第2話「特別、仲がいいわけでもない」
「羽澤さん、手袋」
冷たい風が顔に当たるたびに、頬が痛みを伴う。
それなのに、目の前には手袋を拾う優しさのある彼が存在する。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
彼は拾い上げた手袋に付着したゴミを払おうと、ぱんっと手袋を叩いてから渡してくれた。
「中学で、一度も同じクラスになりませんでしたね」
「だね、小学校のときは六年間も一緒だったのに」
背後から現れた彼は、小学生のときから付き合いのある河原梓那くん。
誰も私たちが六年間も同じクラスだったことは知らないだろうけど、私たちは自然と意識していたらしい。
「ってか、なんで敬語?」
特別、仲がいいわけでもない。
ただ、小学校の六年間を同じ教室で過ごしただけ。
私が他人行儀な喋り方をした理由は、そこにある。
「友達なのに」
でも、彼は、ほぼほぼ他人の私を受け入れる。
受け入れるだけの、懐の深さがある。
あまりの寒さに私の表情はかちこちに固まってしまっているのに、今日も河原くんは小学生のときと変わらない朗らかな笑みを浮かべた。
「誰が鐘木高校受けるとか噂になるけど、羽澤さんの噂は聞かなかったなぁ」
冬の寒さが、頬を刺しにくる。
それなのに、目の前にいる彼は春の暖かさを感じさせるような笑みを浮かべる。
「一緒に受かるといいね」
「……ですね」
受験の結果が出れば、勝者と敗者に分けられる。
それを理解しているからこそ、私と同じ学校に通う河原くんは社交辞令を交わし合う。
「じゃあ、また……って、受からなかったら会えないか」
河原くんとはまったく話したことがないわけではないけど、特別、親しい関係というわけではない。
彼は太陽のように暖かい笑顔が特徴で、どんなに悲観的になっても彼の笑顔からは元気をもらえるような気がする。
クラスの人気者って言葉が相応しい彼は、誰に対しても平等に笑顔を振りまいてくる。
「また、どこかで会えたら……」
鐘木高校に合格する保証もないのに、彼のような明るい笑みを浮かべることができない。
河原くんに不快な思いをさせる前に、私は別れの挨拶を切り出そうとしたときのことだった。
「ん……?」
「あ」
相変わらず、ひんやりとした冬の風が頬を撫でていく。
あまりの寒さに目を伏せそうになったけど、私も河原くんも目を見開いた。
遠くから聞こえる美しい旋律に、聴覚すべてを持っていかれた。
目を伏せている場合じゃないくらいの美しい音色は、受験終わりの中学生たちを引き留めていく。
「なんだろ? 吹奏楽部?」
「違います、管弦楽部です」
心の奥深くに響く音楽に導かれるように歩を進めるけれど、管弦楽部の姿は見つけることができない。
「近くの聖籠せいろう高校に、管弦楽部があるんです」
目には見えなくても、音を聞くだけで、管弦楽部が息を合わせて真剣に演奏している姿が思い浮かぶ。
室内で演奏しているのか、屋外で演奏しているのかも分からない。
でも、冬の寒さにも負けずに楽器を手に添え、一心不乱に指を動かすあの日の姿が、私の記憶から焼きついて離れない。
「私、聖籠高校の管弦楽部の演奏が好きで……」
まるで受験終わりの中学生たちに、祝福を送るかのようなタイミングで送られてくる音楽の波。
祝福の調べが世界を包み込んでいく中で、私は今までに感じたことのない感動を拾い上げる。
「進学も……少し考えていたくらい好きで……」
春の暖かさを感じることはできない。
それなのに、受験生に贈る演奏をする先輩方の情熱は冬の冷たさを溶かす勢いに感じられる。
「好きで……好きで……好きで……」
壊れてしまった人形のように、同じ言葉ばかりを繰り返す。
これじゃあ管弦楽部の感動は伝われないのは分かっていても、強い興奮は同じ言葉を促してしまう。
「大好きです」
長かった受験の日々を終えたばかりの私に、大きすぎるご褒美が与えられた。
「羽澤さん」
「はい」
「めっちゃいい顔してる」
試験の重圧から解放されたはずなのに、合格が決まっていないという不安定さは、もともと笑顔が少ない自分をさらに窮屈に縛り上げていた。
「私……笑ってました……?」
「大好きって言葉にしたとき」
無限に続くような気がしていた受験期間が終わった日。
私と、ほとんど言葉を交わしたことのない河原くんは、一緒に朗らかな笑みを浮かべた。