続く
とっくに夏は過ぎて、ビル風の不快さの増した、午後のことだった。
自転車の鈴のなる音の方を見ると、にっ、とこちらに顔を向ける少女──同い年だが──は俺の右に停車する。
「ねぇ、今日うちおいでよ。お菓子作ってみたんだけどさ、試食して欲しくて」
挨拶のように鈴を鳴らしている彼女は、三田あや という。
無邪気にはにかむ彼女を、自分はいつもうざがっている。小さい頃からの幼馴染ということもあってのことだろう。なんだかんだで、家族のようにも思っている。だからこその、一風変わった、妙な友情とその関係を有している。だが。
「…どうしたの? …冬休み全然会えなかったし…」
彼女は急に深刻な表情をして、少し下向く俺の顔を覗き込む。
ああ、やめてほしい。
これもまた、「日常の崩壊」。
また、壊してしまった。
よって俺は当然に、件の説明義務を負うこととなる。
「わかった行くよ。…話すから」
彼女はただ、頷いた。
────
努力なんてものを、俺は信用していない。なぜならそれは一意に、一定の値でさし示すことのできない不確定なものだからだ。
努力家と呼ばれるものは、その努力に意義を見出している。そういったモチベーションはそのまま、動力にもなりうる。
駄目人間とは、基本、努力を行わないとされるものに向けられる言葉だ。
あいつはできることをしない。
一般的な努力をなさない。
普通に生きることができない。
そういって、「駄目」という形容詞が冠る。
これを不当といって何が悪い。
きっと、「怠惰」を糾弾する者は、その贋の怠惰の裏の、「事情」なんて汲まない。
「彼女は今までこんなことなかったのに……きっと何かあったのね、相談に乗ってあげないと」
…とは言える。
「あいつはいつも自堕落な奴だ。だがきっとそれには訳があるのだろう。彼を救ってあげなくては!」
…言えるものか。そう。つまり努力は途中にでも最終的にでも、人目に、わかりやすく触れるものでなければ、「努力」などとは評価されない。なんの評価もない人々と対比して、「努力しろ」などとほざく。世間の目に良いように映れという。人に嫌な感情をさせるなという。世間と一体になれという。ああ、それは随分と楽だろう。それが人間社会の王道だ。なにを疑うことがあろうか。
努力にしろ才能にしろ、それは俺が決めることではないのだろう。皆さんの協議の結果、俺の今の価値を見出してもらえば結構。
…とは、ゆくものか。俺は自分の信じる自分の価値を見つけ、全うする。
…俺は、信じない
────
さて、あの幼馴染は随分と驚いていた。まさかとは思うだろう。…休み明け、平然と登校した俺の、
両親が逝去していたとは。
……よりにもよって、事故。仕事を突然やめて経営やらなんやら始めて大損かまして借金をこさえた父親と、仕事に仕事と俺を養ってくれた母親が
死んだ
……一通り話した後、あやは、「大丈夫だよね?」と尋ねてきた。……大丈夫だ。俺は…なにがあっても人生に絶望だけはしない。ただ、日常を取り戻したい。そう伝えた。明日はあやが俺の家──正真正銘俺しかいない──に来るという。
実を言えば父の借金は粗方返し終わっていたし、俺はPCさえあれば生活費や学費はなんとか稼ぐことができる。家も貸しアパートだが、なんとかなりそうではある。別でアルバイトもしているし。
なんというか。涙が出てくるのだが、悲しいのだが、これはきっと、二人の死に対してのものではない。それを知っているから、あまり、泣こうとは思えない。思い出に浸って泣いてるだけだ俺は。今まで親孝行などした試しのなかった俺がこんな状態では。駄目だ。ダメだ。だめだ。俺がすべきなのはなんだろう。感謝か?同情か。違うな。俺はなにをするべきなのだろうか。
…俺はもう、クラスメイト達とは「違う存在」になってしまった。俺は、お小遣いなんてもらえないし、どこかに、一緒に遊びに行くこともできない。……ある意味で、僕はもう「子」を名乗ることは許されなくなったのだ。
カップケーキは、まだ口の中に残ったままだった。