その1
最初に意識したのは、一体いつ頃だっただろうか。
「もうすぐバレンタインだね」
「え、ああ、うん」
夕焼けに染まる帰り道、私の隣でそうやって話を振ってきた甘菜にとって、きっと今年の2月14日はただの年一恒例行事でしかない。だけど私にとっては違う。来年の今頃は受験でそれどころじゃないし、小中高と一緒に通い続けた甘菜は大学生になればこの街を出る。つまり今年が最後のチャンスになるかもしれないのだ。
「楽しみにしてるよ、橙果のチョコ」
「……うん」
これまでに渡してきたのはあくまで友チョコで、初めこそそれで良かったものの、いつしか――甘菜への気持ちを自覚した時から――友チョコは「逃げ」であり、哀しくも本命になれなかった「亡骸」となっていた。そんな物とは知る由もなく素直に喜ぶ甘菜を前にして、実はと口を開く事も出来ずに作り笑いを浮かべて終わる……それがここ数年の記憶である。
何とかして想いを伝えたいという願望、だけど女同士で大丈夫かという不安、そもそも私の実際が拒絶されてしまうかもしれないという恐怖、それならいっそ「幼馴染」を続けた方が良いのではという臆病。行くにも退くにも勇気が足りない私にこの葛藤から抜け出す術はなく、そんな中で迫る期日はさながら密室に流れ込む水の様だった。踠くだけではいずれ後悔に溺れてしまう。
「どうしたの?さっきから元気ないけど」
「えっ?」
余りに深刻な顔をしていたのか、心配そうに甘菜が尋ねてきた。
「何か悩み事?……あ、もしかして恋愛的な?」
「なっ……いや、その……」
そして物凄い図星を突かれて口籠る。
「べ、別に、何でもないから……」
「あー、これは当たりだなー。で、誰?やっぱ一番人気の星酉?それとも葦原?あ、もしかして大穴で仁川とか?」
「……」
甘菜が次々に出す名前はどれも男子。答えがまさかの女子、それも自分だなんて夢にも思わないのだろう。
「ねー教えてよー。別に良いでしょー?」
このまま黙秘でやり過ごせないかと思っていたが、この手の話に目がない甘菜はそう簡単に諦めてはくれなかった。彼女は頰を膨らませて一旦立ち止まった後、
「……ていっ」
私の肩に手を回して勢い良く抱き着いたのである。
「わあああああああああああああああ!?」
当たってるよ!?胸とか脚とか当たってるよ!?
突然の事態に勿論平静を保てる訳がなく、心拍数が一気に160くらいまで跳ね上がる。恐らく顔なんかもとんでもない事になっているだろう。背後から抱き着かれたが為に見えていないか心配である。
「ほら、誰にも言わないからさ、ね?」
甘菜の温かな吐息が頰を撫でた。最早受け答えとかそれ所ではない。破裂寸前のゴム鞠みたいなこの心臓を一刻も早くどうにかしないと本当に死んでしまいそうだ。
「……ひ……ひみ、つ……」
「えー。私にくらい教えてくれれば良いのにー」
病床の老人みたいな声を絞り出すと、甘菜は渋々ながら私を解放した。助かった。
振り返って見ても甘菜は特に何でもない様な顔をしている。どうやらさっきのはごく普通のスキンシップらしかった。女同士だから遠慮がなくて困る。同時にその「ごく普通のスキンシップ」でここまで動揺する自分はとても馬鹿に思えた。
「まあ良いや。でもあれでしょ?本命チョコは作るんでしょ?」
「え、あ、うん……えっ?」
ようやく息が整ったのも束の間、甘菜の次なる攻撃に勢いで答えてはっとする。
「あ、やっぱり?まあこの時期だから当然そうだよね」
「あ、いや、その……」
言っちゃったよ。渡す人に向かって宣言しちゃったよ。一体どうすんのよこれ。
「橙果が告ってるとこ見たいなー。いつ渡すの?」
「いつって……あ、そうか」
冷却ファンが必要な程フル回転していた脳だったが、大事な事は思い出せた。今年の2月14日は公立高校の推薦入試日であり、私達の学校も漏れなく休みになるのだ。休みの日だって甘菜には会えるから気にしていなかったものの、ここで当日と答えては渡す人を女子含めて2、3人にまで絞られてしまう。
「まだ、決めてない、かな……」
「あ、そうなんだ」
これ以上質問に曝されてはいずれバレる。というか嘘の苦手な人間に隠し事など99%不可能だ。だからといって話題を変えようとしても、私が咄嗟に思い付いたのはまるで大差のないものだった。
「と、所で、甘菜はどうなの?」
「何が?」
「ほら、その……本命とか」
「……あー……」
突然黙り込む甘菜。これはまさか。
「……もしかして、作るの?」
「……まあ、うん」
心が軋む。最悪だ。自ら地雷を踏みに行くなんて。頭の中で自分を責めつつ、また慰めつつ、私は無関心を装う為に必死で表情を固めた。
「……そう、なんだ」
もうやめてしまいたい。けれど本命チョコを作るという言質が取られている以上、今更諦める事も許されない。この瞬間、私が期日と呼んでいたそれは処刑の日へと姿を変えていた。
沈みゆく太陽を前に立ち込める沈黙。今まで気にも留めなかった寒さが体の芯を刺す。
「……ねえ」
目を合わせたくなくて俯いていると、独り言の様な甘菜の声が聞こえた。声は私の返事を待たずに続く。
「チョコ、一緒に作らない?」
「……へ?」
余りに急な提案だった。
「何で?」
「だって橙果のチョコ凄く美味しいんだもん」
微妙に答えになっていない答えはもう私には聞こえていない。だってもしそんな事になったら、いよいよどうしようもなくなっちゃうじゃん!
「駄目、かな」
甘菜が私の顔を覗き込んだ。若干近いし頼むからそんな懇願する様に見ないで欲しい。嫌だと言えなくなってしまうから。
「い……いや、良いよ」
「やった!それじゃあ14日に私ん家ね」
どうしてこうなったんだと溜め息を吐く……ってちょっと待ってよ。
「当日!?」
「え、うん。家に誰もいないのがそこしかないし」
「なっ……」
何これ、フラグ?いや流石にそんな事はないか。でも2人きりになれて手元に作りたてのチョコもあると考えると、意外と悪い話にも感じなかった。あとは私が勇気を振り絞るだけなのだ。
「まあ兎に角そういう事で宜しく!バイバイ!」
「あ、うん。バイバイ」
丁度分かれ道に突き当たり、甘菜が手を振って走り去って行く。やがて角を曲がって見えなくなると、私は逆の方へと歩き始めた。
――楽しもう。結果は分かっているんだから。
黄昏時になった空を仰いで思う。ある種の開き直りはほんの少しだけ心を軽くし、私もまた、徒らに家へと駆け出した。
残りは14日に掲載予定。
※遅れる可能性があります。予めご了承ください。




