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第8話「大丈夫なフリをしている」

「将来は、音楽の先生になれたらいいなと」


 こんな立派なことを言っているけど、本当は少し違う。

 両親から公務員になりなさいって言われて、ほんの少し抵抗。

 両親の願いと、自分の願いを叶えるために見つけた道が、音楽の教諭という職業だった。


「ピアノの練習、頑張らないとですけどね」


 物分かりがいいフリをして、私はもう立ち直りました。

 元気です、大丈夫です。

 そう見栄を張って、両親から愛される努力を始めた。

 だって、そうでもしなかったら、あの子はまだ音楽にしがみついてって。

 そんな評価を下されてしまうのが、怖かった。怖かったから、無理矢理に夢を見つけた。


「必要とされる人間になりたいので」


 河原くんに嘆きを訴えても、何も変わらない。何も始まらない。

 世界から必要とされなくなった私は、ただ前を向いて生きていかなければいけない。

 明日、命が終わってしまわない限り、私の人生は続いていく。

 だから、もう心配しないでくださいって、嘘を吐く。


「かっこいいね、羽澤さんは」

「かっこつけているんです」


 私がプロとして食べていくことができなかったのは、すべて自分の責任。

 私の人生は、私だけのもの。

 河原くんに想いをぶつけたところで、何も変わらない。時間は戻ってこない。

 大好きだった音楽に触れる、大好きだったあの日々に帰ることはできない。

 だから、無理にでも口角を上げる。


「俺は、自分が嫌いになった」


 河原くんの口調が、まるで昔話を語り出すかのような口調に変わった。


「だから、かっこよく見えるんだよ。羽澤さんの生き方が」


 大丈夫なフリをしている私を見かねて、河原くんは話を合わせてくれているだけかもしれない。

 それでも、どこか心が通じ合ってしまう会話のやりとりに泣きそうになる。


(河原くんの優しさに泣きたいのか、彼の気遣いに泣きたいのか……)


 それとも自分のことが情けなさすぎて、泣くことでしか感情を発散させる術を知らないのか。

 自分のことなのに、自分のことが分からない。

 それでも涙が溢れそうになって、緩み始めた涙腺を手の甲で擦る。


「昔は、自分をこと……好きとか嫌いとか考えたことなかったのに」


 私たちは、足を止めた。


「いつから、自分のことを嫌いだって思うようになるんだろ」


 足を止めるタイミングが重なって、なんだかそれを奇跡って呼ぶのかなって負った。


「自分を嫌いになった俺には、未練とか悔しさとか……」


 自分を嫌いになったときの河原くんが、どんな様子で、どんな想いを抱いていたのかは分からない。

 その瞬間に立ち会うことができかったのだから仕方のないことだけど、私は自分を嫌いになった瞬間の河原くんに会ってみたいと思ってしまった。


「そういう、糧にしていかなければいけない感情を、すべて失った」


 語り口調は楽しそうなのに、河原くんの表情は少しも楽しそうに見えなかった。

 当時の河原くんのことを考えると、なんだか自分が泣きたくなってしまうような感情にすら駆られてしまう。

 河原くんことを真っ先に気にかけなければいけないときなのに、私はそんな自分本位な想いに駆られる。


「俺は、きっと人形みたいな生き方をしていくんだと思う」


 波のささやきが、寄せては返す。

 そんな表現が相応しいような音が、私たちの聴覚に届けられる。


「羽澤さんは、違うよね」


 時折、吹きつける風に言葉がかき消されそうになる。

 でも、私は彼の言葉を聞き逃したくないと思った。


「羽澤さんは、まだ音楽の世界を愛している」


 聴く側のプロに愛されなかった私だけど、今も音楽の世界で食べていきたい。

 聴く側のプロに切り捨てられた今も、私の中からその想いは消えることがない。

 そんな私を、神様はしつこいと思うのかもしれない。

 いつまでも未練がましい奴だって、あざ笑うのかもしれない。


「凄いんだよ、好きなものがある人って」


 その言葉を、綺麗な笑みを浮かべた河原くんの声で聞きたかった。


「音ある世界を生きたいって、本気でかっこいい」


 私が今でも好きだと思う、その笑顔。

 その笑顔は、私を救ってくれるはずだった。

 でも、目の前にいる彼に、他人を巻き込んでしまうくらいの朗らかな笑みは存在しない。

 彼の声だけは、ずっとずっと優しさを含んでいるのに、彼は笑みを浮かべることができていない。


「河原くん、私は……」


 どこからともなく、管楽器が音合わせをしている音が聞こえてきた。

 潮風が頬を撫でるような場所で管楽器の音が響くわけがないのに、私は音の出どころを探してしまった。


聖籠(せいろう)高校の管弦楽部?」


 私は街並みに目を向けてしまったけど、河原くんは海に視線を向けていた。


「こんなところで演奏したら、湿気で楽器が駄目になる……」


 一緒になって、海辺を覗き込んだ。

 そこにいたのは、河原くんが指摘した通り聖籠高校の制服を着ている生徒たち。

 制服の襟が風に揺れらながら、それぞれが大切な楽器を手にしていた。


「弦楽器と管楽器が、一緒に活動してる」

「はい、だから……管弦楽部って言うんです」


 弓が弦に触れる瞬間、管楽器に息が通る瞬間。

 それぞれの音が少しずつ繋がり、一つの作品を完成させるための準備を進めていく。

 その様子を、海辺を訪れた観客たちは静かに見守っていた。


(湿気でやられても、大丈夫な楽器たちなのかもしれない)


 どこの高校も少子化が進んでいて、ひとつの部活を形成するにも苦労しているという話は聞いている。

 現に私たちが通っている鐘木(しゅもく)高校は部員が足りないことが理由で、サッカー部と野球部が二年前に廃部となった。

 近くの聖籠せいろう高校の管弦楽部も同様で、眠り続けて使われなくなった楽器たちが増えているのかもしれない。

 眠らせたままなら、海での演奏に使おうということなのかもしれない。

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