第3話「誰かにとってのたった一人になりたい」
「私ね、灯里ちゃんみたいな凄い子が同級生にいて驚いちゃった」
過去に経験したことの意味を考えながら掃除をしていたせいか、ときどき雑巾を持つ手が止まってしまっていたらしい。
私の異変に気づいた百合宮さんが、率先して私に話しかけてくれた。
「灯里ちゃんの活躍を見て、勇気づけられた人っていっぱいいると思うんだよね~」
百合宮さんの言葉が、私の心を強く叩いてくる。
天才ヴァイオリニスト現ると、いろんな業界の人たちが騒いでくれた頃のことを思い出す。
そんな風に、もてはやされていたときのことを思い出す。
(ちゃんと……ちゃんと努力はしてきたつもりだったけど……)
将来の夢なんて、まだぼんやりしていた幼い頃。
好きなことで食べていきたいと漠然とした夢を抱いていた頃に、私は賞レースで結果を残すことができなかった。
夢を叶えるための努力を続けていきたかったけど、溜め息を数が増える私に両親は声をかけた。結果の出ない努力に、意味はないと。
「灯里ちゃんを天才って最初に呼んだ人を、ここに連れてきたいね」
「どうするんですか?」
ヴァイオリンが関わる職業は多種多様あると知っていたから、独奏者ソリストになれなくてもいい。
ヴァイオリンに関わることができたら、それだけで私は幸せ。
そんな甘えた考えだったから、私は両親に待ったをかけたのかもしれない。
独奏者ソリスト以外は、意味がない。
両親にとって、独奏者ソリスト以外の道は選択肢になかったということ。
「あなたたちが騒ぎ立てた天才は、今は普通の高校生ですよって」
「ふふっ、仕返しでもしちゃいますか?」
「おっ、灯里ちゃんにも人間らしい感情があるんだね」
百合宮さんの言葉を受けて、始めに《《天才》》だと騒ぎ立ててくれたのは両親だったかもしれない。
そんな幼き頃の記憶を辿りながら、私は目の前にいる百合宮さんと言葉を交わしていく。
「私がいなくても、世界は成り立っちゃうんですよね」
「そんなこと言ったら、私も灯里ちゃんと同じ。いてもいなくも変わらない人間の一人だよ」
誰もが、誰かにとってのたった一人になりたい。
百合宮さんとの会話を通して、そういう願いを抱いているのは自分だけではないと気づかされる。
ピアサポート部の部員として百合宮さんを支えなきゃという意気込みがゆっくりと解かれ、私は彼女との会話を楽しむように意識を切り替えていく。
「でも、百合宮さんを支えてくれる何かがあるからこそ、今もヴァイオリンを続けているんですよね?」
「灯里ちゃんは、鋭いね~」
音楽の才能がある者には、音を与える。
音楽の才能がない者からは、音を奪った。
音を審査する人たちは、独奏者ソリストを目指す人たちをふるいに掛けていく。
「私の演奏を好きって言ってくれた人がいた。ただ、その思い出だけで、ヴァイオリンにしがみついてるの」
現実は、残酷で過酷。
どんなに音楽への愛情が深くても、私たちは生きるために食べなければいけない。
幼い頃からコンクールで競うことに重きを置いてきた私たちは、お金を稼ぐことと自分の好きなことを続けるかどうかの狭間で揺れ動く。
「音楽業界に、おまえはいらないって言われてるのにね」
独奏者の道を諦めた私は、音楽の世界から離れることを選んだ。
でも、目の前にいる百合宮さんは、今もコンクールに出場し続けている。
「好きなら、続ければいいっていう人もいるけど」
「それは、投げやりな言葉ですよね」
音楽の神様に愛された人は、自分が思い描いたままの道に進むことを許される。
音楽の神様に愛されなかった人は、音楽に携わることを諦めなければいけない。
「だって、愛だけでは食べていくことはできませんから」
音楽を教える教師を目指すという発想には至ったけれど、そもそも音楽の先生は授業中にヴァイオリンの演奏を披露したりしない。
教師になることができたとしても、そこに私がかつて愛したヴァイオリンの姿はない。
「好きなことを続けるには、やっぱりお金が必要ですから」
「生きていくのにお金が必要なのと、一緒だよね」
週に一回あるかないかの音楽の授業。
単位を取ってしまえば、大抵の生徒の人生には関係がなくなってしまう音楽。
ほとんどの人にとって価値のない音楽の授業かもしれないけど、その価値のない中で生まれるものがあるって信じて、教師という新しい夢を見つけた。
(でも、不安)
見えない未来に向かうことが、こんなにも怖い。
それは大人たちも経験しているはずなのに、その恐怖の乗り越え方を誰も教えてはくれない。
「他人への嫉妬って、本当に醜いものですね」
「嫉妬? どうしたの、灯里ちゃん?」
希望していた職に就くことができなかった。
ずっと抱いていた夢を叶えることができなかった。
そんな境遇に立たされているのは、私だけではない。
こういう現実に直面している人たちは大勢いる。
理想していた道を歩むことができかったとしても、前を向くために必死に日々を生きている人たちがいる。
それなのに、私はいつまで悲劇のヒロインを演じているつもりだろう。
「私、百合宮さんに凄く嫉妬しています」
「え? なんで、なんで!?」
早く前を向いて、新しい夢を探しにいかなきゃいけない。
これからも続いていく毎日を生きていくために、しっかりしなきゃいけない。
「私は、灯里ちゃんの演奏が凄いって話をしただけ……」
「好きって感情を、真っすぐに伝えられる百合宮さんがかっこいいなぁって思います」
立てる、だろうか。
一人で立って、歩いていくことはできるだろうか。
頭で理解しているつもりのことを、実行していく勇気と覚悟。
私には、きちんと備わっているのか。
「好きなものは好き、だよっ!」
「そういうところが、かっこいいです」
何かは始まったのかもしれないけれど、何が始まったのか具体的に述べることはできない。
だけど、何かを終わらせることはないようにしたい。
大好きなものを手放す喜びを、理解してほしくない。伝えたくない。
この感情だけは、知らないままでいてほしい。




