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1話「愛することはない、という訳ではない」

全二話構成で好評を頂いた作品『君を愛することはない、という訳ではないと結婚した氷の騎士は宣言した』を増量させたものです。

お楽しみくだされば幸いです!





 冷たく凍るような月が、ぼんやりと夜空に浮かび上がっている。


 わたくし、エルテ・フォクシーズはベッドの端に座ったまま、

 ぎゅっと拳を握り締めた。

 不安、焦燥、混乱、そういう感情がごちゃ混ぜになって、まるで全身が冷えてしまったかのよう。

(噂は本当なのかしら……彼に、愛する人がいるというのは……)

 結婚初夜を前にして、わたくしは不安で胸が押し潰されそうだった。


 わたくしの結婚相手は、アーカム・ベオライト。

『氷騎士』の二つ名を持つ、容姿端麗な王国騎士です。

 容姿だけではなく強さも凄まじく、

 敵国の兵士が彼の姿を見ただけで怯えて逃げ帰ったという噂すらもあるとか。

 ともあれ先の戦争で功績をあげた彼は、

 王都の外れに小さな領地を褒美としていただいたそうです。


 そんな彼と侯爵令嬢であるわたくしは元から結びついた訳ではなく、政略的な事情による結婚です。

 わたくしはつい一ヶ月前まで、別の婚約者がいた身でした。

 王命による結婚であるため、わたくしたちは結婚式の前に一度会ったきりです。


 出会ったのは我が侯爵家の庭園、指定された時刻きっちりにアーカム様は侍女に案内され、四阿にいるわたくしに騎士の礼儀に則った挨拶をいたしました。

「アーカム・ベオライトです」

「エルテ・フォクシーズでございます。どうぞお座りくださいませ」

「は」

 最初の印象は「評判通り、美しいですわね」というもの。やや長めに伸ばされた髪は銀色に輝き、肌は白いのに不健康そうには見えず、目はこちらを射貫くような鋭さがございました。

 紅茶を淹れる若い侍女の手が僅かに震えたのも無理からぬことでしょう。


「本日はお招きありがとうございます」

「口調は崩していただいて構いませんよ」

「そうですか。……いえ、そうか」

「お茶、いかがですか?」

「いただこう」

 紅茶で落ち着いたのを見計らい、わたくしが切り出した。

「王命の結婚、ですわ」

「ああ」

「わたくしの事情はご存知かと思いますし、アーカム様の事情も存じ上げております。故に、結婚は前提なのですが――いかがでしょう」

 どうしても結婚できない、したくないというのであれば。やむを得ません。もちろん、断った側が咎めを受けることにはなりますが。


 アーカム様は、少し身を乗り出しました。

「あなたはこの結婚、問題ないだろうか?」

「はい、もちろんです」

 わたくしは即答した。浮かべるのは淑女の笑顔。この結婚は、どうしても成立させねばならない。たとえ、わたくしが好みであろうとなかろうと。

 アーカム様は胸に手を当てて、誓うように告げた。

「それならば問題ない。私は王命に従い、あなたと結婚しよう」

「では、婚姻届にサインをお願いします」

 差し出した婚姻届に、アーカム様は迷うことなくサインを記入した。それからアーカム様は立ち上がり、これから遠征なので結婚式の当日まで会うことはできない、とお告げになりました。

「申し訳ないが、これもまた王命なのだ」

「ええ、式の準備は全てお任せを。元より、そのつもりでしたから」

「承った。では、失礼する」

 そうして、結婚というあまりに重大な行事に関する話し合いは終わりました。所要時間、おおよそ五分。差し出した紅茶はまだ冷めてすらいませんでした。

 漠然と――これから先のことに、不安を覚えたのは事実ですわね。


 結婚式も、侯爵家にしてはあまりに慎ましい形で済ませました。

 わたくしは友人を招待することもなく、家族のみ。アーカム様は養父であったマウティー子爵と、彼の上司であるオットー騎士団長のお二人くらいのもの。


 婚礼衣装に身を包んだアーカム様は比類なき美しさがありました。

 彼と向かい合って司祭の前で結婚を誓い、儀式としての口づけを交わす。

 本来は幸福の絶頂とも呼べる瞬間なのだろうが、その時のわたくしが考えていたのは、未来への漠然とした不安だけでした。


 式が終わったのは数時間前。家族と別れを済ませたわたくしとアーカム様は、侯爵家(こちら)が用意した王都の別邸に移動いたしました。

 本来は王都の外れにある小さな村がアーカム様の領地ですが、そこに行くのは結婚生活が落ち着いてからのこと。

 しばらくはここで結婚生活を営むつもりです。

 ……アーカム様が望めば、の話ですが。


 まもなく約束の時刻。アーカム様の姿も足音もありません。

 情報収集したところによると、アーカム様には既に愛する人がいる……とのこと。だとするならば、この結婚は『白い結婚』になるのかもしれません。

 ……『白い結婚』、結婚は形だけのもの。寝所を別にして、夫婦として同衾(どうきん)することがない、ただの他人同士として暮らす。

 そして三年後に離別することを前提としての夫婦契約。

 貴族同士の婚姻には、ままあることです。


「それならそれで好都合ですわ」

 そう考える一方、わたくしは覚悟の上でやってきたのにと怒りを感じないでもありません。

「……いえ、まだそうと決まった訳では……ああ、でも……」

 考えれば考えるほどに陰鬱でたまらなくなり、

 平民たちの間で好まれる恋愛小説のような展開を連想してしまうのです。

 彼には愛する女性がいて、わたくしは無理矢理彼と添い遂げる邪魔者。


 夜が更けていきます。

 やはり、彼は来ないのでしょうか。

 別にそれで何がどうなるという訳ではありません。

 訳ではないのですが、やはり……傷つくものは傷つきます。

 それでも、わたくしはフォクシーズ侯爵家令嬢として、そんな表情を見せてはならないのです。


 ツカツカツカ。

 コンコンコン。


 ……え、いらっしゃった?

「ど、どうぞ?」

「失礼する」

 部屋の扉を開いたのは、わたくしの夫であるアーカム・ベオライト様。

「アーカム様……」

 彼はその、『氷騎士』という二つ名に相応しい、凍るような美貌で表情一つ変えないまま、こう宣言しました。


「君を愛することはない、」


 その言葉にわたくしは一瞬気が遠くなりました。

 予想していたとはいえ、あまりと言えばあまりに無体な言葉で――


「という訳ではないのだが何しろ急に決まった案件なのでお互いに混乱しているのも当然だと思うというか私も混乱しているままだなのでここは一つ白い結婚とはいかないまでも結婚即初夜とかではなく節度あるお付き合いをしてお互いに歩み寄ることが大事だと思うのだがどうだろうか」


 これはもう、白い結婚を維持しての制裁を考えるのもやむなしと……。

 ……ん? んん?

 わたくしはこてんと首を傾げました。


 ――愛することはない、という訳ではない。


 その後、一気呵成にまくし立てられた言葉は、よくよく考えてみるとそれほど不穏でもなかったような。

「あの……ええと、つまり今日は……」

「ああ。今日は……君が望むなら別々に寝ようと思う。問題なければ、共に寝ることを許されたい」

「わたくしを抱くことはない、のですね?」

「そういうことは、もう少し深く分かり合ってからの方がいいと思う」

「わたくしを嫌いではない?」

「嫌いではない。が、今は愛している訳ではないと思う。君もそうだろう?」

「それは……確かにそうですが……」

 王命による半強制的な結婚、結婚式を除いてお会いしたのは一度きり。愛するように努力はできますが、今愛せというのはさすがに不可能です。

「加えて……もう一つ、重要かつ懸念すべき事実がある」

「は、はあ。あの、それは一体……」


「俺は女性と睦み合った経験がない」


 騎士アーカム、わたくしの夫となった方は平然と凍るような美貌でそれを告げ、


「即ち――完全無欠の童貞だ」


 もう一度、念を押すように言ってぐいと胸を張った。

 その生々しい言葉に、わたくしは我知らず頬を染めました。


「そ、それは、その……お、お疲れ様です?」

「いや、特に疲れてはいない」

「ですよね!」


「お互いに知り合って間もないまま、しかも私は童貞。うかつにその状態で睦み合おうとすれば、それは最早泥沼で戦うが如きになるのではないだろうか」

 言われてみればみるほど、初夜に失敗する条件が揃っている……と、わたくしもなけなしの知識を動員しつつ同意せざるを得ませんでした。

「……分かりました。わたくしもその、け、経験などございませんので、そういう方向性であれば、その、問題はない、と思います」

 話の流れからして仕方ないが、わたくしもわざわざ経験がないことを言わざるを得ず、大変に恥ずかしい。


「そうか……。受け入れてくれて感謝する」

 アーカム様は笑うことなく、真面目に頷いた。胸に手を当ててホッと息をしているあたり、ちょっと不安だったのだろうか、もしかして。


「それでは、本日はいかがいたしましょう」

 わたくしの言葉に、アーカムはふむと考え込む。

「俺と君は知り合って間もない。で、あれば。で、あれば。まずは対話からではないだろうか」

「そうですね。その……互いに、好きなことも知らないままですし」

「では、そこからいこう。俺の好きなことは……仕事だな」

「さ、左様ですか」

 話がまったく弾まない予感を抱きつつ、わたくしは自分が好きなもの、たとえば平民たちの間で流行している演劇などについて、とにかく話し始めた。

 とはいえ、とはいえだ。

 アーカム様の『愛する人』が本当にいるのか、

 いるとしたら誰なのかは聞くことができませんでしたが――。


 ともあれ、これがわたくしとアーカム様の初夜。

 耳を澄ます無礼な使用人などいないのに、ひそひそと声を潜めて語り合う、

 穏やかな秘密の時間でございました。



 王国の軍に所属する騎士は騎士爵と呼ばれ、男爵よりも身分的には低い。

 従って、本来であれば侯爵令嬢であるエルテとの婚姻が成立するはずはない。

 では、なぜこの二人の婚姻が成立してしまったのか。

 それには幾つかの複合的な理由がある。


 まず、騎士アーカムが美貌を第三王女ファナリアに見初められたことが一つ。

 普段、アーカムが王宮に出入りすることはない。だが先だっての戦争で敵将を討ち取り、大将として出陣していたエリオット第二王子を敵兵から守るために奮戦するなどのとてつもない手柄を立てた彼は、褒賞として領地を拝領するために王宮へと参上したのだ。


 そしてそこで、第三王女ファナリアに見初められてしまった。

 彼を是が非でも自分の配偶者に! と執心するファナリアを国王と重臣たちは危惧した。

 王女と騎士爵の人間が婚姻することも問題ではあるが、そもそも王女ファナリアには既に隣国に婚約者がいるというのがさらに大問題だ。ありえない。

 いかに自分の娘といえども、否、自分の娘だからこそ婚約の身勝手な破棄など許されない。


 その一方、騎士アーカムの縁談も頭を悩ませた。

 同格の騎士爵、あるいは伯爵クラスでも王女ファナリアは絶対に納得しない。

 恐らく、権力を乱用して奪い取る算段を整えるだろう。


 そうかといって、これだけの手柄を立てた騎士アーカムを謀殺するなど、絶対に許されない。王国は手柄を立てた騎士ですら必要とあらば守ることはない、と他国の者に知られれば、謀殺して得られる多少の利益など吹き飛ぶ。


 そこで、王家の目に留まったのがエルテ・フォクシーズ侯爵令嬢である。

 彼女は幼い頃から隣地であるハルパー伯爵家との縁組みが決まっており、結婚も間近のはずだった。

 ところが幼馴染みであるハルパー伯爵家嫡男であるユーリは彼女との婚姻を露骨に嫌がっていた。


 かつて所属していた貴族たちが通う学園で、エルテが勉学、マナー含めてあらゆる面で好成績を修めた淑女であったのに対して、ユーリは教師たちが顔をしかめ、同級生たちが『釣り合わない』と噂するほどにはパッとしない存在だった。


 唯一、ユーリは容姿端麗であることだけが自慢であり、伯爵より下位の令嬢には大変もてはやされた。

 彼と同格か、それ以上の令嬢からは『見目が少し麗しいだけの、どこにでもいる役立たず』として厳しい目で見られていたが。


 婚約破棄の理由は、彼の下らない劣等感によるものだった。


 エルテはユーリに対して、少し出来の悪い身内のように感じていた。

 正直に言って、勉学も何もかも見るところがない。向上心があればまだしも、それすらもない。

 しかし、幼い頃から婚約者として培ってきた思い出とか、そういうものがエルテのユーリに対する愛情を支えていたのだ。

 もしかすると、その家族的な接し方や愛情こそが、ユーリの心を歪ませたのかもしれない。

 今となっては、誰にも分からないことである。


 学園を卒業して数ヶ月後、彼はある日突然、エルテに婚約破棄を迫った。



「ユーリ様、何と仰いました?」

 あまりのことに信じられず、わたくしは思わず聞き返しました。

「まったく。耳が悪いのか君は。いいから、婚約破棄をしろ。問答無用、君にはいい加減愛想が尽きた。ったく、面白みのない女はこれだから」

 混乱するわたくしを他所に、ユーリはさっさと婚約破棄書をテーブルに叩きつけ、ポケットからペンをこちらへ放り投げました。

「既に父も認めておられる。そら、サインしてくれ。レティが待っているんだ」

「ですが――」

「いいから、さっさとサインしろ!」


 ……後になって思えば、ユーリの強権的な態度は疚しいことをしている裏返しでしたし、彼の父であるメイグ・ハルパー伯爵がお認めになるはずもありません。

 でも、正直に申し上げてわたくしは彼との婚約にほとほと疲れていました。

 夜会では最初のエスコート()()をして、ダンスは他の令嬢と始め、わたくしは放置する彼に。

 領主に必要な勉強にも力を入れず、ひたすら遊び呆ける彼に。

 わたくしと茶会を行う度に、早く帰りたげな表情を浮かべる彼に。


 わたくしは無言でサインし、ユーリはその書類を奪い取って「では、さようなら」と告げてさっさと姿を眩ませてしまった。

「――はぁ」

 悲しいとか、そういう感情はこれっぽっちもございません。ただ、疲れたという想いだけがこみ上げました。しかもそれは、どこまでも徒労だったのです。

 逃したユーリなど惜しくも何ともない。ただ、費やした時間だけが惜しかった。



 ユーリはその足で、学園の頃から密かに付き合っていたという子爵令嬢との婚姻を結んだ。

 子爵令嬢は少々浮世離れしていた少女だったせいか、ユーリの「婚約は円満に破棄され、自分は自由の身となった。だから結婚しよう」という言葉に、全く何の疑問も持たなかったのだ。


 その後は、大惨事であった。


 まず寝耳に水だったフォクシーズ家は当然のように激怒。隣地であるハルパー家に厳重な抗議を行った。

 ハルパー家は即座に動いた。当主であるメイグ・ハルパーは嫡男であったユーリから継承権を剥奪、ユーリの弟であるキーノに譲った。もちろん、子爵令嬢との婚姻など無かったことになった。


 ユーリは泣き叫んだが、メイグが黙らせた。拳で。

 その上で、当主は責任を取って伯爵を辞任。キーノが成人するまでの四年間、王家の助力を乞いつつ何とか領土を維持することとなった。


 無論、フォクシーズ家とハルパー家の間の婚姻がご破算になったことで、賠償金は発生。

 当然ながら、フォクシーズ家に瑕疵はないのだが。

 エルテが婚約破棄書にサインをした――ということが若干の障害となった。



「基本的には連中に全面的な責任があり、私だってそう思っている」

 わたくしの父、ダーマ・フォクシーズは難しい表情を浮かべ、腕組みしながら告げました。

 悄然としたわたくしにはもちろん同情はしているが、

 それはそれとして侯爵としても、あるいは父親としても幾らか問い質したいことがある、というように。

 そしてわたくしには、それを察するだけの知恵がありました。

「……」

「だが、いくら混乱したとはいえ、婚約破棄を承諾してしまったのは少し不味かったな。普段のお前であれば、状況を一旦把握するために、どうにかしてサインをしない程度の知恵は回るだろうに」

「……はい」

「あるいは……それほど、ユーリが……好きだったのか?」

「……好きかどうかと問われれば、好きだったのかもしれませんが……。恋愛対象だったか、と問われるとどうも」

「だろうなあ」


 家族として、好きでした。

 このまま彼と、穏やかな家庭を築くのだと考えていたのですから。

 彼の素質の無さは、自分が補えばいいと思っていました。

 あの時、全てが裏切られて……少し、自棄になっていたかもしれません。

 今思うと、ですが。


 お父様は軽く嘆息して、難しい表情で話を切り出しました。

「……元々この縁談、王家が進めていたのは知っているな」

 わたくしはもちろん、と頷いた。

「ええ。ハルパー家の遠戚にあたる王妃からの要望であり、王妃の狙いは我らフォクシーズ家の宝石鉱山ですよね? ハルパー家との領境にあるあの鉱山を、どうにかして王家の直轄地にしたい、と」

「そうだ。宝石鉱山は莫大な収入を生むこともさることながら、もう一つ大事な点がある。令嬢たちとの間に生まれるコネクションだ」


 宝石鉱山で採掘された宝石は、当然ながら職人の手に渡り、加工され、名品として王都の宝石店に並ぶ。

 そしてそれを手に入れた令嬢は、これがフォクシーズ家の領地にある宝石鉱山産であることを知る。

 フォクシーズ家は「あなた方には大変お世話になっている。もしよろしければ、ご令嬢に今後も素敵な宝飾品を融通しましょうか?」と悪魔の囁きを行うのだ。

 このコネクションは、効果が絶大な上にどこまでいっても合法であった。

 これがたとえば禁薬、あるいは武器などであれば、王家も睨むし、何なら処分の理由となるだろうが……。

 貴金属で令嬢たちの歓心を買う程度は、まったく問題ないのだ。

 せいぜい、王家が多少面白くないくらいで。


「王妃もまた、このコネクションを狙っている」

「……宝石には、もう一つ大事なものがありますのにね」

「まったくだ。ただ、ともかく我々は王家の顔に泥を塗った、ということになる。婚約破棄を申し出たのはハルパー家であろうともな」

 政治とは結果が全てではございませんが、やはり結果がモノを言う世界であることに間違いありません。

 王家は二家の婚約を薦め、祝い、そして侮辱された。

 ハルパー家は王妃の遠戚であり、重い処分は免れるだろう。一方、我がフォクシーズ家は……。


「立場が少し苦しい。鉱山を手放すほどではないが、少なくとも何かしら王家に恩を売らねばならない」

「でしょうね。お父様、わたくしに可能な償いは?」

「償い、というな。……父としては、お前は悪くないとは思っているよ。正直に言って、ユーリにお前の夫は荷が重かっただろうしな」

 優しい眼差しに、わたくしも微笑みを返す。

 侯爵であると同時、彼は紛れもなく父親として自分を愛してくれている。

 もちろん知ってはいたが、改めて実感すると嬉しいものである。

「――騎士爵、アーカム・ベオライトを知っているか?」

 お父様はそう話を切り出した。



 かくして、わたくしは婚姻を承諾。

 アーカム・ベオライトと添い遂げることとなったのでありました、と。

(……こうして考えると、どこまでいっても政治の都合よね……。わたくしはともかく、アーカム様はお気の毒だわ)

 朝食の席、対面でパンを千切って食べているアーカム様に目をやった。

(愛する方がいらっしゃる、との噂が本当であるなら……その仲を引き裂いたのは、わたくしとファナリア王女ね)

 けれど、アーカム様はどこまでも平然としていたし、わたくしに悪感情を持っているようにも見えなかった。

 もしかすると、本心はひた隠しにしているのかもしれませんけど。

 結局、わたくしたちは初夜で睦み合うことはなかった。でも、穏やかな話し合いがありました。

 仕事とか、領地運営についてとか、これから先のスケジュールとか、おおよそ夫婦らしくはございませんでしたけど――。

「エルテ」

「あ、はい。何でしょうか?」

「俺は美味しいと思うが、エルテはどうだ?」

 その言葉に、侍女がそわそわとした様子でわたくしを見やった。

「美味しいわ、ありがとう」

「ええ、コックも喜びます。お嬢……失礼いたしました、奥様」

 少し前の呼び方で応じようとした侍女に軽く目線をやる。侍女は慌てて頭を下げた。

「お嬢様でいいと思うのだが? 君が彼女たちにとってお嬢様であることに変わりはないだろう」

 アーカム様の提案に、わたくしは首を横に振る。

「そういう訳には参りません。お嬢様、と呼びかけられては夫であるあなたを粗略に扱っている、ということにも繋がります」

 実はあるのだ、そういう問題が。特に女性の方が身分が高い場合や、婿入りして立場が弱い夫がいる際に、使用人が『お嬢様』とあえて呼ぶことで「お前はこの家の住人ではない」と暗に匂わせる嫌がらせが。

 わたくしとアーカム様の身分は、結婚するまではかけ離れていた。ひとまず、そうするのが無難だろう。

「なるほど。面子の問題か……」

「旦那様もお心当たりはあるでしょう?」

「うむ。同僚に『坊ちゃま』などと呼ばれては決闘も辞さないな」

 生真面目な顔でそんなことをアーカム様は呟き、使用人たちは噴き出すのを堪えて一斉に目を逸らした。

 まあ確かに『坊ちゃま』はありませんわよね……この美貌で……。



 フォクシーズ家とベオライト家は、資産も身分も何もかもがあまりに異なる。

「さすがに騎士爵の財産でお前を養うという訳にはいかんだろう。いずれ領地に向かうとしても」

 父の言葉にわたくしは同意する。侯爵令嬢としての誇りはあるが、平民のように自分が何もかも行って生きられるとは思えない。


 という訳で今住んでいるのは父親が買った別邸で、使用人もフォクシーズ家が選んで雇い入れたものだ。

「お父様。わたくしが親しかった者たちは止めてください。それが原因で、不和に繋がるかもしれません」

「そうだな。男というのはプライドが高い。妻の財産で暮らし、あまつさえ冷遇されているとなれば、暴発するかもしれない」

 ……とまあ、そういう風に気を遣っていたのだが。


 アーカム様は家に到着するなり、なるほどと頷いて良い家だと褒めた。

 壁に手を当て、こんこんと軽く叩く。

「うん。守りが堅く、壁の材質も良い。月影石だろう? やはりか。おお、使用人の彼らは剣術を嗜んでいるのでは? やっている? ますます良い。廊下が広く取られているから、私も剣を振るいやすいな。もちろん、それは大人数が押し寄せたときの欠点にも成り得るのだが……」

「旦那様、落ち着いて」

「……失礼」

 アーカム様は無表情のまま、使用人に「これからよろしく頼む」と告げた。

 強引な婚姻事情もあって多少なりとも身構えていた彼らは、毒気を抜かれたかのように粛々と従ってくれました。


 さて、結婚したとはいえアーカム様は騎士としての仕事があり、わたくしにもまた侯爵令嬢としての仕事が残っています。

 具体的にはハルパー家との婚約破棄、そしてエルテ・フォクシーズがアーカム・ベオライトと結婚したことを、わたくし直々の手紙でお知らせするという大変面倒な、どうでもいいお仕事でございます。


 ユーリ様にこの期に及んで手を焼かされるとは思いませんでしたわ、ふふふ。

 ですが、どうでもいい割りに重要なのが厄介です。


 フォクシーズ家とハルパー家の婚約破棄はハルパー家の有責であり、わたくしに恥じるべき点は欠片もない。

 侯爵家のため、その告知を行うこと。

 そしてわたくしが王家の仲立ちによりベオライト家に嫁いだ、つまり『もう王家との諍いはありませんよ、含むものはありませんよ』とお知らせすること。


 騎士爵に嫁いだことを恥と陰で笑う者たちはいるでしょうが、それはそれ。


 わたくし自身の恥はどうでもいいのでございます。聡い方ならば、すぐに一連の事情を把握いたすでしょうし、把握できない方ならば笑われたところで、どうということはありません。

 しかし……こう……ほぼ同じ文面を……でも微妙にニュアンスを変化させつつ……同一文面であることが露呈するとマナー違反なので……ひたすら書き続けるのは……疲れますわね……。

 朝から晩まで、昼休憩を取って延々とわたくしは手紙を書き続けました。


 そして夕暮れになって、わたくしは帰宅したアーカム様を出迎えます。

「おかえりなさいませ、旦那様」

「……?」

 アーカム様は、わたくしを見て首を傾げました。

「何かございました?」

「何かあったのか?」

 疑問に疑問で返されました。

「何も……ございませんでしたけど」

「そうか……」


 夕食を終えて就寝時、いつもであればわたくしたちは差し向かいでしばらく話し合うか、すぐに眠りに就くのですが、アーカム様はじっとわたくしの……正確には、わたくしの腕をご覧になって口を開きました。

「うん、やはり気になる。怪我をしているのでは?」

「ああ、いえ。これは違います。その、手紙を書きすぎて……」

「手紙?」


 わたくしが事情を説明すると、アーカム様は納得されました。

「手伝いたいところだが、俺が手伝えることはないのだろう?」

「ええ、手紙を書くのはわたくしでなければいけませんので。旦那様は気にせず、お仕事をこなしてくださいませ」

「いや待て。一つできるな」


 ずい、とアーカム様がわたくしと距離を縮めました。表情こそ変わりませんが、『氷騎士』と呼ばれるほどの涼やかな美貌がぐいとわたくしに迫ります。

 あまりの美形さに悲鳴を上げて逃げそうになるのをどうにか堪えて、尋ねます。


「……何をなさるおつもりでしょう?」

 こ、心の準備が必要な事柄でしょうか? そうであるならば、少し時間が欲しいのですけれど!

「君に触れる許可が欲しい」

「――――」

 こくり、と頷いたわたくしの肩に、アーカム様はそっと手を置いて――


「……やはり腕の酷使で腱が固くなっている。明日、筋肉痛になりたいか?」

「な、なりたくは、ないです」

 近い近い顔が近い! わたくしの旦那様は! 破滅的に! 顔が良い!

「では、失礼する」

 そう言って、アーカム様は柔らかな手つきでわたくしの腕を揉み始めた。

 これはただのマッサージ、アーカム様はお優しいのでわたくしの体を労ってくれているだけ!

 理解してはいるのですけど! 顔が! 近い!


「む。……筋肉がさらに固くなった」

 そうでしょうね! そうでしょうとも!

 緊張と照れで体が強張っておりますからね、今のわたくし!


 とは言え、真剣な表情で(アーカム様は基本、いつも真剣すぎるほど真剣なのですけど)、わたくしの肩を揉む彼を見ていると……何か……妙に安心するような……。

 瞼が重くなって、抵抗するのも何だか馬鹿馬鹿しくなって、わたくしは気付けば寝入っておりました。

「おやすみ」

 少し、優しいアーカム様の声が降り注いだ気がします。

 でもこれは勘違いでしょう。わたくしとの結婚は、あくまで政略ですし。お互いにまだ、愛してはいないのですから。

 ……たぶん。


本日の投下は前半部分の予定です。

残り半分は後半として、明日投下予定です。

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どうぞよろしくお願いします!

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