第9話「いってらっしゃい」
「海辺の高校ならではだね」
自分では考えられなかった演奏会が、目の前で開催される。
釘づけになって言葉を失っている私を気遣うように、河原くんはときどき言葉を挟んでくれる。
これは夢でもなんでもなく、現実だってことを教えるために声をかけてくれる。
(海辺での演奏なんて、できないものだって思い込んでた)
私たちが通っている鐘木高校は、学校街と呼ばれている場所に存在する高等学校。
学校街と名づけられていることもあり、学校街には鐘木しゅもく高校だけでなく、聖籠せいろう高校や、その他の高校が集合している。いろんな高等学校が集合しているからこそ、私たちは海辺の演奏会に参加することができた。
(不可能を可能にする音楽……)
やがて指揮者が腕を振り上げ、一瞬の静寂が広がる。
そして、その静寂を抜け出すように音楽が海辺全体へと広がっていく。
弦楽器が奏でるメロディ、管楽器の澄んだ音色が、海辺という舞台にひとつの作品を生み出していく。
演奏する生徒たちの表情は引き締まってはいるものの、音を楽しむ気持ちが込められているおかげで堅苦しさを感じない。
楽器たちが織りなす旋律が心に溶け込んでいき、さっきまで泣きそうだった気持ちが少しずつ晴れていく。
(聖籠高校……行きたかったな)
心の中に、いくつもの感情が渦巻いていく。
懐かしさ、切なさ、悔しさ、言葉では表現しきれないほどの感情が次から次へと生まれてくる。
(管弦楽部、入ってみたかったな)
管弦楽部が演奏する作品は、ただ音として耳に届くだけではなかった。
心の奥深くに響き渡らせるために、彼らが演奏しているってことが伝わってくる。
(でも、今を選んだのは、私)
最後の一音が消えた瞬間、観客たちの拍手が波のように広がっていく。
海辺の演奏に相応しい波音と盛大な拍手が聴覚を刺激して、私も自然と手を叩いて拍手を送った。
アスファルトの道路からでは拍手が届かないと分かっていても、それでも拍手を送らずにはいられなかった。
「羽澤さん」
「はい」
海辺の観客たちは、アスファルトの道路にいる私たちの分も、手を大きく叩きながら声援を送ってくれた。
そんな様子に見入っていると、隣に並んだ河原くんが声をかけてきた。
「いい顔してる」
彼と、視線を交える。
演奏をしていたのは聖籠高校の管弦楽部の生徒たちなのに、彼は私の表情が眩しく輝いていると指摘する。
「っ、そんな……そこまでいい顔は……」
「受験が終わった日の笑顔、思い出す」
穏やかで優しい声が降り注ぐ。
河原くんの優しさは昔から何ひとつ変わっていないのに、どうして彼は笑顔を浮かべることができなくなってしまったのか。
「羽澤さん、時間ある?」
あまりにも美しすぎる世界に、近づく勇気すら出なかった。
「もっと近く、行ってみない?」
眩しいほど美しい演奏を、ただただ見つめることしかできなかった。
でも、河原くんは、私の背を押すための言葉をくれる。
「今から、ここにある楽器の体験会を開きます」
一歩、また一歩、私は聖籠高校の管弦楽部へと近づく。
遠くから見ているだけだった世界が、視界いっぱいに広がる。
「羽澤さん、弾ける楽器ある?」
吹奏楽部でも、管弦楽部でもない河原くんは、こんなにもたくさんの楽器を見るのは初めてかもしれない。
控えめに声をかけた河原くんは少し緊張した面持ちで、久しぶりに彼の感情が動いたのかなって期待が生まれる。
「……ヴァイオリン」
「ここにある楽器は、ずっと倉庫で眠っていた楽器たちです」
私がヴァイオリンと口にするのと、部長らしき女子高生の説明が重なった。
「譲ることもできない状態の楽器たちに、どうぞ触れてみてください」
少子化で部員も少なければ、楽器のメンテナンスにかけるお金も少ないということなのかもしれない。
どうしようもできない現実に心を痛めたところで、楽器たちは過去の音色を取り戻すことができない。
「一緒に、音を楽しみませんか」
メンテナンスされていなかった楽器は海辺の湿気に晒されていくけれど、それを悲しさだけで終わらせたくないと思った。
「河原くん、私……」
「いってらっしゃい」
いってらっしゃいと言葉をくれた彼の表情が、ほんの少し。ほんの少しだけ、過去の笑みを思い出させるものだったのは私の都合のいい解釈なのか。それとも、本当に自然な笑みを浮かべてくれたのか。
答えを見つけられないまま私は、河原くんに背中を押される。
「あの、ヴァイオリンお借りできますか」
「大丈夫ですよ」
潮を浴びた楽器たちは管弦楽部員の手にかかって、あれだけ人の心を引き寄せる音を奏でることができた。
まだ、音を鳴らしたいって気持ちが楽器に残っているのなら、私は手を差し伸べたい。
過去にヴァイオリンを拒んだ後悔があるからこそ、今度はヴァイオリンを愛するために音を鳴らしたいと思った。
「すぅー、はぁー」
大きく深呼吸を繰り返す。
「緊張しますよね」
「とても……」
背筋を伸ばす。
「ヴァイオリンの持ち方は……」
「これで大丈夫ですか」
もう十年以上、ヴァイオリンには触れていないはずなのに。
私の体は、音楽を愛していた頃の記憶をしっかりと覚えていた。
「あ、綺麗ですね。経験者ですか」
「ちっちゃい頃に、ほんの少しだけ……」
思っていたよりも軽いのに、肩に置くだけで圧倒的な存在感を感じることができる。
小さな手で弦を抑え、弓を滑らせた、あの瞬間が一気に甦ってくる。
幼い頃に感じた喜びの気持ちは私を奮い立たせ、私の中で覚悟が決まる。
「弾きます」
その一言を最後に、案内をしてくれた高校生は私に自由を与えてくれた。
指先は迷いなく弦に触れ、その指先から感じた懐かしさは体を自然に動かしてくれる。
かつては演奏者がいたはずなのに、その演奏者を失ったことで、倉庫に眠ることしかできなくなったヴァイオリンたちのことを想いながら弓を引く。




