの、予想以上に帰りが遅くなってしまった。

 お母さんに心配をかけてしまったのではないかと急いで靴を脱いだけれど、その動作は途中で止まった。


「お母さん……?」


 目を凝らして、リビングに繋がる扉を見る。

 部屋には明かりが灯っていないと気づき、ふとした不安が心を締めつける。


「お母さん、ただいま……」


 リビングに広がっていたのは、予想通り暗闇と静寂。

 お母さんが私を出迎える気配もなく、お父さんと過ごした我が家は家族の温もりを失っていた。


(今日、帰り、遅いのかな)


 スナック勤めをしていることもあって、お母さんの帰りは基本的に遅い。

 家に誰もいないからといって心配する必要はないはずなのに、今日だけは息を潜めたように静まり返った自分の家に不安を覚えてしまった。


(メッセージは……)


 友人に付き添って、病院に行くというメッセージは既読になっている。

 これはお母さんが了承してくれた証でもあるけど、そのあとにメッセージは何も続いていない。


(お店に泊まってくるのかな)


 何も心配する必要はないと頭では分かっていても、何度も家の中を見回してしまった。

 不安の波がじわじわと押し寄せてくるのを感じても、その波に飲まれてしまいそうで怖くなる。


「大丈夫……だよね」


 誰もいないリビングに零れる独り言。

 喉が乾くような感覚があるけど、飲み物を探しにいく元気がない。

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