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第11話「約束を交わして、指が解かれる」

「……河原くんも、夢を探すんですか」


 高校に進学した彼は、変わってしまった。

 何があったかは教えてもらえないけど、彼は変わらざるを得なかった。


「羽澤さんを、目指さないこととか……?」

「疑問形で返すの、狡くないですか」

「そう?」

「自分の夢だったら、言い切ってほしいです」


 河原くんは、昔の自分に戻ることを選ぶのか。

 それとも、未来に進むことを選ぶのか。


「だって、河原くんは、私になることはできない。最初から、私を目指す必要はないです」


 小学校、中学校、高校が同じという共通はあっても、河原くんとは親しくもない間柄。


「それぞれが存在するから、きっと世界が成り立っていくのかなって」


 でも、今までの河原くんが目標を持って生きてきたのだったら、何か言葉をかけたいと思ってしまった。


「羽澤さんなら、絶対に素敵な教師になれると思う」

「ありがとうございます」


 河原くんは軽く曲げた小指を差し出して、約束を交わすポーズを取る。


「俺が夢を見つけられるかは分からないけど」


 少しだけ恥ずかしそうしているのが伝わってきたから、私は彼との距離を縮めて、彼の小指に自分の小指を絡めた。


「夢の発表会って、いいですね」


 観客がいなくなってしまった海で、小指と小指を結んで約束が生まれる。

 単純な約束の交わし方。

 約束を破ったからといって何も起きないことを私たちは知っているけど、あらためて未来に向けての約束を交わし合う。


「世界に一つだけの、羽澤さんの夢を聞かせて」


 河原くんの瞳は希望に満ちているように見えるけれど、どこか寂しくて悲しくて儚い。

 そんな瞳は、やっぱり彼が今にも消えてしまいそうな錯覚を引き起こす。


「河原くんも、ですよ」

「……俺が、夢を抱いてもいいのかな?」

「河原くんが、自分のことを好きになれますように」


 約束を交わして、指が解かれる。


「俺も、やってみたいな」


 届くはずのない空へと手を伸ばして、河原くんは願いを託す。


「羽澤さんみたいな、優しい演奏」


 優しさがあると、人は笑顔になることができる。

 それは、私と接してくれた河原くんが教えてくれたこと。

 彼が私に優しさを与えてくれたから、私は作り笑顔を自然な笑みに変えることができた。


「あ、もちろん、ヴァイオリンを始めたいとかじゃなくて」

「大丈夫です、分かってます」


 私たちは大切な人の笑顔を望んでいるはずなのに、肝心の自分たちは上手く笑うことができていない。

 笑顔を浮かべることができない人生になったのは自分のせいだって言われても、自分の人生に全部の責任を持ちなさいって言われても、それは難しい。


「羽澤さんみたいに、愛される人間になりたい」


 自分の身に起きるすべての出来事すべて、あなたのせいでしょって突き放されてしまったら。

 きっと誰もが、笑顔を浮かべることができなくなってしまう。

 それを知っているはずなのに、私たちは他人を突き放してしまうことがある。


「……優しかったですか、私の演奏」

「優しすぎて、泣きたくなる」


 私も、優しさを贈る人になりたい。

 河原くんが贈ってくれた優しさを、今の彼に贈り物として返したい。

 してもらったから、返すということではなく。

 私が、彼に優しさを贈りたいって思った。


「握手、してもいい?」

「なんだか、有名なヴァイオリニストになったみたいです」

「本当に、有名なヴァイオリニストだったんじゃない?」


 私の手を掬い上げる瞬間、彼の指先が触れた。

 これから握手を交わすのだから、彼の指が触れるのは当たり前。

 頭では分かっているはずなのに、同級生と握手を交わすっていう初めてに心が追いつかない。


「握手って、あったかいんですね」

「太陽のせいもあるかもね」


 しっかりと握られた手の間に、言葉以上の何かが存在しているような気がする。

 それらを言葉にできたら、きっと私たちは距離をほんの少し縮めることができるかもしれない。

 でも、それができないから、今日も私たちは他人のまま。


「行こっか」

「はい」


 彼の瞳から逃げ出さなくていいんだって自覚できた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいそうになった。

 真っすぐに向けられた視線に逃げ出したくなることの方が多いのに、真っすぐに瞳を見つめることができる幸福もあるってことを彼が教えてくれる。


「梓那じゃないか」


 バス停に向かって歩き出そうとしたとき、聞き慣れない声が河原くんの名前を呼んだ。

 振り返ると、そこには黒縁の眼鏡をかけた白髪頭の男性がいた。


「じいちゃん」

「こんなところで彼女とデートとは……」

「そんな定番のやりとりいらないから……」


 深い笑い皺が刻まれた顔の男性は、河原くんのおじいさんだと気づく。

 灰色のコートはくたびれて見えるけど、どこか品のある雰囲気を漂わせるところは年長者らしいのかもしれない。


羽澤灯里(はねさわあかり)です」

「初めまして、梓那(しいな)の祖父です」


 私たちの関係性を否定するものの、おじいさんの意味深な笑みは変わらない。

 でも、それが河原くんのおじいさんらしさなんだと気づくと、私の口角も自然と上がっていく。


「先程の演奏、素晴らしかったですよ」

「……貸してもらったヴァイオリンが、頑張ってくれました」


 ヴァイオリンを手に取る喜びや、胸を躍らせる瞬間が確かにあったのに、それらすべては過去のものとなってしまった。

 それでも河原くんのおじいさんは、経験したすべての感情に無駄なことはない。そんなことを感じさせるような力強い言葉をくれた。


「……久しぶりで、怖かったですけど」


 どこかのコメンテーターが、若いうちに才能がないと判断されるのは良いことだと言っているのを見かけることがある。

 だけど、それは果たして本当にその人にとって良いことなのか。

 ピアサポート部の部員をやっていても、そのコメンテーターに対抗する言葉を私は未だに持っていない。


「弾いて……良かったなって」


 音が奏でられた瞬間、世界が変わった。

 音を愛した瞬間、世界が変わることを知った。

 幼いときに感じた感情はすべて手放さないといけないと思っていたけど、覚えていてもいい感情があるのかもしれない。


「自分の命を懸けられるほど、熱中できるものに出会ったんですね」


 河原くんのおじいさんが私に言葉をくれた、その瞬間。

 太陽が傾いたわけでもないのに、眩しいと感じられるほどの陽の光が降り注いできた。

 それらが同時に起きたのは偶然だったと思うけど、瞳を閉ざしたくなるほどの光を感じたのを奇跡って呼ぶのかなって思った。


「……ありがたい環境だったなと思います」


 太陽の光が眩しすぎて、嫌いだと思う日もあった。

 それなのに、今の私は視界に入ってくる世界を美しく思えた。

 太陽の光が差し込む世界は、こんなにも輝いて見えるんだってことを初めて知った。


「河原くん、ここまでで大丈夫です」

「迷ったら、海の見える本屋まで戻ってきて」

「ありがとうございます」


 空に存在する太陽がやけに眩しくて、やけに光り輝いているような気がして、なんだか心惹かれてしまう。


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