第4話「覚えていてほしい」
「新しく出会うためには、忘れることも必要って本当かな」
何を思ったかは分からないけど、河原くんの方から話題を振ってくれた。
「ほんの少し、寂しい考え方ですね」
前向きな、消失。
ぽっかりと空いた隙間を、新しい出会いで埋めるという意味を指すんだと思った。
別れの寂しさを、新しい出会いで紛らわせるということ。
「父のことを覚えているから、私は今も寂しいんですね」
「っ、ごめん。羽澤さんを傷つけるつもりはなくて……」
「そう簡単に、傷はつかないから大丈夫ですよ」
私は亡くなったお父さんのことをずっと覚えているけど、もしかすると天国にいるお父さんは私のことを忘れているかもしれない。
新しく出会うために、娘わたしのことは忘れてしまったかもしれない。
「お父さんに新しい出会いが訪れていたら、祝福できるような人間になれたらいいんですけどね」
でも、綺麗事も少し混ざっている。
(私のことも、覚えていてほしい)
新しく始まる人生に、過去の娘私も連れていってほしい。
そんな願いから、いつになったら卒業できるのか。
「忘れてもらうって、幸せなことなのかも」
夕焼け空を橙色に染めるために、太陽が光を放つ。
ただそれだけのだけなのに、こんなにも私は空の色というものに心を奪われてしまう。
隣にいる河原くんと一緒に空を見上げるから、尚更、視界に入れるすべてのものを美しいと思ってしまうのかもしれない。
「忘れたくても忘れられないものがあるのも、知ってはいるけど」
みんなが海辺でビーチバレーをしている様子を見ていたけれど、河原くんの視線が自分に向けられたことに気づいて彼の方を振り返る。
「心の中を覗いてるみたいなタイミングで、言葉をくれるんですね」
自分が心で思っていたことを、河原くんが言葉にしてくれた。
それが、なんだか悲しいことに思えた。
「やっぱり、新しく出会ってほしいなって。俺のことなんて忘れて、さっさと幸せになってほしいなって」
自分だけが考えていることなら全部を自己責任だと思えるけど、河原くんが《《忘れてほしい》》と口にするのはまったくの別物に感じられる。
(そんな悲しい顔をさせたくない)
自分ではない誰かを笑顔にしたいのに、それが人生で一番、難しいことなのかもしれないって想いに駆られる。
望むのは、目の前にいる人に笑ってもらうこと。ただそれだけなのに、その、ただそれだけを叶える力が私にはない。
「忘れることが、新しい出会いに繋がるってことですよね」
好きと言う感情は、いつかは消えてしまう。
消えるって表現は後ろ向きのものかもしれないけど、好きが変わっていくのはいいことだと思う。
それは、その人に素晴らしい出会いが訪れたってことだから。
「もちろん、羽澤さんの覚えていたいって気持ちを否定してるわけじゃない」
河原くんの声は優しいから、始めから私を否定しているとは思っていなかった。
それでも彼は、一言一言を丁寧に挟んで私のことを気遣ってくれる。
「河原くん」
「ん?」
だったら、私も彼のことを精いっぱい想ってみたいと。
「その気持ち、本物ですか」
太陽な柔らかな光が降り注いで、砂浜が金色に光り輝くような錯覚が起きる。
世界は、こんなにも美しく輝いているのに。
どうして私たちの毎日は、こんな風にきらきら輝くことができないのか。
ときどき息が詰まりそうになるけど、言葉を紡ぐことは諦めたくないと思った。
「ちゃんと口角、上げられますか」
左手の人差し指と、右手の人差し指を使って、自分の口角を上げてみせる。
河原くんの口がほんの少しだけ開いて、彼は自分の指で自身の口角をなぞった。
「……ごめん、羽澤さん。やっぱ嘘」
河原くんに変化が起きても、海を訪れている人たちは誰も気づかない。
それなのに、強い太陽の光だけは、私たちの会話の嘘を見抜くかのように光を私たちの言葉に突き刺してくる。
「嘘を吐くって決めたなら、最後まで嘘を吐き通さなきゃいけないんだけど……」
綺麗すぎて、眩しすぎて、嫌になる。
嘘すら吐けないくらい美しい世界が、私たちの隠した心を見透かしていく。
「忘れてほしくない」
想いが溢れるって、こういうことなのかもしれない。
「俺は、その人の人生にい続けたい。」
言葉が止まらないって、今みたいな状況のことを言うのかもしれない。
「そんな、すぐに忘れられるなんて……嫌だ」
気持ちを抑えきれないって、こういうことなのかもしれない。
「俺のこと、ずっとずっと覚えていてほしい」
普段は隠しておきたい本音を、こうも素直に言えてしまう。
私がようやく気づきかけた感情を、同級生の彼は包み隠すことなく吐き出してくれた。
今も、昔も、いつだって彼が、世界を引っ張ってくれる。世界を変えてくれるんだってことを思い出す。
「覚えていてほしいだけなのに、なんで叶わないんでしょうね」
それは、叶わない願いだと知っている。
過去を、ずっと覚えているなんて不可能なこと。
昔、私が奏でた音楽を好いてくれた人たちは……もう羽澤灯里という小さな女の子がいたことを忘れてしまった。
「こんなかたちの片想い、辛いです」
早く、早く、音楽業界を去った私のことなんて忘れてほしい。
けれど、ずっとずっと私の演奏を覚えていてほしい。
どっちも叶えることはできない、私のわがまま。
それを酷すぎる現実と叫びたくもなるけど、私たちは幸せになるために忘れていく。




