第1話「不幸の輪が広がる前に」
「はい、今日もよろしくお願いします」
固い椅子に腰かけながら、また高校の授業は始まっていく。
英語の科目はどれも休む暇すら与えられない速度で進んでいくのに対して、現代の国語の授業は時が止まったような進みの遅さに驚かされた。
「今日は……」
現代の国語を担当する白川先生は年配の女の先生で、慎ましやかな髪留めで自身の髪を飾っていた。
眼鏡の奥の細い瞳に心臓がどきりと音を立ててしまうほど、白川先生は厳しそうな印象を与える先生だった。
でも、その厳しそうな 瞳に反して、白川先生は教科書の一文を丁寧に読み上げていく。
控えめで落ち着いた語り口が特徴的で、少しでも油断すると、どこからが教科書の文章なのか解釈なのか分からなくなってしまう。
(白川先生、今日も何も書かない)
ノートを書き込む速度が追いつかないほどの英語科目に対して、白川先生の授業は一切、黒板を使わない。
黒板を使うこともなければ、プロジェクターが出てくる気配もない。端末を使うことはもちろんなく、白川先生の声だけが静かに教室に流れる。
(何がテストに出るの……?)
教科書の文字に視線を落としながら、心の中で呟く。
春の陽気と相まって、同じクラスで現代の国語を受けている生徒たちは眠りの世界へと誘われていく。
それを注意することもなく、白川先生の授業は続く。
(みんなは……)
抑揚ひとつない白川先生の授業に屈し、深い眠りに就く生徒たちが目立つ中、必死に教科書を捲る生徒たちもいた。
(ほかの授業の予習……)
現代の国語の授業は、まるで自由時間のような状態だった。
白川先生の授業を聞いている人が何人いるのか分からないまま、今日も白川先生特有の授業は終わりを迎えた。
「はぁ」
白川先生は初回の授業で、こんなことを言った。
『今日から皆さんは、大学受験に合格するための勉強を始めます。楽しいとか、面白いとか、そういう感情は一切、必要ありません。大事なのは、受験で一点でも多く取る読み方をすることです』
小学校と中学校の国語の授業は、まだ物語を楽しむ時間があったような気がする。
物語を楽しむことが国語の成績を上げるコツだった気もする。
けど、高校に入学した途端に、今まで育んできた感情は捨てなさいと諭された。
それが正しい現代の国語の進め方かもしれないけど、白川先生の発言を受けて寂しいと思った日のことは今も忘れられない。
(ちゃんと、大学に進学できるかな……)
県内で教員免許を取れる大学は、鐘木しゅもく大学のみ。
鐘木大学に落ちたら、音楽の先生という夢は絶たれる。
お母さんを置いて県外に出る経済的な余裕もないけれど、そもそもお母さんを一人にしたくないという気持ちもある。
(六人目のお父さん候補が来る前に……)
不倫というものが悪いのは分かっているけど、二つの家庭を養うだけの稼ぎがある人との不倫は悪いものではなかった。
経済的な余裕ができるだけで、なんでもできるんじゃないかって夢が広がった。
また、ヴァイオリンをやらえてもらえるんじゃないかって夢を見た。
(不倫は、許されるものじゃない)
これ以上、不幸の輪が広がる前に、私は経済的に自立した人間にならなきゃいけない。
(誰もいない)
静まり返った高校の校舎。
人が疎らな放課後、人がいない光景を視界に入れ続けるのは目に毒だと思った。
高校の校舎に人影が見つからないということは、それぞれが思い思いの放課後を過ごしているということ。
好きなことをやっている人、嫌いなことをやっている人、いろいろあるだろうけど、放課後は自分で時間の使い方を選ぶことができる。
(私だけ、置いていかれたみたい)
独りきりの空間に取り残される瞬間は、いつも慣れていない。
早く、早く、誰かに会いたいって思う。
(情けない)
独りの日々には慣れたはずなのに、人の優しさに触れた結果。
私は完全に弱い人間へと逆戻りしてしまう。
独りで過ごす時間を平気と思っていたはずなのに、今は独りの時間があるだけで寂しいと思ってしまう。
「部活がない日は、勉強……!」
窓から差し込む夕焼けに向かって気合いを入れ直すと、一人の男子高校生が家庭科教諭室から出てきた。
「あ、羽澤さん」
「河原くん、お元気ですか」
彼の片手には小さなメモ帳とボールペンが握られていて、何か質問があって教室を訪れたのだと分かった。
「それが、家庭基礎の先生いなくて」
彼は、小さく息を吐き出した。
「家庭基礎って、そんなに難しい内容やってましたっけ?」
「夕飯の作り方で、アドバイスほしくて……」
河原くんは眉間に皺を寄せて、困ったような表情を浮かべた。
「お味噌汁は、出汁入りの味噌を使った方が楽ですよ」
「中学? 小学校だったかの調理実習で、出汁取れって言ってたのに……」
「出汁がないと、味がないのは事実なので……」
運動部の掛け声や演劇部の発声練習、吹奏楽部が練習している音だけが響いて、放課後らしい空気が漂っている。
一方の私たちは誰も通りかからない廊下で、河原くんの家のお夕飯に関して言葉を交わし合った。
「ばあちゃんに付き添ってるじいちゃんのために、差し入れ作りたいと思ったんだけど……」
「家族のためになりたいからこその難しさはありますよね」
家族に提供する料理なら、美味しくても美味しくなくても受け入れてもらえると思う。
でも、家族の負担を減らすための料理だから、上手に作りたい。
美味しいと思ってもらうことで、家族の気持ちを安らげたいという気持ちがあるのは私も理解できる。




