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どういうこと?
ジョーって、男? 留学先で出会ったの? あなた男性も好きな人なの?
待って、確か『若草物語』にもジョーって出てきたから、それが男とは限らない。
――どっちみち、寝言で名前を呼んでしまうくらい大事な存在がいたってことは、変わりないけど。
まさかこんなタイミングで呼ばなくったっていいじゃない。
呆然としたり、怒ったり動揺したり。おかげで、目がすっかり覚めてしまった。
またジョーとやらの名前を呟かれたら堪らない。こっそりとなんとか亜紀さんの腕を抜け出して、クローゼットから選んだ服を着てキッチンへ向かった。
頭は混乱していても、慣れた手つきは変わらずに、いつもの朝の準備をした。ひと段落つくと、ダイニングに腰かけてコーヒーを飲みながら、もう一度『ジョー問題』について考える。
始めにいなかったからって、今のあの人に思う人、もしくは恋人がいないなんて、どうしてそんな風に決めつけてたんだろう。
私はそれをいいって言ったはずよ。だから、咎めるなんてお門違いだ。――だって、これは亜紀さんのためのビジネス婚なんだから。
でもそれなら、どうして迎えになんか来たの。私のことを抱いたの。愛おしそうに大事にしてもらってるって思うのは、全部嘘なの。
分かんない。泣きたい。
でもこのままなかったことになんかしてやらないんだから。
「おはよう。早起きだね」
そう言って、遅く起きてきた亜紀さんに簡単な朝ごはんを出すと、「ほんとだ、奈々ご飯作れる人だった」と優しい顔で笑われた。
「こんなの、作ったうちに入らないよ」
「じゃあ、次も期待してる」
いただきます、ときちんと言ってから手を付けてうまいうまいと喜ぶ亜紀さんには、ジョー問題は言い出せなかった。
だから、コーヒーを出しながら「ジョーって誰」とズバリ切り出したんだけど。
「ジョー?」
きょとんとしたあと、亜紀さんは「知らないなあ」って答えた。
「知らないなんて言わせないわよ、寝言で言ってたんだから」
「知らないものは知らないよ」
困ったように笑いながら、テーブルの向こうから手を伸ばして頬に触れてくる。
「そんなことより、――キスしていい?」
「っ、駄目っ!」
話はまだ終わってないんだから。いるならいるって認めたらどうなのよ。いい気はしないしむしろむかっ腹が立つけど、それでも私は、駄目なんて言えないんだし。
そんな文句は、テーブル越しにちゅんとキスされたことでぶっ飛んでしまった。
「――なんで?」
あなたにはジョーがいるんでしょ。
「奥さんがあまりにもかわいすぎるから」
そんな言葉で喜ばせないで。――胸が、痛くなる。
その日、亜紀さんは終始ご機嫌で、どこへ行くのも手を繋いだ(というか指を絡めて恋人繋ぎだった)。
「嬉しそうね」
「そりゃ嬉しいよ、待ちに待った奈々との生活だもの」
そんなこと言われたって、もう騙されないんだから。
「……外なんだから、いくらご機嫌でも鼻歌なんて歌わないでよ」
「うーん、自信ない」
「ちょっと、ほんとにやめてよ?!」
そんな会話をしながら、日曜の区役所で例の紙を提出した。庁舎は開いていなかったから、裏手にあった小さな窓口でひっそりと。
「これで、やっと正式に夫婦だ」と言う横顔は、私にはとても嬉しそうに見えるのに、どうしてこの人は私のものじゃないんだろう。
いろいろ考えたけど、このままビジネス婚を貫き通すことにした。
ジョーが来るならいつでも来い。私より亜紀さんを幸せにできる魔法が使えるって言うなら見せてもらおうじゃないの。
――亜紀さんが、ジョーの方がいいって言うなら、私は仕方ないわねって身を引いてやるわよ。でも、そうじゃないなら、私からは引かない。持久戦は、どっちが勝つかしらね。
いずれにせよ、じきにこの生活は破たんする。日陰の身に堪えきれなくなったジョーが私の前に現れるか、耐えられなくなった私が姿を消すか、どっちに転ぶかはまだ分かんない。
終わりが来るなら、それまでは私は妻として悔いのないようにすごそう。
亜紀さんとステラシオンのために、なにができるかを考えながら。
そんな風に、ずいぶん意気込んでいたんだけど。
亜紀さんはなかなか隠しごとが上手みたいだ。
やっぱり、ジョーの姿は相変わらず見せない。その上。
「奈々」
――人をいとおしむって、こんなのではないのかな。
暖かくて、優しくて、情熱的な目をして、私の名を呼んで。
キスをする。毎日。
一緒に寝る。毎晩。
それは全然義務的じゃなくって、だから私はまた少しだけ、騙されてしまう。
「ジョー……」
寝言で呼ばれるその名前を時折聞いてしまって、それでまた心はハッと気付かされる。
この人はいずれジョーに返さなくちゃいけないんだって。
それでも、私たちはビジネス婚にしては良好な関係を築けてると思う。基本的に趣味が似てるし、ウマが合うし。
「成り行きで結婚した割にいい感じじゃない?」ってふざけたふりで聞いてみたら、困った顔をされた。
「成り行きって……俺は、ちゃんと覚悟してるよ」
「覚悟ってどんな?」
「一生を君に捧げるってこと」
もう、こんなの恥ずかしいよと照れてよそを向いてしまう亜紀さんはとてもかわいい。それでもね。
一つ気付いてしまった。
あなた、私に『好きだ』も『愛してる』も言わないって。
なのになんと、彼は結婚指環も用意してくれてた。ちゃんと私好みの。でも。
「私はしないからねー」
結婚自体公表してないんだから、うかうかと外に着けていくわけにはいかない。そのかわり、家の中ではいつだってチェーンに通して、胸元に飾っていた。
公表していないから、お式もしなかった。
「まだ駄目?」
何故だか、はやく公にしたいらしい亜紀さんと。
「まだ駄目―」
ずっと隠しておきたい私。
表向きの理由は、前と同じで『旦那様のブランドだから売り込みまーす! って声高にアナウンスするのは興ざめ』だから。そんなわけで、撮影現場でもアトリエでも「ナナさん」「松宮さん」と呼び合うし、当然イチャイチャもしない。
――たまに、『もうだめ、ちょっとだけ』と乞われて、みんなに隠れてキスやハグをするけど。
ジョーがいなければ、と思ってしまったことは、一度じゃ二度じゃない。
きっと、向こうもそう思ってる。
でももう少しだけ、彼を私の旦那様でいさせて。
そう願ってしまうことは、どうしてもやめられなかった。
一年目はよかったけど、まだこれからどうなるか分からないから、だとか、まだ会社が若くて銀行が融資を渋るから、だとか、私が亜紀さんのそばにいるための言いわけは、時間と共にどんどんその手札の数を減らしていった。
ステラシオンはシーズンを二回りしても、売り上げが落ちないどころかむしろ伸びていってた。
銀行は融資を渋るどころか、あちらから『いかがですか?』ってご機嫌伺いにやって来るくらいだった。
だから、私も色んなものからそっと手を放していった。
アトリエに顔を出してあれこれ言うのは、デザインチームやそのほかのスタッフが亜紀さんと意志を共有できるようになってからはやめるようにした。それから。
「なんで最近露出を渋るの」
ステラシオンの広告で『西条ナナ』と分かるものは、最近めっきりと数を減らしている。そのかわり、私が纏ったもののアップや、服だけの写真が増えた。
こちらを探るような亜紀さんの目。私はにっこりと笑って見せる。
「もう私が前面に出なくてもこのブランドは走っていけるからね。変な色が付かない方がいい」
「変な色って……俺は、奈々をイメージして作ってるんだよ。みんなもそうだ」
「でも、『すべての女性に着て』もらいたいんでしょ?」
過去の発言を引き合いに出すと、亜紀さんは面白くなさそうな顔をした。
「君って意地悪だ」
「よく言われるソレ」
「でも、気持ちは本当だから。変わんないから。俺は、いつだって君に着て欲しくて作ってる」
「……あなたも相当強情ね」
「よく言われるよそれ」
負けず嫌いの二人はキスをして、英語で『愛を作る』という行為に耽る。
この頃、すっかり手狭になったアトリエを手放して、ステラシオンはもっと便のいい、広い場所に居を移した。自身の引っ越し同様、周りに促されてようやくデザイナーが腰を上げたという話。
「俺はあのままでよかった」とお祝いのパーティーでも、亜紀さんは面白くなさそうにしてた。そんな彼の近くに行って、笑顔のまま「蹴り飛ばしましょうか?」って脅す――周りからは、歓談しているように見えたと思う――と、ようやく亜紀さんは笑顔らしきを顔に貼り付けた。
「そうしてなさい、せっかくみなさんお祝いにいらしてるんだから。主賓のあなたがいつまでもブスッとしてたら駄目」
まだぎこちない口角を、むりやり指でぎゅーっと上げると、「分かったよ」ってようやくちゃんとした笑顔になる。
「ん、そうしてるのよ」
「分かりました女王様」
ふざけて返してくる亜紀さんが、ふと私を眩しそうに見た。
「なに?」
「いや、我ながら君によく似合うものを仕立てたなって、自画自賛してたとこ」
今日のために、彼は私にパーティードレスを用意してくれた。
光沢のある生地は、私の好きなグレーがかった紫。同じ形のものはきっと店頭に並ぶけど、この色は季節的にも流行的にも恐らく採用されないだろう。世界で一つ、私だけの。
「ありがとう。これ好きよ私」
「……うん」
亜紀さんのはにかむ笑顔。
そばにいて、ずっとそれを見ていたかったけど、他の人への御挨拶もあるしいつまでも二人でいるわけにもいかないので「じゃあね」って離れた。
「どうしたの?」
ある日大学から帰宅すると、ソファで分かりやすく落ち込んでいた彼を発見した。背中に手をそっと添えながら、私も隣に腰かける。
「……これ」
ばさりとカフェテーブルに置かれたのは、業界新聞。そこには、彼が元いたブランドが、多額の負債を抱えたまま倒産したことを一面で伝えていた。
「あの人のこと、あんなことがなければ尊敬していた」
「そうね」
「これ読んで、俺があのままあそこに残ってたら、もしかしたら、とか考えちゃって」
でもそうしたら君とこうしてないね、と困ったように笑う。その表情は、いつもより翳りを帯びていた。
「私にどうしてほしい? 蹴り飛ばす? 優しくする?」
顔を覗き込むと。
「……優しくして」
縋るように手を伸ばしてきた長身の亜紀さんを、抱き締めた。
亜紀さんの匂い。体温。今だけは全部私のもの。幸せ過ぎてくらくらする。
あなたは、弱ってる亜紀さんを慰めたり励ましたりできないのよ。私が元気にしてあげたから。
そんなざらりとした気持ちを心に住まわせたまま、亜紀さんの波打つ髪を何度も指で梳いた。