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第12話「経済的な余裕」

「また学校で」

「はい、また明後日に」


 きらきらとした光が、自分に向かって舞い込んでくるような。

 まるで、自分が光というものに包まれているかのような。

 そんな感覚を持ちながら、私は帰りたくて帰りたくない家路へと向かった。

 海辺にいたときは太陽の暖かさを感じられたはずなのに、河原くんと別れた帰り道は春のまだ冬の名残が残っているような肌寒さに襲われた。さすがに息は白くならないけれど、暖かなご飯と家族の声に迎え入れてもらうために歩調を速めた。


「ただいま」


 でも、玄関の扉を開けても、誰の声も返ってこなかった。

 かつて愛した家族の温もりが帰ってくることはなく、私を出迎えたのは家の冷たい空気だけだった。


(今日も、お母さん遅いのかな)


 静かな玄関に足を踏み入れると、いつもより靴の数が多いことに気づいた。


(お夕飯、どうしよう)


 ふと奥の部屋へ目を向けると、わずかに漏れ出る灯りがあった。

 リビングの扉をそっと開けると、そこには酔い潰れたお母さんと血の繋がりのない男性の姿があった。


「おかえり、灯里ちゃん」

「ただいま帰りました、松田さん」


 身長が高く、背筋がすっと伸び、柔らかい眼差しは私のお父さんに似ていて、お母さんが好きなる理由が分からなくもないなと思った。


「すみません。またお母さん、酔い潰れちゃったんですね」

「お店が盛り上がってね……」

「いえ、スナックの従業員が飲みすぎるのは良くないと思います」


 少しゆっくりとした口調だけはお父さんと違うと思ったけど、いつかは耳に馴染んでいくのかもしれない。

 そうであってほしいと願うけれど、お母さんの想いも、松田さんという名前の男性の想いも叶わないことを私は知っている。


「何か温かいもの作ります」

「僕も手伝うよ」


 学生が帰宅するような時間帯に、この男性はどうして我が家にいるのか。

 今日は土曜日だから会社は休みと説明されるかもしれないけど、だったらスーツを着て我が家に立ち入らないでほしいと思ってしまう。


「灯里ちゃん、鐘木しゅもく高校に合格したんだって?」

「はい、なんとかぎりぎり……」

「お母さんも鼻が高いと思うよ」


 どこかぎこちないかもしれないけど、言葉に込められた温かさを無視することができない私は言葉を紡ぎ続ける。

 親子らしい会話を繰り広げながら、お味噌汁の準備を始める。


「鐘木高校に入学するのはお母さんと、四番目のお父さん候補の人の夢だったので、叶えることができて良かったです」


 四番目のお父さんという言葉を受けて、松田さんの手が止まった。


「スナック勤めなので、お母さんからいろいろ聞いてますよね」


 四番目のお父さん候補って言っても驚かなかった松田さんだけど、言葉を詰まらせたことだけは気づいてしまった。


「四番目のお父さん候補の人は、私の塾のお金を援助してくれた方で……世の中には、二つの世帯を養えるくらいお金ある人がいるんだって驚いちゃいました」


 冷蔵庫を開けて材料を探っていると、松田さんが包丁でネギを切る音だけが異様に響いた。


「お気づきだと思うんですけど……私の受験結果を知る前に、関係と切ることになりました」


 松田さんがネギを切り終わったのか、私の言葉に衝撃を受けたのか、キッチンには静寂が漂った。


「まだ別れて二か月? 一ヶ月くらいだったので、松田さんを連れてきたときは驚いちゃいました」


 お父さんと呼ぶには、距離がありすぎる私たちの関係。

 松田さんの言葉や行動にはいつも優しさが込められていて、この距離も少しずつ埋めていけるのではないかと期待してしまう。

 でも、その期待は、いつもあっさりと簡単に崩されてしまうのを私は知っている。


「お母さんって、よく放っておけないって言われるんです」


 暖房をつけなくてもいい季節になってきたはずなのに、家の中を漂う空気は凍りついたように静まり返っていく。


「前のお父さん候補の人も、前の前のお父さん候補の人も、それが理由でお母さんと付き合い始めたみたいです」


 松田さんに、私の声は届いているのか。

 私の声が遠く感じられるくらい頭が混乱しているかもしれないけど、私は冷静に言葉を紡ぎ続ける。


「放っておけないお母さんと一緒にいると、必要としてもらえるのが嬉しいみたいです。頼ってもらえることに、喜びを感じるみたいで……」


 私の隣に立つ松田さんをじっと見つめるけど、松田さんは私に視線を向けてくれない。

 暖かな空気を与えてくれたのは確かに松田さんのはずなのに、一気に松田さんとの距離が遠ざかるのを感じる。


「松田さんも、同じですか」


 松田さんは一瞬だけ、目を泳がせた。

 そして、喉を鳴らして次の言葉を探した。

 でも、松田さんから言葉は返ってこない。


「多分、今日まで、私の家の食費とか……高校に進学するときにかかったお金とか……そういうの、松田さんに払ってもらったと思うんです」


 日本は所得格差が進んでいるとは言うけど、二つの家庭を養えるくらいの経済力ある男性が次から次へと現れるのも不思議な話だった。それだけ、誰かに必要とされたいと願う大人たちが多いというということなのかもしれない。


「そこには、とても感謝しています」


 シングルマザーのお母さんなら、経済力のある自分のことを必要としてくれるんじゃないか。

 そう思った男性たちは、二つの家庭を養うという禁忌に手を伸ばす。

 現に私もお母さんも、次から次へと現れる経済力ある男性たちに生活を支援してもらった。

 鐘木しゅもく高校に合格できたのも、四番目のお父さん候補がいたおかげというのも間違いはないかもしれない。


「でも、うち……慰謝料を払う余裕がないんです……」


 私は、なるべく柔らかな笑みを浮かべる努力をする。

 不倫相手のみなさんに感謝しているのは事実だってことを伝えるために、必死に笑顔を作り込む。


「大事になる前に、どうかお引き取りください」


 松田さんは言葉を発しようと口を開くけれど、そこから先は何も出てこない。

 彼の沈黙は、私の言葉を肯定する材料になっていく。


「松田さんが暴力を振るうような方じゃなくて、本当に良かったです」


 松田さんは、床に視線を落とした。

 五番目のお父さん候補の人とお味噌汁を完成させることはできず、私はお母さんが目を覚ます前に松田さんを送り出した。


「お母さん……私、頑張るから」


 不倫相手を頼らなくても、お母さんに経済的な余裕がある生活を送ってもらうのが私の夢。

 それを河原くんの前では言い出せなかったけど、私はその夢を叶えるためだけに今日も明日も明後日も頑張っていく。


「うちの娘ね……すっごく頭がいいの」

「っ」


 夢の中で、お母さんは不倫相手の人と会っているのかもしれない。

 夢の中で、娘の自慢をしてくれているのかもしれない。


「ちゃんと、お母さんの夢……叶えるからね」


 酔い潰れたお母さんを起こさないように、小さな声で自分の夢を呟く。

 こうして私の人生は始まって、こうして私の人生は終わっていく。

 自分の夢の守り方を知らないまま、私は大人の階段を上っていく。

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