第6話「心はずっとざわついたまま」
「第一志望校に受けるって夢を叶えられたのに、どうして幸せを感じないのかな」
「おめでとうって言葉、欲しかったですよね」
進路を意識し始めたのは、中学二年生くらいの頃から。
そこから長きに渡る受験生活を乗り越えたのに、合格の先に待っていたものは次の進路を考えることだった。
「高校の先生たちはもちろんですけど、私、両親からもおめでとうの言葉がなかったんです」
ひたすらに問題集と向き合った日々も、朝早く起きて続けた勉強も、試験前のプレッシャーも、何ひとつ認めてくれることはなかった。
「塾に通ったおかげ、塾の先生のおかげ……それは確かにそうなんですけど、あれ? って思っちゃいました」
第一志望校の鐘木高校に入学することで煌く希望を手にできると思ったのに、虚しさに押し潰されそうになった日のことは今も忘れられない。
「自分が積み上げてきた頑張り、どこに行っちゃったんだろうね」
「おめでとうの言葉をもらうのって、こんなにも難しいんだなって」
血の繋がりのある両親だったらっていう期待はあっけなく崩れ、自分の努力を知っているのは自分だけなんだと思い知らされた。
「そっか……だから、幸せじゃないんだ」
河原くんは、じっと宙を見つめていた。
「あ、でも、これは私の経験で……」
「俺も同じ。おめでとうの言葉、なかったなって」
けど、すぐに私に視線を戻した。
「両親から、おめでとうの言葉をもらうために頑張ってたんだ……」
高校受験に合格するのが、河原くんの夢だったことに間違いはない。
でも、その夢の中には、両親の笑顔が含まれていた。
「両親のために頑張ったから、こんなに虚しいってことか……」
私も河原くんも、自分のために頑張れば良かったのかもしれない。
高校受験に合格するのは両親に喜んでもらうためではなく、自分の夢だって自覚しながらの受験だったら、こんなにも虚しい感情に縛れることはなかったかもしれない。
「でも、両親のために、頑張りたかったですよね」
自分の夢の中に、両親の笑顔を含むのは間違いですか。
そう大人の人たちに問いかけたら、間違いですって返されるかもしれない。
でも、私も河原くんも、両親の笑顔が見たかった。
両親の笑顔のために頑張った自分を、今はどうしても否定したくない。
「河原くん、合格、おめでとうございます」
河原くんが求めているのは、私からの《《おめでとう》》の言葉ではないと分かっている。
彼が求めているのは、家族からの《《おめでとう》》の言葉だと知っている。
でも、この言葉を伝えずにはいられなかった。
「羽澤さんも……」
河原くんは躊躇いながらも、ゆっくりと口を開いた。
「鐘木高校、合格。おめでとう」
河原くんは上手く笑うことができなくなってしまったかもしれないけど、私は上手に笑えるように心がけた。
「ありがとうございます」
「俺こそ、ありがとう」
おめでとうの言葉を求めているのは、自分だけだと思っていた。
でも、他人と同じ思いを抱えていることを知ると、孤独感が薄れていく気がした。心がほんの少し軽くなったのを感じた。
「そろそろ、送ろっか」
「まだ太陽が輝く時間帯ですけどね」
「海辺まで連れてきちゃったのは俺だから、見送りくらいさせてよ」
手渡されたアイスはりんご味だったはずなのに、最初はりんご味のアイスを食べたっていう感覚がなかった。
味覚が死んでいるとかそういうことではなくて、彼と一緒に食べるアイスだから、味がしなかったのだと思った。でも。
「河原くん」
今は、ちゃんとりんご味のアイスを食べたって自覚がある。
「アイス、ご馳走様でした」
今は、ちゃんとりんご味のアイスを美味しいって感じることができた。
「羽澤さんは、何が好きなの?」
太陽の光が燦々と降り注ぐ午後。
海岸沿いを並んで、高校の方角へと向かって歩く。
「好きなものが、将来の夢に繋がっていくとか言うから」
波の音が優しく耳に響き、遠くでは真っ白な鳥が自由に舞っている。
砂浜は日差しを受けて、きらきらと輝いて、青春らしい空気が私たちを包み込んでいる。
「私は……音楽、かな」
河原くんの前で、初めて丁寧ではない喋り方をした。
青春っぽい空気に踊らされたのかは自分でも分からないけど、この喋り方をしてみたいと思った。
「音楽? J-POP……じゃないか。クラシック?」
河原くんの視線は空に向けられていて、無限に広がる青を見つめていた。
私は、ずばり言い当てられたことに驚いて、彼に視線を向けた。
「そんなに詳しくはないですけど……はい」
私たちは青春らしい空気をまとっているはずなのに、交わす言葉たちに熱らしきものは感じない。
河原くんは私の気持ちを汲むような優しい話し方をしてくれるけど、ぎこちなく動く口角はやっぱり気がかりだった。
「河原くんは、好きなものありますか? 将来に関係なく」
「勉強以外、なーんにもない人生だったかなぁ」
大きく腕を伸ばして体を解そうとするけど、真新しい制服を着込んでいる彼は腕を伸ばしづらそうにしていた。
「体育の授業で活躍してるとこ、見かけたことありますよ」
中学時代に同じクラスになることはなかったけれど、隣のクラスと体育の授業が合同になったときに彼の活躍を目にした。
小学校時代と変わらない運動神経の良さを羨ましく思ったことがあるのは、今も記憶に残っている。
「運動神経に恵まれたってだけ。そこに、好きも嫌いもないってところが……ね」
海は驚くほど穏やかなのに、心はずっとざわついたまま。
それを青春らしいという言葉で表現するのかもしれないけど、青春という言葉では片づけないでほしいと叫びたい。




