高く飛ぶ蝉
エブリスタ妄想コンテスト「チョコかとおもったら」落選作品。
私の足は三メートルの高さのバーをくぐると、クッションにたたきつけられ、体は転がり落ちて泥に這いつくばった。泥しぶきは顔を覆い、右の鼻から吸った泥が鼻腔で仕分けされる。固形物を喉に押し込んで、左の鼻から水だけ垂れた。
節分を終えて、暦的には春を迎えたグラウンドが、昨夜の雨で暖気を吸い取り、ノースリーブに短パンの練習着では身が引きちぎれそうだった。鼻泥水をその辺に捨てて右腕で拭う。すぐに腕毛が固まった。やや柔めな泥を平手打ちして空を見ると、春の季節を覆う寒空に、雲が点描されて漂っている。左足は寒さからか貧乏揺すりを始めた。
私の失敗なんて野球部は気にしていないように、練習の声も途切れずにいる。
家の松模様のこたつで熱い紅茶が飲みたい。
「危ない!」
野球部よりも甲高く鋭い声は、私の頭に棒が当たった後に聞こえた。踏んだり蹴ったりだ。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
フェンスで隔てた奥の方から声が聞こえる。見ると、ふわふわそうな髪の毛を風に揺らした男の子がこちらを見ていた。頭の上から高飛び用の棒を除いて、ふらふらと右手を振って、大丈夫であることを伝えた。
「やばいじゃん、ふらふらじゃん」
そう言うと、ふわふわそう毛の男の子はスコップをおいて、フェンスを上ろうと両手と左足をかけたので、私は慌てて近づいた。
「あれは、手で大丈夫って伝えたつもりだったの」
「本当?死んでたよ、あれは」
「生きてるよ」
男の子は死んでる、死んでたと繰り返した。
「ちょっとさ、頭貸してよ」
「頭?」
男の子はフェンスに頭をくっつけてくれたので、私はそのふわふわそう毛がふわふわ毛であることを確認した。撫でながら話を続ける。
「名前は?」
「俺、あらら」
「なんだって?」
「阿修羅に同じで阿羅々」
「あ、うん。そう・・・・・・。私は佳奈だから、佳奈お姉ちゃんって呼んで良いよ」
私が頭から手を離すと、彼はフェンスから少し離れた。頭から泥くずをはらう。
「えっとさあ、佳奈はさあ、あれ、何をしてたの?棒をつかってバランス悪く下をくぐる遊び?」
「・・・・・・リンボーダンスみたいに言わないでよ。高飛びよ、棒高跳び。あ、阿羅々は何してたの?」
「虫取りだよ、ほら」
阿羅々は虫かごを掲げると、中では柔らかそうな白い一対のグミのようなものが互いにぎごちなさそうに触りあっていた。私はフェンスから少し離れた。ごわごわな自分の髪を撫でつける。
「きもっ」
「きもくないよ。蝉の幼虫だから、かわいいんだよ。掘ってきたんだ。見せてあげるね」
「いい、いい」
そう言ったが彼はポケットから空色のハンカチを出した。そして、虫かごを少し開けて幼虫を掴み、私に見せつけた。
「いい、いい!」
「きもくないのに」
「きもいよ!おかしいんじゃない?」
「きもくないし、おかしくないよ。きもくておかしいのは、佳奈だよ。顔中泥だらけで、雑魚みたい。高飛び下手だし」
「なんだって!?」
急に近づき、フェンスをガシャンと揺らす。
「誰が!きもくて!下手よ!」
語気の強さに伴いフェンスを掴んで揺らすと、阿羅々は背中から倒れて、芝にまみれた。あひょあああ、と叫びながら虫取りセットを掴むと、一目散に逃げていった。
「誰が、きもくて、下手なのよ・・・・・・」
私はフェンスを平手で打った。女子高生という言葉の響きの柔らかさに反して盛り上がった筋肉から放たれた平手は、野球部員達を黙らせた。
その沈黙と刺さる視線に耐えきれなかった私は、そそくさとその場を片付けて、隅で水筒の冷めたアールグレイを飲み干した。
二月十四日、金曜日は理科室から授業が始まる。席は四席一班。量産型の茶色い女は量産型の黄色い男と向かい合って座っている。それが十六セットと私を足して一クラス。
実験が始まる。バーナーに火を点け、三脚台に鉄皿を乗せる。水で浸して沸騰石を入れる。更にガラス皿を乗せて、カカオ粉を入れると後は観察するだけだ。見るだけなのは暇だ。左足が貧乏揺すりを始める。
茶色い女は茶色い女同士で言い合う。
「今日はバレンタインデーね」
「本物の女はチョコを貰うのよ。貰わない女は嘘なのよ」
カカオ粉は変化が無いので、右腕のホルマリン漬けを見ていた。同じく変化が無いのなら、筋張った筋肉を見ていた方が目に良い。自分の左腕をもみ、視覚上でホルマリンづけの右腕ともみ比べた。
「佳奈はバレンタインデーに向けておしゃれしないのね」
「本物の女はおしゃれするのよ。しない女は嘘なのよ」
同じようなことしか言わないな。流行っているのか。その蝉の抜け殻みたいな髪の毛はどんな触り心地がするんだろうか。
カカオ粉がまろやかになると砂糖とスキミングミルクを混ぜ、すり鉢で練りこんだ。
「みんなは、チョコレートのやりとりするの?」
質問を投げかけてみると、茶色い女達は、がに股に開いた足の裏を打ち合わせてドラミングしながら笑って言った。
「板チョコを湯煎して再構成するのよ。再構成したものだけがバレンタインチョコなのよ」
「バレンタインチョコは、板チョコの味」
彼女達をまねしてドラミングしてみたが、鍛えた太ももを介した音は彼女達を黙らせた。静かに見つめられている中、私は席を立ち、冷やして固めたカカオ粉を化学の先生に引き渡して理科室を出た。
練習を終えた後、教室にゼッケン着を忘れたことに気がついた。
放課後の三メートルバーを跳ぶ練習がうまくいかず、擦り傷だらけの体を引きずり教室に向かう。いらだちから戸を勢いよく開けると、量産型の茶色い女と量産型の黄色い男がつがいになって、驚きの表情そのままにこちらを静かに見つめた。
視線を合わさないように自分のゼッケン着を手に取ると、表情へ出さないようにして教室を出て、静かに戸を閉めた。
「きもっ」
私はそう呟いたが好奇心もあり、押し殺した声がする戸を少し開けて、中の様子をのぞき見た。中では柔らかそうな白い一対のグミのようなものが互いにぎごちなさそうに触りあっていた。私は戸から少し離れた。目の前の教室だけでなく、隣の教室でも、その隣も、さらにその隣の隣からも押し殺した声がする。
そうか、今日はバレンタインデー。中ではチョコレートのやりとりが行われているんだ。今、私は、今年も縁が無かった慣習が世界中で行われている日であることを思い知らさ
れた。あちこちの押し殺した声がみんみんみんみん響き合う。私は押し黙って、視線を泳がせながら学校を駆け出た。
家へ。家はアパートの二階だ。階段を使えば安全に三メートルへ到達出来るのに、どうして私は棒なんかで飛んでいるんだろう。
疑問はそのままに、鍵を開けてリビングの松模様のこたつに入った。寒いので頭まですっぽり入り、内側の茶色の布地を見つめた。静かだった。そこで私は棒で空を飛ぶ意義をふわふわとした意識で考えていた。答えの出ない問題は私をいらつかせる。次第に左足は貧乏揺すりを始め、こたつはぎしぎしと音を立て始めた。
「いらいらしてるわね」
その声に頭を出すと、母が微笑んでいた。
「洒落っ気の無い髪ね。」
私のごわついた髪の毛を母は優しく撫でる。体をこたつから引き出すと、カップにアールグレイを入れてくれた。呼吸を整え、ゆっくりと暖かい紅茶を飲むと、左足の貧乏揺すりは治まった。
「・・・・・・ありがとう」
「いいのよ」
ふっと、肩の力が抜けたことで、右腕の筋肉に力が入っていたことに気がついた。明日の記録会に向けて、心が緊張を始めているのかもしれない。安らいだのはしばらくぶりだ。。もう一口飲むと数日前に出会った、阿羅々という男の子を脅かしてしまったことをすまなく思った。あのときも、いらいらしてしまっていた。
「本物の女は落ち着きがあるのよ。落ち着きのない女は嘘なのよ」
「えっ」
母を見ると、若作りで髪を茶色に染めていた。
「佳奈、今日はバレンタインデーよ。男の子からチョコの再構成は貰ったのかしら。」
家の中にいる、量産型の茶色い女はそういった。
「何よ、その髪。若作りのつもり?」
茶色い女は答えず、手には、母へ父よりと書かれた箱をふらふらと振っている。
「私、記録会前なの。私にチョコをくれる人なんていない」
茶色い女は言った。
「佳奈、本物の女はチョコを貰うのよ。貰わない女は嘘なのよ」
「うるさい!うるさい!どいつもこいつもどいつもこいつも!」
こたつを左足でどんどんと蹴ると、アールグレイはこぼれて松の模様の根元に吸い込まれた。手足をばたつかせて駄々をこね、立ち上がって壁を平手打ちすると、部屋中に轟音が響いた。母は青ざめたあと、冷めた様子で自室へ入った。
練習を失敗しても心配してくれない。課題を成功させても褒めてくれない。ただ漫然と人格が量産型に再構成されることが、つがいができるほどに偉いのか。
むせび泣いても、駄々をこねても部屋は静かだった。
静かな部屋に、チャイムが響いた。母が出る様子が無かったので、私が出ると髪の毛がふわふわである様子が目に入った。
「こんにちは。どうしたの、佳奈。顔中埃だらけで、雑魚みたい。」
「こんにちは。なにしにきたの?」
「おすそ分けだよ。ハッピーバレンタイン」
阿羅々は、雲が懐に忍ばせているような空色のハンカチで包んだ箱を私に掲げた。私はそれを受け取り、中を開けてみるとチョコ菓子の空き箱に土がたっぷり詰まっていた。
「どういうつもり?からかってるの?」
「違うよ。この中には、ちゃんと蝉の幼虫が入ってるんだ。栄養価は高いから、これはチョコだよ。俺、あの後もこっそり佳奈の練習見てたんだ。頑張ってたよな。明日、陸上の記録会とかがあるんだろ?俺、佳奈のこと励ましたくってさ」
阿羅々は続けた。
「蝉は長いこと土の中にいて、厳しい季節を耐えるんだ。夏になったらようやく飛んで、視界が空一色になったとき、地上のあらゆる慣習やしがらみから抜け出して、体には幸福だけが残るんだよ」
彼はにっこりと笑った。
「夏になったら、この中から這い出してくるだろうから、見ようよ、一緒に」
それだけ言った後夕焼けに照らされ、真っ赤な表情で帰って行く阿羅々を、私はふらふらと手を振って見送った。
十五日の本番は未だ寒いのに朝早くから、競技場に多くの人が詰めかけていた。観客は、それぞれがそれぞれに興奮した表情を浮かべたり、緊張して見つめてくれたりしながらそれぞれの関係者の出番を待っていた。
短距離走や砲丸投げのプログラムがつつがなく進行し、ついに私の名前が呼ばれる。私は握りしめていた空色のハンカチを、ゼッケン着の中のスポブラの左脇に結びつけて着飾り、胸を包ませた。
「三メートル」
そう係の人に告げると、バーはその高さにあげられた。私は棒を胸の前に高く掲げた。
胸の鼓動が高鳴り、左足が震える。いけない、緊張している。私がいつも飲んでいるアールグレイの味を舌の上に思い出すと、足の震えは止まった。次に、心の中で、こう唱える。
「佳奈、本物の女は空を飛ぶのよ。飛ばない女は嘘なのよ」
一歩を踏み出す。自然と勢いづいて、周りの空気が柔らかい風になって私を支える。棒を地面に突き立てると、私の筋張った右腕が体を支え、アパートの二階に届く高さに体を持ち上げた。
今、視界が空一色に染まる。体から、重くのしかかっていたものが解き放たれる。体に幸福だけが残る。
私の足は三メートルの高さのバーを乗り越えると、クッションにブレ無く着地した。すると、観客は黙り、すべての人が私を静かに見つめた。それから、大きな歓声を私に向けて送ってくれた。歓声を上げてくれている中には、私の母や同級生の顔も見える。彼ら彼女らはそれぞれがそれぞれに色んな表情を浮かべ、私を見てくれていた。
私はゼッケン着の上からハンカチを握りしめる。生きた心地がする。胸にしまった空色の旗は心の中で嬉しくひるがえり続けた。
悔しいです。