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第7話「泣きたくても、泣かない」

「羽澤さんは、好きな音楽を伸ばす方向に進むの?」


 高層の建物がない場所では、空も海も大地さえも広い視野で観察することができる。

 時が流れれば流れるほど太陽は沈んでいくはずなのに、太陽はさらに輝きを増しているような気がしてしまう。

 それだけ、視界に映り込む世界が美しすぎて嫌になる。


「私は、ちっちゃいときに諦めちゃいました」


 どんなに頑張った、どんなに努力したとアピールしたところで、結局は自分をプロと必要としてくれる人と出会わなければいけない。

 結果がすべてとは言うけれど、プロとして音楽を続けることはできませんと手渡された現実は想像以上に重たかった。


「お金を稼ぐことができない音楽に、価値はないって」


 空も、海も、深い青が広がっている。

 その蒼が美しすぎて、視界を背けたくなる。

 それなのに、海沿いの道は真っすぐ続いている。


「もちろん、そんなことはないです。お金がすべてではないですけど、幼少期の習い事って……どうしてもお金がかかってしまうので……」


 もうしばらく歩かなければ、広がる青から逃げ出すことはできない。

 だから、私は隣を歩く河原くんに助けを求める。


「親の経済的な負担になる音楽では、音を楽しむことができないなって」


 今だけ、視界に入れることを許してくださいって。


「……羽澤さんは、後悔してる?」


 ピアサポートの活動をしているわけではないけど、彼の背中を押すための言葉を紡ぎたいと思っていた。

 でも、私は救い上げる側の人間ではなく、彼から救われる側の人間だった。


「後悔だらけの人生、です」


 プロの道に進みたいという夢は確かに私の中に存在していたのに、その夢は霞のように儚く消えてしまった。


「今も絶賛、後悔中です」


 誰からも必要とされない音楽は、お金にならない。

 お金にならない音楽は、幼少期の両親の負担にしかならない。

 ヴァイオリンが裕福な家の習い事だと気づいた瞬間。

 神様は、夢を追いかけられる人と追いかけられない人の二通りに分けているのだと絶望した。


「後悔している割に、綺麗に笑うね」

「……綺麗に、笑えてますか?」

「うん、大丈夫」


 鏡のない場所では、自分の表情を確認することができない。

 自分が口角を上げることができているのか不安になっていたことに気づいた河原くんは、真っ先に気づいて励ましの言葉を与えてくれた。私なんかよりも、よっぽどピアサポート部の部員らしいと思った。


「良かった……」


 声にするつもりはなかったのに、声が漏れ出てしまった。

 ちゃんと笑顔を作ることができれば、家に帰ったとき家族に心配をかけずに済むっていう安堵の気持ちが私を包み込む。


「良かった……」


 学校に帰る、途中の道で。

 隣を歩く彼に、泣いている顔を見せることがなくて良かったと思った。

 音楽を捨てたことを未だに後悔しているからこそ、前を向いているフリができた自分を褒め称えたい。

 一瞬だけでも綺麗な笑みを浮かべることができれば、家族を誤魔化すことができるのだから。


「好きなことも嫌いなこともない人生も辛いって思ったけど、好きがあるっていうのも辛いね」


 彼の視線の先には私がいて、彼は私のことしか見ていない。

 真っすぐな瞳で、とんでもない発言を投げつけてくる彼が纏う空気はどこか儚い。


「好きを続けるには、覚悟が必要だって……ちっちゃいときに学びました」


 なるべく心配をかけないような、それこそ昔の河原くんが見せてくれたような綺麗な笑みを心がけた。


「凄く……凄く……悔しかったなぁ……凄く……」


 悔しくなんかないよって言葉を伝えることが、ピアサポート部の部員としては正しいのかもしれない。

 でも、そんな見栄を張る余裕すらないくらい心はぼろぼろ。

 努力で覆せるものはあると信じてきたけれど、努力だけではどうにもならないことがあると知った。

 いざ自分に才能がないことが分かると、心が切り裂かれたように痛みを感じる。


「音楽でご飯……食べたかったなぁ」


 私が挫折したタイミングと、両親が離婚したタイミングがちょうど重なって、私の前には都合よく逃避するための環境が用意された。

 その環境に乗っかって今日まで逃避行を続けてきたけど、その逃避行は今のところ後悔の感情しか招いていない。


「音楽で食べていけないって現実、認めたくなかったです」


 私が生きてきた世界では、聴く側のプロがいる。音を審査するためのプロがいる。

 そういう人たちが、才能ある人と才能のない人たちに分けていく。

 音楽の神様に愛された人間は、未来永劫、音楽を続けていくことを許される。

 音楽の神様に認められなかった人間は、どんなに音楽と言うものを愛していてもプロとして活躍する活路は用意してもらえない。



「羽澤さんは今も、音楽を愛しているんだね」


 同い年の彼は、まるで私が生きてきた人生を見ていたかのように声をかけてきた。


「それは……」


 泣きたい。

 でも、泣かない。

 泣くって、悔しいって思ったから。

 屈したみたいで、嫌だったから。

 だから、泣きたくても泣かない。

 そんな道を選択した。


「当たり前のように、私の中に存在している感情です」


 時代が流れることで、プロもアマチュアも関係なく活動ができるようになっていく。

 私が社会人になることで、経済的な問題も解決できる。

 自由に音楽を楽しむことができる環境が待っているのは間違いないけれど、その自由に音楽を楽しむことができる環境を手にするまでが遠い。時間がかかりすぎる。

 残酷な結末を手渡されたまま、理想の環境を手に入れることの難しさを知って、この先の人生に楽しみを持つこともできない。


「音楽は、私にとっての生きがいですから」


 今の私は、ちゃんと笑えているのか。

 鏡がないと自分の顔を確認できないことが、ほんの少し怖い。

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