パンが食べたくて
やっぱりシナボンのシナモンロールなんじゃないかしら、とナッツに覆われたパン屋のシナモンロールを食べながら思う。
とはいいながら、ナッツの香ばしさが口いっぱいに広がると、これも悪くないかも、と思ったりする。
朝三暮四に朝令暮改。目先の美味しさに勝てず、やっぱりこれもいい、だなんていう始末。適当な人間のいうことは信用できない。
今日のお昼はチョコクロワッサンを食べた。バターたっぷりのクロワッサンに板チョコの塊をそのまま突っ込んだみたいな代物だ。甘いものを食べたいときは必ずこれを食べる。その欲求を一発で解消してくれるほど甘いからだ。
そして今はラムレーズンフランスだ。クリームとラムレーズンがはさまったフランスパンだが、噛み切ろうとするとミシミシ言うほど硬い。口に咥えたパンを力一杯引っ張ると噛み切れた代わりに反動で腕を机にぶつけた。でも、おいしい。いうなれば、お菓子のラムレーズンクリームサンド。しかも中のクリーム多めである。私たちが子供の頃に求めたものの全ては、コンソメポテトチップスのコンソメであり、ジャムパンのジャムであり、クリームサンドのクリームそのものである。ほぼ調味料である。味のしない外身などどうでも良いのである。
私が二食ないし三食パンを始めてから早一ヶ月。意図したわけでもなければ、特別パンが好きというわけでもない。そんな私がどうしてこんなことになってしまったのかと言えば、仕事を始めたせいだと思う。四月から仕事を始めて、三ヶ月ほど経つが、私の職場の食堂は美味しくない。不味いというほど酷くはないが、おいしいと思ったことは一度あったかどうかも怪しい。その食堂で四百円も五百円もするランチを食べるなら、ひとつ百二十円ほどの焼きたてパンの方が百倍価値がある。百倍とは言い過ぎかもしれないが、まぁとにかくパンはおいしいのだ。特にこのパン屋のシュガートーストは絶品で、焼きたてと同時に売り切れも珍しくないほどの人気である。特に女性から人気だ。
なんだ、みんなだってパンが食べたいんじゃないか、とこんなとき思うのである。
でも、美味しいからといってパンばかり食べるのにはリスクが伴う。
そう、これがそのリスクである。
「あかねちゃん、太ったね」
一年ぶりに会った中国人の友達が言った。
友達は、私のまん丸顔の頬っぺたの肉をつまみながら、「baby fat」と言った。ベイビーなどと英語で言えばちょっと洒落たニックネームみたいで可愛げもあるが、彼女が言いたいのはつまり、顔がでかいデブということである。
パンを食べはじめてから発生したリスクは、デブになるということだけではない。便秘やそれに伴う肌荒れ、腹痛、また糖質が高いせいか眠気も酷い。調べてみたところ、糖質が高いものを食べると血糖値を下げるために体から物質が出るらしく、急激に低血糖になり、眠くなるという。その上、パンは腹持ちも悪い。三食パンで、小休憩にはどら焼きである。パン祭りもびっくりの小麦粉摂取量で不健康この上ない。
パンの利点など、もはや美味しいということだけなのではないかと思われつつも、やはりパンの魅力から逃れることはそう容易くはない。あの焼きたてのパンのなんとも言えない温かく香ばしい香りには何人も抗うことはできないのだ。
かつては「二人って仲良いし似ているよね」とよく言われた友人の顔を見つめながら、
「だよね」
と、もはや面影もない顔に薄く笑みを浮かべることくらいしか私には出来なかった。
太るのでパンはやめようと思い始めてから一週間、私は以前にも増してパンを食べている。この私も最初の三日は頑張った。
一日目はパンを食べずに、今まで目もくれなかったおにぎりやサラダなどに手を伸ばすように心がけ、小休憩についつい食べていたどら焼きなどの小麦粉系を我慢して、ガムやおしゃぶり昆布をクッチャクッチャ噛み続けたりした。しかし、そうやってクッチャクッチャ噛み続けていながらも、頭の中はどら焼きやパンのことでいっぱいだった。
二日目も、パンの香りに惑わされぬようパン屋の前には行かないよう気をつけ、修行僧のように豆腐を舌で潰し、大根サラダをシャクシャク食べた。けれど、味のない豆腐を飲むように食べる間も、私はパンのことを思い出さずにはいられなかった。バターの香り漂う柔らかい層が積み重なったデニッシュ生地に、とろりとした卵のカスタードクリームと甘酸っぱくしゃきしゃきした煮りんご、それからシナモンの風味。ああ、食べたい。いけない、いけない。私は頭を振って雑念を追い払った。
三日目の私は最早限界に達していた。おにぎりやサラダ、おしゃぶり昆布などには目もくれず、宝石みたいな焼きたてのパンが陳列する棚に一目散に駆け寄って、ふわふわのクリームパンに手を伸ばした。おいしそう。しかし、パンを買おうとレジの方を向いたとき、ハッとした。私と同じくパンの誘惑に負けた者たちが満足気な、しかし背徳感に塗れた顔で列をなしているではないか。いかん、いかん。この列に並んでしまったら、もう釈明の余地はない。むしろ、パンを買うためだけに、見ただけで時間がかかると分かるこの行列に並ぶなど、どれだけパンを食べたかったかの証明にしかならない。私は、赤ん坊の握りこぶしのようなクリームパンを静かにトレーに戻し、逃げるようにパンの行列から立ち去った。
四日目のことだった。私は風邪をひき、ハスキーボイスで囁くことしか出来ないほど喉の調子が悪かったが、そんなことで仕事を休めないと身体に鞭打ち出勤を決意した。万一の事も考え、早めに家を出たので出勤前にちょっとした時間ができた。パン屋は空いていた。新作のチェリーパイとバナナマフィンが、newと書かれたオレンジ色のポップを手に、もの言いたげにこちらを見ている。
「同僚が体調不良だから代わりに今日は早めに出勤?自分だってそんなオカマみたいな声してるのに?ほぼ囁いてるのに?」
「そうなんだ。仕方ないんだ、私が休んだら売り場が回らないの」
「えらい!ご褒美にパンを食べようよ!」
「でも、私、今はパンをやめてて…」
「大丈夫だよ、今日だけ。こんなに頑張ってるんだもの」
「でも…」
「ちょっとくらいワガママ言っても許されるよ」
「そうか。そうだよね。私だって休みたかったけど休みたいだなんて言えないし、頑張るしかないんだ。ちょっとくらい許されるよね」
私はチェリーパイとバナナマフィンに手を伸ばした。
手元にパンがあるという誘惑に勝てず、私は休み時間にパンを貪り食った。
我慢していた分、いつもの何倍も美味しかった。美味しいということ以外、ほぼ無だった。
それからは、タガが外れたようにパンを食べた。
「って感じで、パン食べるの辞められないんだよね」
「はは、相変わらず面白いよね、あかねちゃん」
事の顛末を大学時代の友人に話すと、鼻で笑われた。
「ほんとほんと、真面目に」
「何が真面目によ。パン食べてるだけで幸せになれるんなら世話ないわ。みんなストレス溜めちゃって飲み明かして愚痴大会するくらいでなきゃ発散できないんだから。それでもだめで、身体壊しちゃう子だっているし」
「ほんとにそんなに大変なの」
「そうだよ」
友人は呆れたように私を見た。
なんだか顎の下に肉がついた気がする。下を向くと、肉に首を絞められてなんとなく息苦しい。ある種窒息のようなものである。でも、不思議と後悔の念は湧いてこない。
パンを食べているだけで幸せになれる。
女子会で愚痴を延々と言い合っている友人の姿が目に浮かんだ。
世話ないわな、ね。確かに
小さな声で呟いた。