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7/10

 それから数ヶ月。大学にもすっかり慣れた頃の週末の夜、松宮さんは突然うちにやってきた。

「どうしたの? ここに来るなんて珍しい」

 アトリエに寄った帰りや食事のあとにうちまで送ってもらうことはあっても、わざわざ訪れることはなかったのに。

 私の言葉に、彼は困ったような笑顔で、「約束を果たしにきたよ」と穏やかに告げる。

「……約束」

「……まさか、覚えてない?」

「覚えてる! でも、」

 ――本当に『迎え』が来るとは思わなかった。高校を卒業した日になかったから、てっきりもう来ないんだと決めつけてた。

「ほんとは卒業式の日に迎えに行きたかったんだけどね、残念ながらあの時はまだ店をオープンして一年経ってなかったから」

 そうか、私からの条件は『お店を一年やってみて考えましょう』だった。

 知ってるだろうけど業績見て、と渡された書類。プリントされてたカラフルな棒グラフは、目標より上の位置まで毎月背を伸ばしていた。 

「……順調ね」

「だから、胸張って迎えに来た」

「あのねえ、義理とかだったら本当にいいのよ」

 だってこんなに売り上げがいいならパパからの力添えなんてもうそんなにいらないはずで、私が必要なら改めて迎えに来てって伝えてあって、それで来たってことは私が必要とされてるって、そう思いたくなる。

 なのにお情けとか義理だったら、舞い上がった分だけ落ち込んじゃう。


 私の言葉に、松宮さんはなんだか不服そう。

「迎えに来たの、嬉しくない?」

「嬉しいに決まってるじゃない!」

 本音を返せば、にこりと笑った。

「じゃあ決まり。このまま戴いていきますね」

「は?」

 二人しかいないと思ってた玄関ホールには、気付けばパパもママもいた。

「荷物は改めて取りに伺います」

「分かったわ。この子をよろしくね」

 誰もを魅了する笑みを浮かべて、ママが言う。

「はい」

「奈々、ちゃんと毎日歯を磨くんだよ。夜更かしは駄目だよ。お小遣いは毎月決まった金額を守るんだよ」

「あなた、それじゃあ小学生に言ってるみたい」

「そ、そうか……。松宮君、頼んだよ」

「任せてください」

「は? ちょっと待って!」

 なんで私抜きで話が進んでるの? てか、この状況って松宮さんをビジネス婚に追い立てた時と似てるかも。

 なんて頭に思い浮かべながら、松宮さんに連れられて家を出た。


 バスに乗って、電車に乗って、それからアトリエのある最寄駅で降りてそのまま歩いて。――何故か手は、家を出た時から繋ぎっぱなしで。

「どこ、行くの?」

「さあ、どこでしょう」

 ほら、やっぱり真似してる。

「いいから答えなさいよ! どこ!」

「俺んち、というか、俺たちの家」

「俺んちはこっちじゃないでしょ!」

 行ったことないけど松宮さんのおうちは確か、駅とアトリエの間って話だったのに、もうアトリエの前は通り過ぎたじゃないの。

「せっかちだなあ……はい、到着」

「ここ?」

 辿り着いたのは、まだ新しさの残るマンション。

「さすがに、築五〇年のぼろアパートに君を連れてけないし、いいかげんちゃんとしたところに住めって会社のみんなにも怒られてたんだよね」

「……そう言うことだったの」

 繋いだ手を引かれてマンションの扉をくぐった。エレベーターで押したボタンは『7』。

「たまたまなんだけどね、いい部屋があるって聞いて来てみたら部屋が七階じゃない? なんかちょうどいいやって、それでここにした」

「そんな理由で即決しないでよ……」

 困る。嬉しい。

「ヒマ見つけては色々調達して、なんとかカタチになったから、ようやく迎えに行けた。……どうぞ」

「お邪魔します……」

 玄関に置いてあった、モロッコ風の革のスリッパ二足。松宮さんはその片方のこげ茶に迷うことなく足を入れた。それなら、残されたもう一足のグレーがかった紫色が、私の。

 お客様用らしきは別に用意されていたから、これは私のために用意してくれたんだ。


 嬉しい。――困る。


 お部屋の中は、アトリエみたいな優しい雰囲気だったからホッとする。なのに、憎まれ口を叩いてしまう私。

「……きれいにしてるじゃない」

「きれいにしてないと女王様に」

「蹴り飛ばしはしないわよ」

「そうだっけ」

 そんな風に会話しつつ、寝室以外のお部屋をくまなくチェックした。さすがに寝室(そこ)を無邪気に踏み込めるほど、無知な子どもではないので。

 リビングに戻ってくると、時計の針は九時を回ってた。

「……ねえ、ご飯、私はもう食べたけど松宮さんは」

「緊張してそれどこじゃなかったよ」

「そうなの?」

「『ついて行かないわ』ってお断りされちゃうかもしれなかったからね」

 そんなこと、不安に思ってくれてたの。

「なにか作る? それともデリバリーでも頼む?」

「んー、もうビール飲むだけでいいや。てか君、作れるの?」

「作れるわよ!」

「うん、じゃあ明日、作ってもらえたら嬉しい」

「分かった。松宮さん、嫌いなものとかアレルギーとかある?」

「それ、もうおしまいにしようよ」

「なにを?」

 私が聞くと、シャツの胸ポケから薄い紙を取り出してダイニングテーブルの上に広げて見せた。――パパの秘書の甲田さんに預けてあったはずの婚姻届。

「明日、これ出しに二人で区役所行くよ」

「……そう」

「そしたら、君も松宮だよ。だから」

 とんとん、と指が示すのは、届けに書かれた下の名前。

「……亜紀(あき)さん」

「ん」

 初めて名前を呼んだだけなのに、声が震えた。

 初めて名前を呼んだだけなのに、亜紀さんは、すごく嬉しそうに笑った。


 私からも、お願いした。

「私のことも、ちゃんと呼んでほしいの」

 そう言っただけで亜紀さんは分かってくれた。

「カタカナじゃなく、漢字で、奈々と呼ぶんだね」

「そう」

 モデルとしては西条『ナナ』だけど、本当の私は漢字の『奈々』だから。

 赤毛のアンが、Anneと呼んでと言ったように。――なんて、ちょっとかわいすぎるから言わないけど。

「赤毛のアンが、Anneと呼んでと言ったように、だね」

「! ……そ、そうよ」

 何で、この人、分かるの、私のこと。

 嬉しい。

 私にって亜紀さんが用意してくれるもの、心配り、すべてが嬉しい。

 もしかして、困らなくてもいいのかな、私。


 ダイニングテーブルで向い合わせに座って、彼が飲んでた缶ビールも、私に出してくれたコーヒーも二人して飲みつくしてしまうと、再会した時のように天使が通った。

 かたん、と音を立てて彼が立ち上がって、空き缶を持ってキッチンへと進む。中を水で軽くすすぎながら、「……もう遅いしお風呂入れば」と緊張していると分かる声で勧めてくれた。

「うん」

 私の声も、きっと硬い。だって、――ねえ?

 夜だし。迎えに来てくれたし。このあとなにがあるかなんて、分からないほど無知じゃない。

「あ、でもお洋服もパジャマもなんにもないよ」

 今日の分の下着と大学のテキストとスキンケアグッズは、慌てて引っ掴んできたけど。

「用意した」と寝室に引っ込んで、戻ってきた彼に渡されたパジャマ。

「服もクローゼットにあるから、好きに着て。足りないものは明日買いに行こう」

「うん」

 ぎくしゃくと、音がしそうな動きで、脱衣所へと向かった。せっかくのお風呂も、リラックスどころじゃない。でも。

 パジャマ(もちろんステラシオンのもの)には、胸元に小さく花の刺繍が施してあった。取り扱ってる中にそんなのはなかったはずだから、多分これは、亜紀さんが。

「……もう、あなたってほんと……」

 その先は呟くこともできない。


「お先にいただきました」

 パジャマを身に着けて戻ると、ソファに座っていた亜紀さんが「やっぱり似合う、かわいい」と笑った。

「あの、ありがとう、刺繍(コレ)」と指差すと、「うん」と短い言葉を返しながら近づいてくる。――仕事以外で、今が一番近い。なんて思っている間にも亜紀さんは距離を詰めて来て、すぐ目の前に見える、彼のシャツ。

「あの、ね、」

 私の呼びかけを聞こえないふりなんかして。いつもならどつくところ。でも、そうじゃないって分かったから、ただ大人しくじっとその時を待つ。

 俯いた頭のてっぺんを馴染んだ手が撫でるから、ちょっとだけ怖くなくなった。

 その手が耳に触れた、と思ったら、つむじにキスを落とされた。


 両手で頬から後頭部を包まれて、ゆっくりと顔を上げて。

 初めて触れる、亜紀さんの唇と、私の唇。

 何度も啄まれて、どんどん、情熱的になって。

「亜紀さん」と呼びかけても、唇はまたすぐに塞がれてしまう。

 見上げると、服を作っている時みたいな目をした亜紀さんが、大きく波打つ髪をかきあげて自分を落ち着かせるように息を吐きながら、私から離れた。

「……俺もシャワー入ってくる」

 待ってて、とソファに座らされて、――またその時にもキスをされて――シャツとTシャツを脱ぎながら早足で歩く亜紀さんを見送る。はだかの背中は、想像通りひょろひょろだ、なんて思いながら、たくさんキスを受けた唇をそっと指の先でおさえた。


 あなた、私のこと、好きになってくれたの?

 まだ怖くて聞けない。でも、もしかしたら。

 そう思っても仕方のないキスだった。


 下だけスウェットを履いて、頭をごしごしタオルで擦りながら再びこちらに来る亜紀さんを見て、緊張した。そんな私を見ると、亜紀さんは手を止めてふっと意地悪く笑う。

「怖い?」

「怖くない!」

「前から思ってたけど奈々は負けず嫌いだよね」

「……よく言われるソレ」

「できる限り優しくする」

「だから怖くないってば!」

 差し出された手を叩くみたいに掴んで、先導して寝室に入る私の後ろから、いつまでもくつくつと笑う声が聞こえてきてた。


 初めてはそりゃあものすごく恥ずかしかったしものすごく痛かったけど、先に寝ちゃった亜紀さんの顔だとか、ぎゅうぎゅうされて密着してたのとか、幸せ過ぎてどうしよう、って思うほどだった。

 ビジネス婚で始まったけど、なんだか普通に夫婦だ。でなきゃ、こんな風に――終わってからも何度もキスされたり、眠りながらも手放されない、なんてない、と思う。


 明日、朝起きたら、私から『あなたを好きよ』って告白しよう。

 喜んでくれるかな。私の好きな、困った顔で笑ってくれるといいな。

 わくわくしながら眠りについたのが、多分私が一番幸せだった瞬間。


 朝方、起きてはいたけどまだはっきりと覚醒はしていない時。

 私を腕に閉じ込めたまま、あなたが呟いたのは。

「……俺の、ジョー……」

 まさかの別人の名前だった。


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