3話「呼吸もできないくらいに驚きます」
◆
二ヶ月後、そろそろ領地として与えられた村へ行く準備を整え始めた。連れて行く使用人は全員、という訳にはいかない。恐らく一人……いや二人。
その選出に頭を悩ます日々だった。誰もが嫌がっている、なら話は早いのだが誰もが嫌がらずに「是非お供に!」と言い出してくれるので。
「それなら、最初は全員連れて行きなさい。給金は私から出しておく。新参の領主が、そういう風に上位の貴族に頼るのはよくあることだぞ」
というお父様の言葉で、全員を連れて行く算段が整えられた。
そんなある日のこと、リビングのテーブルに大き目のバスケットが置き去りにされていた。わたくしの視線に気付いたのだろう、カチュアが言った。
「旦那様がランチをお忘れになったようです。届けに行きますね」
カチュアがバスケットをよいしょと持ち上げようとして――奇声をあげた。
「ど、どうしたの!?」
「も、申し訳ありません奥様……腰、が……」
魔女の一撃……! 腰に急に負担を掛けたときに起きる、物凄い激痛! ギックリ腰とも呼びますわね!
「と、とりあえず、お医者さんを呼びますね!」
「は、はい。それは……お願い……します……」
わたくしは慌てて使いをやって、医者を呼ぶことにした。その後、使用人たちがてんやわんやとカチュアをベッドに運び、わたくしは何ができるという訳でもなく、ただ様子見をするだけだ。
「……あ、お昼」
そして、そのドタバタ騒ぎでバスケットケースがテーブルに置き去りにされたままであることに気付いた。
少し考えて、自分で持ち上げる。思ったより軽い。今日のアーカム様のスケジュールは騎士団の訓練所で夕方まで訓練と聞いている。
訓練所までは歩いて二十分。そんなに遠くはない。今から出て、お昼までには間に合うだろう。
「……よし、行きますか」
冷静に考えれば、お昼の手渡しなど別の使用人に任せても良かったのだけど。
侯爵令嬢のわたくしであれば、まず間違いなくそうしたのだけど。
不思議なことに、何だか自分の足で歩きたくなっていた。
あと、ついでに言ってしまえば。
「……騎士として頑張っている旦那様は、果たしてどんな感じなのかしら」
そんな、仄かな願いも心に生まれていたようだった。
歩きながら、わたくしは街の風景をぼんやりと見やる。この一帯は、わたくしがかつて住んでいた上級貴族のエリアほどに整然とはしておらず、かといって平民たちが住むエリアほど雑然とはしていない。
平民の中でも商人として名を馳せた人間や、あるいは王宮に仕える官吏など、様々な立場の人間が住む、いわゆる中流階層のエリアだった。
それ故か、街並みは芸術的な美しさを誇る上級貴族のエリアほどではないが、雑然とした感じはあまりない。そう、どこか素朴な美しさがある地区だ。
香ばしい匂いが鼻をくすぐった。どうやら職人が、大きな竈でパンを焼いているらしい。
朝食を終えたわたくしでも気を取られる、魅惑的な香り。
「この昼食を届けたら、帰りに買ってしまおうかな……」
そんなことを考えて侯爵令嬢だった時にはまず思い付かないな、と苦笑する。最近、表情を取り繕う必要がなくなったせいか、わたくしはよく笑うようになっていた。
「……」
視線を感じる。振り返ると、小綺麗に飾った少年が呆けたようにわたくしを眺めていた。
「おーい、ヨハンー! どうしたんだよー!」
「ご、ごめん。今、行くよ!」
ぱたぱたと、慌てたようにヨハンと呼ばれた少年が駆け出していく。
ふむ、顔に何かついていたのかしら……。わたくしは片手でそっと頬や唇に触れて、変なところがないか確認した。
「どうしたんだよ、ヨハン?」
「今、すっっっげえ綺麗な人がいた」
「ふぅん」
「何かさ、貴族の人って感じだったんだけどさ。笑うとすっげえ可愛かった!」
「そうか!」
「貴族なんていっつも愛想笑いしかしないって思ってたけど、ああいう人がいるんだな!」
商人の息子ヨハン、初恋の瞬間であった。
◆
「到着、と……」
騎士団の訓練所に到着すると、わたくしは守衛の方に事情を話した。
「ああ、なるほど。それならバスケットを検めさせてください。問題なければお通しします」
どうやら、騎士の奥方が忘れたお昼を持ってくるのはそれなりによくあることらしい。わたくしはもちろんバスケットを見せて、中を検めさせた。
「失礼いたしました。どうぞお通りください。真っ直ぐ行けば訓練場です。控えている小姓がいるはずなので、誰に面会しに来たか伝えてもらえれば」
「かしこまりました、ありがとう」
ここからでも、訓練のわぁわぁという喧噪が伝わってくる。
さて、わたくしの旦那様は活躍していらっしゃるのだろうか。さすがに訓練中に、そんな目立つようなことはしないと思うけれど。
訓練場では甲冑をつけた、あるいは革服の騎士が様々な訓練を行っていた。
甲冑のまま走る者、武器を構える者、刃引きの剣で打ち合う者など様々だ。
「失礼します、どなたかにご用でしょうか?」
小姓の少年が声を掛けてきた。
「ええ、その。アーカム・ベオライト様に昼食を届けに来たのですけれど」
「……アーカム様に、ですか?」
「そうです」
小姓は一瞬、訝しげにわたくしを睨んだ。む、この視線は危険信号。わたくしへの警戒的視線で、即座に事情を看破する。
「名乗りが遅くなって申し訳ありません。わたくし、アーカム・ベオライトの妻、エルテ・ベオライトです」
「アーカム様は本日、訓練に来ていませ…………妻ぁ!?」
「はい、妻です」
「ちょ、ちょ、ちょっとお待ちくださーーーい!」
三分後。
「え、嘘! アーカムの嫁さんって実在したの!? いえ、実在したのでございますか!?」
「架空の人物(要出典)だと思ってた……」
「貴族令嬢ってマジ? それも侯爵っていったら俺たちの何倍エラいの?」
「この人が俺たちのせいで傷ついたら俺たちの首が100人飛ぶ」
物凄い人数がやってきた。いや、正確には訓練を中止して遠巻きにわたくしを観察している。あとわたくし如きで100人は飛びませんわよ、多分ですが。
「アーカムさん、こちらです!」
「む、エルテ。どうした?」
甲冑と兜姿のアーカム様が現れました。そういえば、平常は兜をかぶっているのでした。
「お忘れになったようなので、お昼を届けに来ました」
おおー、というどよめきが野次馬騎士団から響く。皆様、訓練は?
「そう言えば忘れていたな。わざわざ感謝する」
バスケットに手を伸ばしかけたアーカム様は、ふと思い付いたように手を戻しました。
「アーカム様?」
「せっかく来てくれたのだ。昼食を共にしないか?」
その言葉に、きゅっと心のどこかが嬉しさで弾んだような握り締められたような、そんな気持ちを抱きます。
「もちろん……構いませんわ」
「訓練はあと一時間ほどだ。それまでは施設を見学してもいいし、ここで待っていても問題ない」
それなら、ここで待つことにしよう。
「旦那様の訓練、拝見させていただきますわ」
「あまり面白いものではないと思うが……では、行ってくる」
そう言いつつ、アーカム様は訓練に戻っていく。その途中、アーカム様はぐいっと腕を回した。
……ん? もしかすると、やる気になっていらっしゃる?
「よし、やるぞドラン」
「え? やる? 別にいいが、今日はもう軽く走って終わらせるんじゃなかっ」
どーん!
人が吹っ飛んだ。上に。
「よーし、次!」
「よーし、次じゃねえよ! アーカムてめえ張り切りすぎだ!」
「いいから次!」
「ヤバい、アーカムのテンションがバリ高だ! 奥さん来たからって張り切りすぎだろ!」「しょうがない、一斉にかかるぞ! 五人一組だ!」「よーし、日頃の恨み……は特にないが、綺麗な奥さん貰って羨ましいから返り討ちにしてやらあ!」「アイツのせいで、たまに俺たちが兜脱ぐとため息つかれるもんな!」
……うちの騎士団、ちょっとガラ悪いですわね。騎士というのは、こういう感じなのかしら……。
「行くぞ! 喰らえアーカム!」
わたくしの旦那様が、一回転しながら刃引きの剣を振り回す。五人の騎士が投げられたボールのように吹っ飛んだ。今度は横に。
騎士の訓練、こんなに激しいものなのかしら。
「アーカム様張り切りすぎー!? だ、誰か止めてーーー!」
小姓が慌てた様子で走り出した。
それからもアーカム様は縦横無尽の大暴れ……大活躍であった。
「わたくし、人が吹き飛ぶのも初めて見ましたし甲冑姿の騎士(※旦那様)が側転から前転するのも初めて見ました……」
「……そうか。怖かったか?」
「いいえ、全く。とても面白かったですわ」
昼休み、訓練場の芝生にお借りしたブランケットを広げて、わたくしとアーカム様は食事をしながら、そんな会話をした。
まだ騎士たちの視線が気にならないでもないが、アーカム様は平気なようだった。兜も外し、いつもの素顔でサンドイッチを頬張っている。
「お、珍しい。アーカムが兜つけてない」「拝んでおこう。何か利益があるかもしれない」「大丈夫か? 今日は女性陣来てないよな?」「あそこは死角になるから多分大丈夫だろ。いざとなったら兜つけてもらおう」「しかしアイツの表情、本当に変わらないな! 奥さんニッコニコなのに!」「俺たちが吹き飛ぶ様子を見てニッコニコなのはある意味大物だな……」
野次馬の騎士たちの声をしっかりと耳に拾う。ごめんなさい最後の騎士様。正直、わたくしの旦那様強すぎ……という気持ちのせいで、他の騎士様が吹き飛んでも、嬉しさの方が大きかったのです。
「それにしても今日はどうした? 普段なら、カチュアが持ってきたものだが」
「ああ、カチュアは魔女の一撃(※ギックリ腰)になってしまって……」
「それはいけないな。しばらく養生させよう」
「そうですわね。残念ですが、一ヶ月後の領地に向かうのは控えた方がいいかもしれません」
「そうだな……」
そんな風に、領地経営の話などをしながら食事も終わりに差し掛かった頃、不意にわたくしたちの傍に人影が見えた。
「やあ、いいかなアーカム」
「……!」
わたくしとアーカム様は即座に立ち上がると、それぞれ最上位の存在に対する挨拶を行った。何しろ目の前にいるのは、王族である……!
「久しぶりだね、アーカム。楽にしてくれていいよ」
「畏まりました、エリオット王子」
くせっ毛のある金髪、王家特有の柔和な顔立ちは、わたくしの旦那様のような芸術的な美しさではなく、親近感を呼ぶタイプの美しさがある。
第二王子、エリオット・セラフィール。我が夫、アーカム様が戦場でその身を救った、という王家の人間だった。
「うん。改めて個人としてお礼が言いたくてね。私と話していた騎士団長が小姓に呼び出されたから、これ幸いと乗っかったのさ」
「恐縮です」
エリオット様は温厚篤実、王位継承権こそ三位であるが軍部……特に近衛騎士たちからの支持が厚い。これは彼の母親が伯爵位を持つオットー騎士団長の姉であることが大きい。
大人しい性格ではあるものの、騎士たちに幼い頃から可愛がられた彼は剣の腕も一流と聞く。
「殿下、我が妻をご紹介します」
「アーカムの妻、エルテ・ベオライトでございます」
カーテシーをしたわたくしに、エリオット様はなるほどと頷いた。
「君がアーカムの妻とは、正直驚いてはいるが……良縁だったと思っているよ」
「はい。わたくしもアーカム様の妻として、幸福を享受しております」
「アーカム、君はどうだい?」
エリオット様の眼光が、一瞬鋭いものに変わる。それは王家、というよりは彼一個人としてのもののようだった。
嘘を見逃さない、というような彼の眼にわたくしの旦那様は全く臆することなく答えた。
「殿下。私は自分が幸福であるかどうかは、上手くお伝えできる自信がありません。ただ……」
「ただ?」
アーカム様は少し考えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……騎士としての任務を果たしてから、家に帰ると安堵します。エルテが待っているからです。エルテが『ただいま戻りました』と私に挨拶すると安堵します。彼女が戻ってきてくれたからです。昔は雑務で帰りが遅くなっても平気でしたが、今は焦りを覚えます。エルテが待っているかもしれないからです。これを幸福と呼ぶかは分かりませんが、私は……不幸ではない、と思います」
……。
……ちょ、っと、待っ、て、ほしい、のです、が。
エリオット様はしばし目をパチパチとさせた後、大きな声で笑い出した。
「あはははは! そうか、うん、そうかそうか。いや、上手くいっているようで何よりだ! 王家が君たちを不幸にしかけたことを詫びねばならないと思っていたが……いや、詫びる必要はもちろんあるが、少しホッとしたとも」
それからエリオット様はわたくしに目をやって、面白そうに笑った。
「噂に名高き、フォクシーズ家の令嬢とも互いに友好な関係を築けているようで何よりだ」
エリオット様の言葉に、わたくしは曖昧に頷いた。しかも非礼なことに、わたくしはエリオット様から目を背けている。
わたくしの目は、隣に佇むアーカム様に注がれていて。
わたくしの頬は、言葉の衝撃に林檎のように赤く染まっていて。
わたくしの心臓は、高鳴る一方で。
そして、目を奪われて気付いた。
アーカム様の頬が、わずかに赤く染まっていることに。
――ああ、昔のわたくしであればもっと早く気付けたかもしれない。
でも、今のわたくしはとてもではありませんが、あなたの顔を冷静に見ることなどできないのです。
「では済まないが失礼する。今度、騎士団長も含めて食事もしたいところだ。情勢が落ち着いたら連絡しよう」
「恐縮です」
エリオット様が去って行く。残されたのはわたくしとアーカム様の二人。
互いに沈黙していて、少し気まずい。いや、気まずいというよりは照れくさい。
ここにいたいような、一刻も早く走り去りたいような、この人の傍にいたいような、少し離れたいような。
そんな複雑な心情に、わたくしは千々に乱れていた。
「……大丈夫か?」
「あ、いえ、はい。……大丈夫、ですわ」
「そうか。なら、昼の休憩も終わりのようだ。俺は訓練に戻るが、君は一度帰宅するか?」
「……いえ、旦那様をお待ちしています」
「退屈だと思うが……」
「いいえ。待ちたいのです。たまには待つだけというのも、幸福かもしれませんので」
「――」
アーカム様が少し驚いたようにわたくしを見つめている。
「どうかなさいました?」
「……いや、何でもない。では待っていてくれ。何かあれば、小姓に尋ねればいい。昼が足りずに小腹が空いたら食堂もある」
「ありがとうございます」
「では、また」
「はい、いってらっしゃいませ」
アーカム様の背中を見送り、わたくしは先ほど彼が驚いた表情でわたくしを見た理由を考える。
わたくしの顔に何かついていたのかしら、と頬に手を当ててようやく気付いた。
何ともはや。
わたくしの頬は、幸福そうに緩んでいた。家族以外に見せたこともない、素のままの微笑みで。
◆
夕暮れ。商人の息子ヨハンは友人たちと家へ帰ろうとしていた頃。
「はい、旦那様」
一人の女性がかいがいしく、紙袋に入れたパンを隣の男の口元へと差し出していた。あのパンはヨハンも知っている。通りにある中では、一番美味しい店のパンだ。
だが、問題はパンではない。
「あ……」
差し出されたパンを口でくわえて咀嚼する男。
「美味いな」「でしょう?」
二人の距離は他人と呼ぶにはあまりに近い。仲睦まじく、二人で茜色に染まった道を歩いている。恋人か、夫婦か。
そのいずれにしても、ヨハンに分かることは一つ。
「やっぱそういうモンだよなーーー!!」
「何だよヨハン!?」
商人の息子ヨハン、初恋が破れた瞬間であった。