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第5話「しっかりと自分の足で立つ」

「羽澤さんも、人なんだね」


 私を救うために現れたのは世界の美しさではなく、河原くんの優しさだった。

 さっきまで自分の感情を曝け出していた河原くんが、今は私を励ますために言葉をくれる。


「少しは部員らしいことを言いたかったのですが……」

「俺は、羽澤さんの本音が聞けた方が嬉しい」


 きっと私たちの関係も、高校を卒業したら終わってしまう。

 同じ学校に通うという奇跡を十二年間も続けていく予定だけど、その十二年間で彼と親しくなれた時間はほんのわずか。

 それを悔やみたくなるほどの濃密さが存在するのに、十二年の終わりに私たちは忘れることを選択するのかもしれない。

 それが、同じ学校に通う同い年という関係性。


「大切なものは失ってから気づくって言うけど、失う前に気づくことができてるなら……できることは、たくさんあるよね」


 気のせいかもしれないけど、本音を伝えることで気持ちが軽くなったような気がする。

 気のせいかもしれないけど、その気のせいすら今の私には心地よい。


「私は、ずっと自分のことを無力だと思ってきて……たくさんできることがあったのに、できなくて……」

「だから、相手には忘れてほしくなるんでしょ?」

「無力な自分なんて、いなくなった方がいいって……」

「だよね。相手には、自分のいいとこだけを覚えていてほしいよね」


 人が自分を嫌いになる瞬間の一つは、きっとこんなとき。

 とてつもなく素晴らしくて大きな優しさに出会って、どうやったらこの人の優しさを超えることができるんだろうと無力な自分に絶望する。


「自分はたくさんの幸せをもらって、私の人生はとても彩り豊かなものになったのに、私は何もできなかった……」


 一方的に、両親から幸せを与えてもらうだけ。

 与えてくれる人が傍にいることのありがたさに気づいているからこそ、自分も相手のために感謝の気持ちを返したい。

 家族なのに貸し借りという言葉を使うのは間違っているかもしれないけど、私は両親のことが大好きだと思う。

 だから、感謝の気持ちを返すことで、お母さんには笑顔になってもらいたい。


「お互いに、酷な道を進もっか」

「随分と抽象的な問いかけですね」


 幸せを認めることができたら、きっと私たちの想いは変わる。


「酷だと分かっていて、尚、進むことを選んだ。止めるものも、阻むものも、私たちの障害にはならないですよね」

「羽澤さんが傍にいてくれたら、強くなれるかも」

「そう思ってもらえたのなら、光栄に思います」


 私は、河原梓那(かわはらしいな)くんのことを覚えていたい。

 河原くんの顔も、声も、河原くんが私にくれた言葉も、ずっと覚えていたい。

 今度は、河原くんを忘れたいって考えに逃げることのないように。

 河原くんの前で自分の無力さを露呈して、最後に別れるとき『忘れてください』という言葉で終わらないために、私は顔をしっかりあげた。


「……綺麗な世界ですね」

「突然、話が変わりすぎ」

「だって、ついこの間まで、受験で頭がいっぱいだったんです」


 胸の中に込み上げてくる感情に気づいて、涙腺が緩み始める。

 どんなに意志を高く掲げていたって、未来の不安が消えるわけではない。


「命ある限り……やれることは無限ですよね」


 そんな未来への不安に押し潰されそうになるけど、誰も泣いていないところで涙を流したくない。


「世界が綺麗だから、俺たちは安心して夢を描くことができるのかも」


 いろいろと都合が良すぎて、新しく生きることを誰かが許してくれているんじゃないかって自惚れてしまう。


「本当に……幸せな時間です……」


 真昼に吹く風と違って、だんだんと吹く風の温度が下がっていくのを感じるけど、その風すらもいいなって思えてくる。

 受験で追い詰められていたときには感じられなかったことを、自分の体が感じられるようになっていく。

 それを、幸福って呼ぶんじゃないかって予感が止まない。


(私は、河原くんからもらったすべてを覚えていたい)


 素晴らしい出会いだって自覚があるからこそ、これからを生きる私の人生は豊かなものになるんじゃないか。

 普段なら浮かぶことのない期待を、ほんの少しだけ胸に宿そうとしたときのことだった。


「着信音ですか……?」


 高校生たちの笑い声が響く海辺で、不意にスマホの着信音が鳴った。

 河原くんのものだったらしく、彼は慌てて制服のポケットを探った。


「悪い! 抜ける!」


 周囲の視線が集まってくるのを感じた河原くんは、真っ先にみんなのことを気遣った。

 心配しなくていいよという声色を残して、彼は海辺から去ろうとする。


「河原くん……」

「じいちゃんから」


 緊張が走る。

 通話ボタンを押す彼の手が微かに震えていたのに気づいて、私は彼に寄り添った。

 会話の内容は聞こえてこないけど、この緊迫した空気を私は知っている。

 幼い頃のおぼつかない記憶と言われるかもしれないけど、母の顔が凍りついたときのことだけははっきりと覚えている。


「危険な状態だって」


 風の音が、耳に響いた。

 彼の表情が青ざめるという展開にはならず、彼はしっかりと自分の足で立とうと力を入れる。


「えっと……えっと……」


 息を呑む音さえも、鼓膜を叩いてくる。


「家族じゃない人間は病室に入れませんが、病院までなら付き添えます」


 力強い声で、彼に言葉を向ける。

 彼が視線を上げると、彼の目には涙が滲んでいた。


「行きましょう」

「……ありがとう」


 砂浜を離れ、急いで近くの停車場へと向かう。

 彼の足取りが重く感じられたからこそ、私は彼の歩みを支えるために彼へと寄り添う。


「ごめん、迷惑かけて……」

「私が好きでやっていることなので」


 おばあさんが危険な状態だと聞かされているにもかかわらず、彼は涙を溢れさせることがない。

 他人の私が傍にいない方が思う存分、泣くことができたかもしれない。

 でも、スマホを手にする彼が震えているのに気づいたから、放っておくこともできなかった。


(病院まで……せめて病院まで……)


 視線を上げると空には薄い雲が広がり始めていた。

 さっきまであんなにも綺麗な色を魅せていた空が、今ではどこかぼやけて感じられた。

 手を伸ばしても美しさを掴むことができないと気づいて、益々、心が切なくなるのを感じた。

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