第10話「彼が生きる姿は美しい」
「っ」
不完全な音が弦から零れると同時に、胸に小さな痛みが生じる。
自分が未熟なせいで零れた不協和に耳を塞ぎたくなったけど、目の前にいる高校生たちは観客から拍手をもらえるだけの演奏ができていた。
かつて挫折した頃の記憶に影響されていては、音を奏でたいという願いを叶えることができない。
弓を握り直して、もう一度、決意を新たにする。
(よし)
ヴァイオリンから徐々に、旋律というものが形を成し始める。
周囲が楽器の体験会で賑わっているおかげで、いろんな音を聴覚が拾うようになっていく。
もう、過去に囚われることはないと言わんばかりに、生き生きとした音たちが音を鳴らす喜びを伝えてくる。
音楽から逃げ出した私に、こんなにも感情をざわつかせる音を奏でる楽器たちを狡いと思う。
(綺麗な音……)
湿気の影響を受けた楽器が、混じり気のない音を出すのは難しい。
たどたどしい音が空間に広がるだけで、この音色では誰の心も惹きつけることができない。
(もっと綺麗な音……)
理想の音を出すにはメンテナンスが足りないけれど、久しぶりに再会した音に心を奪われる。
でも、心を奪われるのは、私だけでは駄目。
海辺を訪れた人たちみんなを巻き込むような音を奏でなければ、このヴァイオリンの魅力を届けることができないから。
(もっと、もっと、もっと)
音が鳴り始めると、私のヴァイオリンの音色が海辺を駆け巡っていく。
海辺全体に広がっていく音色が、観客の心を離さないものであるようにと願いを込める。
私の演奏を聴きなさいと命令するような、そんな迫力ある音を奏でていく。
(もっと、綺麗な音を届けたい)
自然と耳を傾けてしまうくらいの演奏ができているか。
周囲を確認する余裕はない。
観客の顔を見る余裕がないことを残念に思うけど、私は私と出会ってくれたヴァイオリンの世界に夢中になった。
無我夢中って言葉の意味を、自身の経験を通して体感できた。
「は、はっ……」
演奏が終わると同時に、私は海岸を形成する砂へと目を向けた。
海辺に、鏡は存在しない。
どんなに砂浜と睨めっこを続けても、自分がどんな顔をしているのか確認する手段はない。
でも、生き生きとした表情を浮かべることができたら、こんなにも嬉しいことはない。
そう思って、俯いた視線を上げた。
勢いよく顔を上げると、そこには河原くんの姿があった。
「かっこよかった」
彼とは距離があるため、本当に彼が『かっこいい』という言葉をくれたのかは分からない。
それだけ離れた場所にいる私たちだけど、彼の唇の動きは『かっこいい』という言葉を送ってくれた気がした。
「は、は……」
息が乱れていることに気づいて、息を整えようと大きく息を吸い込もうとしたとき。
河原くんが、私に向かって手を叩き始めた。
彼の拍手をきっかけに、周囲の人たちからも一斉に拍手が沸き上がる。
「っ」
ここは私の独壇場ではなく、聖籠高校管弦楽部の生徒たちや海辺を訪れた観客たちが楽器の体験を楽しむための場所だったはず。
それなのに、周囲の視線を自分が独占していることに気づいた。
鳴りやまない拍手に恥ずかしさを抱くけど、心は素直に喜びなさいと命令してくる。
「ありがとうございました!」
深く頭を下げて、感謝の気持ちを伝える。
次に顔を上げたときには、もっとちゃんと観客の人たちの顔を見たい。
そんな気持ちがあるのは事実でも、私は多くの視線から逃げ出すことを選んだ。
(寂しい、な……)
演奏が終わってしまうことを、素直に寂しく思った。
寂しい。
寂しい。
寂しい、けど。
聖籠せいろう高校に進学をしなかった私は、ヴァイオリンに触れる権利がない。
私はお借りしたヴァイオリンを返して、急いで河原くんの元へと戻った。
「やっと笑った」
河原くんの元へと駆け寄り、彼がくれた第一声は、『やっと笑った』という不思議な言葉だった。
「やっぱり私、笑えてなかったですか」
「ううん、やっと作り笑顔じゃない笑顔に会えたなって」
作り笑顔が大得意になっていて、ちゃんと笑うことができていなかったことを同級生の彼に指摘される。
「恐ろしいくらいの才能で怖い」
「そこまで感じてくれたなら、嬉しいです」
今は、どんな顔をしていますか。
自分で自分の表情を確認することができないから、私たちは今日も表情を作り込むことが上手くなっていくのかもしれない。
「私は、音楽を手放した人間なので」
空を見上げると、そこには相変わらず美しい青が広がっていた。
太陽はきらきらとした輝きを放っていて、その輝きは誰しも平等に与えられているのに、私はその輝きに触れることすらできない。
「俺と約束しない?」
河原くんが声を発すると、辺りの空気が和む。
河原くんの澄んだ優しい声と言葉が、私の心を突き刺してくる。
それなのに、彼の口角は上がらない。
他人を元気づけるような笑顔を浮かべられる彼を知っているから、ときどき不安になる。
「どんな約束を交わせば……」
私が視線を彼に戻すと、今度は彼が真っ青な空に視線を向けた。
私たちの視線は、再び一方通行。
「羽澤さんの夢」
空を見上げる彼の姿を、ただただ美しく思った。
美しいしか形容する言葉が出てこないのも申し訳くらい、綺麗なものは綺麗だって思った。
彼には彼が抱えている事情があると分かっていても、彼が生きる姿は美しい。
「羽澤さんの夢を、いつか聞かせて」
「……いつか」
きっと、誰もが美しさを持って生まれてきたのだと思う。
きっと誰もが美しさを持っていて、自分が持っていない他人の美しさを羨んでいくようになるのかもしれない。
「音楽教諭を目指すこと以外の、羽澤さんの夢が聞きたいなって」
美しいのに、どこか寂しそう。
彼が消えてしまうわけがないのに、今にも消えてしまいそうな儚い空気が彼を纏う。
手を掴んでいないと、今にも彼がいなくなってしまうような。
そんな感覚に囚われていく。
「私には、それ以外の夢なんて……」
「俺もないから、そこは気にしなくていいよ」
ここは、河原くんの穏やかな笑みに会えるところ。
ここは、河原くんの優しい笑みを励みにするところ。
いつもはそうだったはずなのに、そのいつもは存在しない。




