終了
夜、平原ではちょっとした騒ぎが起こった。
大原の国の軍、その一部で馬鹿騒ぎが起きたのだ。一キロ離れていようと聞こえる笑い声と、浴びるほど飲める酒が振舞われていた。
それを聞きつけた素面の兵士や、止めに入った騎士まで巻き込まれ、一種の祭りの様になっている。
テイはその中心で、景気の良い歌を歌い、踊りだしたくなる様な踊りを踊っていた。
最初はコントなどもやっていたが、ある程度酒が進むと乗りと気分でどうにでも出来るものに切り替える。その方が場を盛り上げられるからだ。
既に周囲はテイを置きさって、勝手に酒を飲んで騒いでいる。
それでもテイは、場に入っていけていない人間はいないか、止めようとする人間はいないか探し、そう言った人間を場の中に無理やり入れ込んでいった。
そうやって、ある程度大きくなると後は持ってきた酒を配る事に専念する。
酒には興奮剤と笑い薬や幾つかの薬が少量ずつ入っており、飲んだ人間の気分を無理やり上昇させる効果があった。その酒を浴びるほど飲ませていく。
テイが考えた策は上手くいっていた。しかし、その胸中は苦々しいものだ。
個人で出来る事などたかが知れていた。たった数時間、準備もまるで出来ていない状態で、やれる事など大したものではない。
テイに考えた方法はも嫌がらせ程度にしかならない。大騒ぎをさせて、出来れば体調不良者をそれが無理でも体力を少し削る。命と自身の人脈、全財産全てを賭けて、その程度の事しか期待は出来なかった。
深夜十二時を過ぎても騒ぎは収まらない。
兵は全員疲れきっていたが、テイの混ぜた薬の所為で寝る事が出来なくなっていた。
なまじ体力があるだけに、寝たくても眠れない状況が続く。
こうして、大原の軍のおよそ二分の一が十分な睡眠もとれずに、朝を迎えた。
翌朝、テイは黒いローブの男の前に無理やり跪かされていた。体を麻縄で拘束され、首筋と足に刃物が当てられている。
馬車が動いているのだろう、振動が直接押さえつけられた頭に伝わった。昨日の酒気に当てられたテイは、吐き気がするほど気持ちが悪い。
それでもテイは阿呆の笑いで、男に笑い掛けた。
男は薄ら笑いを浮かべ、テイを見下す。
|(予想外、まさか大物に会えるとは・・・・・・)
テイはナイフを持ってこなかった事を後悔した。
ここで目の前の男を殺せれば、それだけで時間が少しは稼げるはずだった。
男の周囲にはたくさんの武将が無表情に立ってがいたが、どれもナンバーツーではない様に見える。誰もナンバーツーが出す、雰囲気や空気を纏っていない様に感じられた。
ナンバーツーがいないのなら、目の前の男を殺せれば、時計の歯車の様に美しく緻密な用兵は不可能となるはずだ。無理に動かそうとしたら、ちぐはぐな動きで軍がバラバラに千切れてしまう。
「ほう、お前が騒ぎの原因か?」
黒いフードをかぶった男が、嬉しそうにテイの顔を覗き込んだ。
テイを抑えていた力が緩まる。その代わり、刃物が薄皮一枚切った。鋭い痛みが首筋と、足首から伝わる。
妙な事をするならば殺す、と言う意思表示だろう。男は無理やりテイの顔を持ち上げると、フードをと髪を少しずらす。
「久しぶりだな」
忘れられない顔が、忘れられた声で、再開の言葉を囁いた。テイは自分の顔が恐怖で凍りついていく事が、感じられた。
|(勇者では勝てない)
敗北感が体を支配する。
男の顔を見た瞬間、分かってしまった。
テイは自分のやった事がどれだけ無意味か悟る。
「そんな顔しないでくれよ。こっちは嬉しいんだ。お前に会えてさ」
こらえきれない、という風に男は喉を鳴らした。
「この道化、どうなるんでしょうかね?、ただ、皆さんに笑っていただきたかっただけなんですよ」
壊れたスピーカーの様にアクセントの付きすぎた声で、テイは尋ねる。
道化だ、と主張しなければ、きっと、押しつぶされてしまうから。
「道化か、ハハハハハハ、そうか、お前は道化か、ハハハハ」
男は笑い声をあげるが、顔はまるで笑っていない。
「だったら楽しませろ。その間は攻撃をしないでやる。お前が楽しませている間、俺は何もしない。その代わり一秒でも休んだら、俺が攻撃を始める」
男が嬉しそうに笑った。
瞳から漏れている狂気が、本気だ、とテイに語りかけてくる。
テイはその瞳を見つめ、阿呆の様に笑った。
その言葉が本当だろうと、嘘だろうと問題はない。
既に自分の目的は達したのだ。その上、更なる機会が与えられた、自分の命を差し出すには、十分な理由だった。
「何をやりましょう?、このテイ、古今東西、あらゆる芸を知っております。何なりとお申し付けください」
刃を巧みに避け、縄で身動きが取れない事を無視して、テイは大きな動作を取ろうとする。しかし上手くいかず、結局床に倒れた。
「そうだな。あまり単純なものは面白くない。かといって直ぐミスされても仕様がない。その両手じゃ、細かい作業は無理そうだし」
男は包帯が巻かれた左腕と右手を見て、口元を歪める。
「そうだな、踊れ。踊って歌え、演目は好きにしていいぞ」
テイに刃物を当てていた兵士達が刃を放し、縄を解いた。テイは、ゆっくりと立ち上がると、
「では、とくとご覧あれ」
ゆっくりと流れるように踊り始める。前置きも、音楽も、何もない、ゆれる馬車の中で決められたステップを踏んだ。
たんたんたん、たんたんたん
私は空へ舞い上がる
出だしを聞いた男の顔が不愉快そうに歪む。
あなたの勝利を願い舞い上がる
光りに身を代え、祈りに想いを込めて
空は七光
空の上から願いましょう
彼方の勝利と祝福を
テイが踊る踊りは、乙女の願い歌。勇者と聖女をモチーフとした乙女の願い歌。乙女は戦に借り出された男を案じる。
何時も、何時も、雨も、風も、病すらも乙女の祈りを妨げる事は出来なかった。
私の身は剣となる、彼方と戦う剣となる
彼方が願えば地を割きましょう
複雑な振り付けと激しい高低の在る音域を必要とされる難易度の高いものだった。それをテイは歌い続ける。美しい声ではない。だが、耳障りは良かった。
彼方が微笑めが空を乱しましょう
彼方が囁けば海を消しましょう
彼方がそばに居るならば、全てを切り裂きましょう
私の想いは光となって、彼方の全てを包みます
乙女は祈って、祈って、願って、想って、そして騙された。
意地悪な神様に騙されて、その身を神様に捧げてしまった。
それで彼が助かるなら、それで彼が勝つのなら、と純粋に願い騙された。
神様はそんな事をするつもりはなかった。
神様は乙女に恋して、男が羨ましくて、乙女を自分だけの乙女にしたくて、神様は意地悪な嘘をついた。
例えこの身を汚されようと
悠久の時を超えようと
また、出会いましょう
魂が磨り減り、体が変わり果てようと
必ず彼方の元へ駆けつけます
一回転、まるで羽衣を持ち、薄絹を着た乙女の様な恥じらいを残し回る。男が女の役を素人がやると笑えてしまうが、テイは素人ではなかった。この踊りも既に何十回も踊ったものだ。その姿に乙女が重なった。
|(シャナ姫か。羨ましい方だ)
テイはシャナと遊んだ数年が頭に過ぎる。
男や女なんて事は考えずにすんだ時、どちらも幼すぎた時のたわいもない遊戯。テイはそれを良く覚えていた。
記憶の中の幼いシャナは、どれも笑っている。
花を摘んだ時、花畑を走り回った時、一緒に泳いだ時、風邪をひいた時でさえ、嬉しそうに笑っていた。
光しか持たないように、善しかないように、嬉しそうに笑っている。
テイはゆっくりと手を流し、足はゆったりと少しずつ爪先立ちになった。今まであった肉感が少しづつ消えてゆく。
シャナと遊べなくなってからも何度か見かけた。
歳を重ねるたびに、美しくなっていく。美の神が嫉妬するほど美しくなっていった。
一度はその美しさに憧れた時もある。今は羨ましくも可哀想と言う感情しかない。
歳を取るごとにシャナは笑わなくなった。笑っても楽しくて、面白くて笑うだけで、嬉しそうには笑わない。
世界が狭ければ、シャナは嬉しそうに笑えただろう。
シャナの願いは、世界中が全て幸せである事だから。
テイはそれを知っているから、羨ましくも可哀想に思う。
全てを与えられ、全てに恵まれているから、余計なものまで見えてしまう。世界は広い、と分かってしまうのだ。
もしそんな事を知らなければ、もしシャナが違っていれば、こんな事にはならなかっただろう。
つま先が地面に触れると、膝、太もも、足首、つま先、腰、腕、わき腹、首、全ての筋肉に溜めた力を使い一段と高く跳んだ。テイの体がまるで重力がなくなったかの様に、飛び上がる。
白い城の片隅、殆ど人も来ないような場所にエウシウスとフレイが二人きりで立っていた。
密会をしている様な甘く背徳的な雰囲気はない。どちらも視線を外そうとはせずに、睨みあっていた。
「それじゃ、小さな、何も技量のない子を停戦の使者にしたのは、フレイお前なんだな」
エウシウスは、抑えきれぬ怒りを滲み出させながら、問う。
「ええ」
それがどうした、と言いた気に、フレイはあっさり認めた。
「何考えてる。あんな小さな子じゃ、殺されるって分からなかったのか」
「予想は出来てたけど」
フレイは呆れた様にエウシウスを見る。そこには罪悪感の一片も存在しなかった。
エウシウスは、フレイを壁に押し付ける。その動作に躊躇いはなかった。壁に叩きつけられる音が、辺りに響く。
「じゃあ、何であんな小さな子を選んだ。他に手があっただろう」
エウシウスはフレイの両肩がきしむほど力強く押し付けた。フレイの顔が苦痛に歪む。
「これで周囲の国も含めて世論はこっちに傾く。幼子をあんな殺し方をするんだからね」
「本気か?」
エウシウスは、分かりきった事を尋ねた。
「ええ、どうせ停戦の使者なんて殺されるために居るようなものじゃない。だったら、死んでからも役に立つ方がいい。無駄死によりマシなんだから」
フレイは氷の彫像の様に冷たい顔で、淡々と答える。エウシウスの予想通りの対応だった。
「そうか」
予想通りの応えにエウシウスは、ほっとため息を吐く。今までの激情が嘘だった様に、穏やかな顔でフレイを見た。
フレイを押し付けていた力がなくなる。
「理解してくれたみたいで嬉しいわ。それじゃ、やる事あるから、失礼」
フレイは氷の顔を崩さずに、その場から離れ始めた。まるで何事もなかった様に、何時も通りの後姿が見える。
「フェイカーが今頃武器の手入れをしてるはずだから、一言声かけてやってくれ」
「分かった。時間があったらやっておく」
エウシウスの言葉にフレイは片手を挙げて応え、歩く速度を上げた。直ぐに後姿は見えなくなり、靴音も遠くへと消えてゆく。
「泣きそうな顔なんて、反則だ」
エウシウスはすねた口調で呟いた。
子供を公に虐殺する事は普通ならば考えられない。
人として子供を痛めつける。それ自体が、許された行為ではない。
ほとんどの人間が嫌悪感を感じるだろう。
その子供を虐殺したとなれば、どんな理由があろうとも人として許せない、と言う感情が胸にたまるものだ。子供を虐殺した事が露見するならば、国内からも不安と不満の声が上がる事は予想できる。
そんな爆弾を戦争中に持ち込む必要なかった。
だから、殺されない。最悪でも生き残る。
そう考えて、相手の指揮官がそんな事も分からない馬鹿でない事を祈って、フレイは少女を使者にしたのだろう。
それぐらいはエウシウスにも予想がついた。
フレイは、二人殺して確実に三人助けるより、不確実でも五人助ける方法を選ぶ、そう言う人間だから。言い訳が出来ないほど優しくて、嫌になるほど甘い性格。
エウシウスの知っているフレイは、そう言う女だった。
午後、普段なら子供がおやつを食べるか昼寝でもしている頃、夜の国城下町の前に五千と七十九人からなる軍隊が、陣形を作り始めた。その動きは何処かちぐはくで、生気も感じられない。
昨晩の宴による疲れもあったが、最大の理由は指揮官がまるで何もしていない事だ。
指揮官である黒いローブを着た男は、目の前で踊り続ける道化を満足そうに眺める。
既に八時間、それだけの間、テイは休みを要れず踊っていた。
最初に踊った「乙女想い」は少し前に終わり、新しい演目に入っている。ゆっくりと質量を相手に魅せる踊りで、テイは「剣勇」を演じていた。
勇者が魔物の手から村を守った時の事を題材とした踊りだ。
「乙女想い」もそうであったが、これも長い演目だ。
どちらも優に六時間を超える大作だった。
本来どちらも、三人ないし四人ほどの踊り手が、仮面を着けて代わる代わる踊るものだ。
一人でやろうとするなら、何処かでミスが起きる。集中力が持たない。
ただでさえ複雑かつ似たような振りが多い踊りで、六時間延々とまったく同じ振りをしない、名作だ。ミスをしない方が可笑しい。
それでもテイは、その演目を選んだ。長い分、一分間当たりに使う体力は、短い踊りより少なくてすむ。最低でも四日間は踊り続けなければいけない、と覚悟したテイの苦肉の策だ。
そこまで分かっていながら男はニヤニヤ、と踊り続けるテイを嘲る。
無駄だ、と分かっているからだ。
馬車の外からは巨大な爆発音と共に、悲鳴と怒号、恐怖と狂気が聞こえてくる。
戦争が始まった合図だった。
白い城は、基本的に外敵から身を守る様には出来てない。
国境沿いにある砦や防壁が鎧となり、城まで近づけない事を前提に町も城も作られている所為だった。
町並みはそれなりに工夫はされているが、主な防御の対策は外壁である事は変わらない。
特に篭城するとなれば、外壁が頼みの綱ともいえた。
その外壁が一部ただの石の山に変わっている。
つい数分前までは、立派な石の外壁があったが、爆発と共に消え去ってしまった。
幸いな事に、人的被害は爆発の規模に比べると少い。
爆発が収まると、それを合図にしたように、大原の国が攻め込んできた。夜の国は混乱を残しながらもそれを死守する。
特に破られた外壁の周辺は、苛烈だった。
剣と剣がぶつかり、魔法が外壁を揺らし、命と命を削りあう。死ぬためだけに存在する舞台、その裏方でエイリンは疲れきった様子で座り込んでいた。
「あぁぁ、たいようがきいろいな」
荷台の近くに座り、ぼぅ、と空を眺める。
エイリンが出来る事は殆どなくなり、こうしている事が仕事となっていた。
昨晩のうちに手配の九割が終わっている。残りの細やかな変更点は、今日の朝に終わっていた。
色々問題はあったが、それなりに可もなく不可もなく経過している事に、エイリンは満足している。満足か?、と疑問を覚えかけたが、無理やり満足させる様にした。
満足だ、満足だ、と呟き、頭を振るエイリンに、騎士が一人近づいてきた。歳の頃は十六ぐらいだろうか、緊張と興奮で顔を青く頬を赤く染めている。
「第十九回警備、終了しました」
騎士は緊張した様子で敬礼をした。腕が痙攣し、可哀想なぐらい力が入っている。
「ご苦労、それじゃ、休憩室で第一班兵士を休ませ、第二班兵士を第二十回警備に向かわせろ」
騎士の様子とは対照的に、エイリンはのんびりと支持を出した。
「了解しました」
騎士は腹の底から声を出し、再度敬礼をする。そして、錆びたロボットの様にギクシャクした歩きで去って行った。
「もう少し肩の力抜いた方がいいぞ」
エイリンは騎士の方を見ようともせず、形だけの忠告をする。視線は空に向いたままだ。
「くももきいろい」
|(アレを使うか。本当に正しいのか?)
口調や表情とはまるで違う事を自問する。
暫く考えてみるが、エイリンの思考原理では、幾ら考えても正しいと言う答えが出てこなかった。
|(大体相手が篭城すると言うなら、例の遠くに発動できる魔法を使えばいいんじゃないか?)
エイリンならば、その魔法で城下町や城内を火の海に変え、出てきた所を迎え討つ。
それが出来れば、人の利を使え、短期決戦が可能となる。
その後は、返す刀で終結しようとする兵力を各個撃破していった方が、安全な気がした。
考えれば考えるほど、今回の作戦目標が違う気がしてくる。勝利ではなくて、ある状況を作りたいだけの様に感じられた。
|(本当に、あの黒すけに従って、守れるんだろうか・・・・・・)
かすかな疑問を胸にしまい、エイリンは空を眺める。
「あぁ、そらがむらさきだ」
青い空を眺めながら、そんな事を呟いた。
日が暮れる始めると、戦場は勢いを失っていく。そして、太陽が空から姿を消す頃には、どちらも一時休戦となった。
勝負はまた明日の朝、日が昇ってからに託されたのだ。
エウシウスは疲れきった体で城に入ると、そのまま仮眠室に入る。
ベットだけで三分の二も占領される狭い部屋だが、個室に入れるだけマシだった。一般兵など、雑魚寝が当たり前なのだ。これ以上の事を願えば、罰が当たる。
「予想通りか。やっぱり外壁は在ってない様な物だったなぁ」
これから先の事を考え、エウシウスはベットの上で小さくため息を吐いた。外壁が無力化される。
この事態は既にフレイによって予想されていた。その為の準備もしてきてはいたが、出来れば壊れて欲しくはなかった。
破壊のされ方も問題だ。内側から壊されているのだ。何があったか分からないが、この広い城下町、隠れるところは幾らでもある。間者が一人、二人と紛れ込んでいても可笑しくはない。
「前も、下手したら後ろも・・・・・・敵だらけか」
エウシウスは、自分の言葉にテンションを落とす。
「・・・・・・・・・寝よ。考えるだけ無駄だ」
嫌な想像を振り払らい、エウシウスは瞼を閉じた。
しかし興奮しているのか、なかなか寝付けない。
寝返りを右へ、左へ、と繰り返した。
不意にドアのノブが動く音がした。エウシウスは脇においてある剣を鞘から抜き、ドアを開けた人影に突きつける。
白い高そうな絹の服に、鋼の色が良く映えていた。
「中に入れてくれません?」
よく聞き覚えのある声が、耳に入る。そこでようやくエウシウスは、相手の顔を見た。
剣を突きつけられているとは思えないほど、穏やかな笑みを浮かべたシャナが、エウシウスの目に見える。
「あ、ご、ごめん」
エウシウスは慌てて剣を下げると、シャナを中に引き入れた。物珍しそうに辺りを見ながら、シャナはベットに座る。
「結構狭いんですね」
「これでも優遇してる方だよ。いい所は綺麗だからね。健康な人間を入れたら勿体無い」
エウシウスはシャナの隣に座った。何時もならこんな事はしなかったが、疲れきった体は立ち続ける事を拒否する。
「これで、です、か」
シャナは部屋を見回すと
「やっぱりいけないなぁ」
明るい口調で言った。
「シャナ?」
「やっぱり、ずっと守られてると感覚が鈍くなっちゃう」
エウシウスが呼びかけるが、シャナは無視して喋り続ける。
「世間知らず、て問題よね」
エウシウスは無言で、シャナを抱きしめた。胸がシャナの涙で濡れてゆく。
「もっとしっかりしないと駄目だね。ほんと、駄目だよ」
「シャナの所為じゃない。悪くない」
明るい口調で無理やり笑おうとするシャナに、エウシウスは囁いた。
「でも、でも、あの子に行かせる事決めたの」
あの子、惨殺された幼子の事だろう。
「最後は私です。私がしっかりしていれば、こんな事にはならなかった」
シャナは無理やり微笑もうとしながら、エウシウスを見上げる。声を上げて泣こうとしないシャナに、エウシウスの胸が痛んだ。
「泣いて良いから。俺の前でぐらい泣いて良いから。無理しないでくれ」
「駄目、ですよ」
シャナは涙を流したまま首を左右に振る。
「笑ってないと、皆が守ってくれてるのに、微笑んで、笑わないと、それぐらいしなくちゃ、駄目ですよ」
「そっか・・・・・・でも、こうしたら何にも見えない」
エウシウスはシャナの顔を自分の胸に押し付けた。
「だから、気にしなくていい」
エウシウスがそう呟くと、シャナは堰を切ったように泣き出す。
「あの子、滅茶苦茶にされて、体で遊ばれて、なのに、なのに、何にもしてあげられない。
何にもしてあげられないんです。
ごめんね、て誤る事も、次は幸せになってね、て笑ってあげる事も出来なかった」
シャナは自分を痛めつけるように叫んだ。叫びは、鋭いナイフの様にシャナを切り刻んでいる。
エウシウスは叫びを聞く事しか出来ない自分が、無性に許せなかった。
朝日が昇った。朝日が昇ると同時に、大原の国が外壁に攻め込む。その怒声を聞いて、テイは一日目が終了した事が分かった。
「ヒューーーヒョーーー」
一昼夜歌い続けた喉は枯れ、話すどころか息をするだけでも激痛が襲う。
それでも歌おうとするテイの口からは、空気が出る音だけが響いていた。
踊り続けた筋肉は軋み、幾つかは断ち切られている。
一振り一振り、筋肉が痙攣し、断裂し、神経を刺激していた。
肌には白い塩が張り付き、それを流すはずの汗は数時間前に止まっている。
踊りすぎた所為で、内臓が燃やされている様に気持ちが悪く、骨が少しづつ砕けていった。
|(まだだ、まだ、やれる)
テイは血と汗で色が変わった床を、最初と変わらぬ動きで踊る。皮のはげた足の裏から、新しい鮮血が生まれた。
鉄の意志で指先、足の先、内臓、骨にまで神経を通し、全てを躍らせる。
不思議と、最初の頃より踊りから無駄が消えた様に感じられた。
|(わらってもらうんだ。わらってもらうんだ。わらってもらうんだ)
テイは、目の前に居る客が笑う事だけを考えて踊る。
客は始めてから今まで一度も笑っていない。
嘲笑い、苦笑する事はあっても、テイの欲しい笑いを一度も見せていないのだ。
|(あの時はもっと怖かった。あの時はもっと痛かった。あの時はもっと辛かった)
テイは自分の欲望に気付いた時を思い出し、自分を奮い起こす。
昔話だ。
占い師は少年だったテイに死と、恨みと、残心と、憎悪と、逃避と、闘争と、裏切りと、傲慢と、異常と、腐臭と、胃液と、内臓と、汚物と、蛆と、蝿と、鉄と、骨と、祈りを混ぜて、絶望で彩った臭いを突きつけた。
「違う!、そんなの違う!」
テイは、認めたくなくて、認められなくて、そして、自分なら変えられると確信を持って、違う、と言い切る。
「何が違う?」
占い師はテイの体に、世界にある全ての汚物を混ぜた水をかけた。テイの体は汚れ、汚い現実が、幼い理想を侵食し始る。
「僕が、僕が、僕がここに居れば、絶対にこんな風にはさせない」
占い師は、楽しそうにテイを見て、宣言した。
「それは無理だ。なぜなら、お前は」
そこで占い師は言葉を紡ぐ。
「僕が何なんだ」
テイは残りかすの様な勇気をかき集めて、占い師を睨み付けた。
「そうだな。だったら助けてみろ」
今までモザイクがかかったように抽象的だった世界が、具体的な世界に変わる。
虐殺だ。
人がより力のない人をなぶり殺しにしていた。
「今死んでる人たちを助けてみろ。出来たら認めてやる」
「え」
思わぬ言葉にテイは呆然と占い師を見る。
占い師は出来の悪い生徒に言い聞かせる様に、もう一度言った
「助けてみろ。お前が助ければ、一人は助かるんだ」
その言葉にはじかれる様にテイは走り出す。
まず手始めに、近くで女を串刺しにしようとした兵士に体当たりをし様とした。
しかし、兵士をすり抜けてしまう。女は兵士に串刺しにされた。
次は母親が自分の子供の首を締め付けている。
テイはその手を剥がそうとするが、触れられなかった。触れようとする手は、母親の腕をすり抜ける。
泣きそうな顔でテイは必死に腕を掴もうとするが、何度やってもすり抜けた。
そして子供の首の骨が折れる音が、テイの耳にはいる。
その後も、テイは全ての人殺しの方法を見せ付けられた。
その度に助けようとするが、一度も助けられない。
ただ、泣きながらそれを見る事しか、テイには出来なかった。
「やめて、もうやめてよ」
泣きながら許しをこうテイに、占い師は無慈悲な笑いで応える。
沢山の子供に妊婦が殴り殺され、景色が変わった。
燃え盛る炎の中、女の子が必死に逃げている。
その後ろを、ナイフを持った少年が追いかけていた。
炎の所為でどちらも影しか見えない。
目を凝らせば見えるかもしれないが、テイは呆然とその光景を眺めていただけだ。
止めようと言う気持ちはなかった。何が起こるかわかっていながら、何も出来ない無力感に囚われ、恐怖に支配される。
少女が何かに躓いた。
何に躓いたかは、どうでもいい。
その時、初めてテイは少女の姿を見た。少女は、テイにとって大切な人が着ている服を着て、大切な人と同じ髪型で、大切な人と同じ肌の色で、大切な人同じ目の色をしている。
大切な人と違っていたのは表情、大切な人は何時も嬉しそうに笑っていた。
しかし、目の前の少女は苦痛と恐怖に歪んでいる。
少年は既に追いつき、ナイフを振り下ろそうとしていた。ナイフが紅に輝いている。
テイはいつの間にか駆け出していた。
助けられる、助けられない、そんな事は頭から抜け落ちていた。
欲しいものを欲しいという子供の様に、飢えた貴族の様に、愛を欲する妾の様に、欲望が体を動かす。
理屈も道理も全てが消え去り、唯一つの欲望が体を支配した。
少女に笑って欲しい。
たった一つの単純な欲望だけを胸に秘め、テイは少年のナイフの軌道に、右手を差し出した。
鈍い痛みが全身に走る。テイの右手にナイフが突き刺さっていた。占い師はその茶番劇を見て
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
腹を抱えて笑っている。
全てが無駄だ、とでも言いたげに、占い師は笑っていた。
|(違う)
何かに反発するように、力強く足の指で床をける。
床の血と汗で足が取られた。
身体がイメージと狂う。予想していない体勢に変わった。
昔に思考を向けていたテイは、一瞬反応が遅れる。その一瞬で、体勢は修復不可能な所まで来ていた。
次の瞬間、テイの体が床に倒れる。
「ぁぁあああぁぁぁぁ」
何かを言おうとするが、乾ききった声帯はたった一つの母音を作る事しか出来なかった。
急いで立ち上がろうとするが、腕にも足にも力が入らない。
無様に何度も倒れた。
少しづつ、意識も薄れてゆく。それでも踊ろうとするが、一度緩んでしまった神経は元に戻らず、身体はまともに動かなかった。
「頑張ったなぁ。力もなくよくやった。ご褒美に、今日一日は人間でいてやるさ」
意識が切れる直前、テイは黒いローブを着た男の嘲るような笑い声を聞く。ゆっくりと瞼が閉じていき、テイは屍の様に動かなくなった。
「まだだからな小僧、この傷の恨みはこんなもんじゃあすまないかな」
男は右の二の腕を摩りながら、子守唄の様に緩やかで告白の様に情熱的に囁く。
その腕には、一本大きな傷が走っていた。
少し昔の話だ。
森の中、ささやかで、細い糸のような運命が決まってしまった時、魔王の打ち下ろした一撃は、確かにテイの薙ぎより早かった。
しかし邪剣はテイをすり抜け、地面を割いた。
そしてテイの剣が魔王の腕を切る。
邪剣の力で切れぬはずの魔王の身体は、その時邪剣に守られてはいなかった。
魔王は気付いた。
目の前にいる存在が、自分が奪った邪剣の持ち主だと言う事に。
屈辱だった。
怒りだった。
ただの人間に、魔王たる自分が負けたのだ。
許せなかった。
勇者に封印された時、その傷の所為で負けてしまってから、それは凶器と言えるほどの恨みと、狂気と言えるほどの怒りに変わる。
「お前の希望を奪ってやる。お前の想いを奪ってやる。お前の全てを奪ってやる」
男は発狂する程の恨みを込めて囁くと、門番の兵士にテイを治療するように命令した。
男はテイが運び出されるた事を確認すると、ゆっくりとローブを脱ぐ。
枯れ木の様な左腕と足、そして鍛え抜かれた体が現れた。
男は左足にばねと鉄で出来た支えをつけると、漆黒の服を身に纏い、漆黒の鎧を身に着ける。
最後に腰に剣を挿した。剣は鋼で出来たシンプルなもので、鎧や服とは違い鋼の地肌が現れている。
漆黒で統一した体の中で、その剣だけが異色を放っていた。
男は両目を瞑ると、呪文を唱える。今まで我慢していた。男本来の呪文だ。
「時の王よ」
背中に彫られた文様が光り輝く。光りは鎧を透け、辺りを七色に染め上げた。
「三つの臣下の権限より」
男の背中から変質した魔力が吹き荒れる。あまりの魔力に空間が軋みをあげ始めた。
「戦場へと赴かせよ」
男の周囲を魔力が覆い、光りが馬車の中に溢れる。溢れた光りは少しづつその輝きを強め、掻き消えた。
辺りは何事もなかった様に、静かになる。男が消えた事以外は、何事もなかった様に何も変わっていなかった。
昔話をしよう。
テイは右手に走る痛みを無視すると、ナイフの刺さったままの右手で少年を殴りつける。少年はその場に尻餅をついた。
「はぁぁはぁぁ、はぁぁんんはぁはぁ」
テイは殴りつけた右手を見る。
右手は真っ黒に染まっていた。
穢れしか存在しないかの様に、テイの右手は漆黒に染まっている。
「ああああ」
少女が恐怖で抜けた腰を引きずった。目の前に立っている存在が無性に怖かったのだ。
テイは少年に視線を戻し、思考が止まる。
少年の顔が、殴られた部分から綺麗な拳の形で陥没していた。痙攣すらしなくなり、少しずつ肌が白く成っていく。
「あ」
テイは自分が少年を殺した事をようやく理解し、身体が震えた。
「おめでとう」
占い師がテイを馬鹿にする様に拍手をする。
拍手が始まると同時に景色がぼやけ、今度は漆黒の世界に変わった。
「君のお陰で少女は助かった」
「あ」
テイは呆然と占い師の方向を振り向く。目には希望も、夢もなく、後悔と絶望に彩られていた。
「おめでとう、君はそれになれた。この剣は君のものだ」
占い師は何処から取り出したのか、漆黒で塗り固められた剣をテイに差し出す。
「ああ、嫌だ。そんなの、いらない」
その剣を取れば戻れなくなる。
本能的にそれが分かるテイは、ぎこちなく首を左右に振った。
「無理です。もう戻れません」
占い師は丁寧に、愛しい子に言い含めるように言葉を続ける。
だってお前は
そんなにも
欲望で真っ黒じゃないか
テイは慌てて自分の右腕を見た。右腕は見えている肌全て、欲望で黒く染まっている。
左手を恐る恐る見ると、左手も漆黒に染まっていた。
そして、漆黒の剣に映る自分の顔も、影の様に真っ黒だった。
テイはそこで目を覚ます。
ゆっくりと瞼を開けた。
青い空が見える。
日は最高点まで上がっており、暑い日差しをテイの降り注いだ。
テイは目だけを動かし、自分の身体を見る。下半身しか見えなかったが、薄い毛布がかけられいる事が目に入った。
テイは身体に力を入れ、上半身を起こす。全身の筋肉が痛みを訴えるが無視する。
|(急がないと、このままじゃ勝てない)
「動かない方が良いぞ、極度の疲労で倒れたらしいからな」
小柄な、子供のような女がテイを無理矢理、布団へ押し入れる。女独特の香りと血の匂いが混ざった、なんとも言えない臭いがする。
「あなたは?、ここは?」
テイは掠れた声で、女に現状を尋ねる。喉が枯れ、まともな声が出せなかった。
「あたしはエイリンだ。ここは大原の国の野戦病院近くだな」
エイリンは不機嫌そうな様子で、テイの質問に答える。
|(と言う事は、まだ戦場の近く。どうにかなるか)
テイは身体を起こす。体中の筋肉が悲鳴を上げ、骨が軋んだ。
「おい、休め」
エイリンが寝かせようと肩に手を当てるが、テイはその手を振り払う。
それだけで、悲鳴を上げたくなる程の激痛が体を襲った。
テイは歯を食いしばる事も出来ずに、大口を開けて息を吐き出す。悲鳴を上げようにも、声が出なかったのだ。
|(あいつの所へ行かないと)
「どいて、やらないといけない事があるんだ」
テイはゆっくりと立ち上がる。
皮の剥げた足の裏が、膝が震えるたびに痺れた。
ゆっくりと、城の方へ向かって歩き出す。
太陽と現在位置から、正確に方角を割り出していた。
一歩歩くごとに、バランスが崩れる。その度に全力で身体を支えた。
エイリンは呆然と、テイを見る。
理解が出来なかった。
既に目の前の男はボロボロで、歩くどころか、呼吸すらも苦しいはずなのに、戦場へと向かっている。
そんな身体では、何処へ行っても足手まといにしかならない。
何かしなければいけない事としても、その身体では成しえる事は出来ないとしか思えなかった。
テイの身体が大きく倒れかける。
エイリンは反射的に、一歩テイの方へ飛び出した。
テイは両足を大きく開き、上半身を膝と腕で支えてこらえる。
「しぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
テイの口から、悲鳴の変わりに大量の酸素があふれ出た。
「やめろ、まずは身体を休めろ。そうでなくては、何も成功しないぞ」
エイリンは、泣きそうな顔で言う。それは、何時もエイリンが使う言い訳だった。
「今やらなきゃ、きっと後悔する。それに、成しえなくても、例え、それが出来そうになくても、これはやらなきゃいけない」
テイは囁くほど小さな声で、細々と喋る。
エイリンの胸に、テイの言葉が突き刺さる。
その間も身体は戦場へ一歩、また一歩と近づいていた。
「何をだ?、何をやろうとする」
エイリンは、自分でも驚くほど弱々しい声で尋ねる。
「あの男を、黒い男を殺す。あいつは居ちゃいけない。あいつは俺にしか殺せない」
テイはここがどこかという事も忘れて、言い切った。
頭の中は身体中に神経を張る事で精一杯で、他の事が考えられない。
一本神経を張る毎に神経の機能、それの九割近くが痛みで占領された。
意識を手放さない。苦痛は増える事はあっても、減る事は無かった。
「止まれ!、あの男、行政執行参謀長はあたし達の司令官だ。これ以上先へ行くなら殺す」
エイリンは腰につけた剣に手を置き、テイの前に立ちはだかる。
テイはそんな事に構わず、一歩前に進む。
「と、止まれ、止まらないと殺すぞ」
エイリンは泣きそうな声で叫び、剣を抜いた。
剣は正確にテイの身体を捕らえている。
エイリンは祈るようにテイを睨んだ。
殺させないで、これ以上関係ない人を、戦場に関係ない人を殺させないで、そう祈りながら、そう願いながら、切っ先を喉へ向けた。
それでもテイは一歩前に進んだ。喉仏に切っ先が当たり、血が一滴流れ落ちる。
「殺せばいい。それでも、俺は行く」
テイは呟くように言うと、また一歩前に進んだ。
それにあわせて、エイリンは一歩後ろに逃げる。剣を突き付けているのはずのエイリンが、まるで剣を突き付けられている様だ。
「何で?、何でそこまでするの?、金?、名誉?、それとも道徳?
くだらない!
どれも生きていて価値のある物でしょう」
エイリンは震える身体に無理矢理力を入れようと絶叫する。
まるで、泣いている様な声だ。
「守りたいから、暖かかった、大好きな世界を守りたいから。皆に笑って欲しいから」
掠れた声で、テイは呟く。
弱々しい言葉が、エイリンの心を打ちつける。
「嘘だ!」
エイリンは、テイの言葉をかき消すように叫ぶ。
「嘘じゃない」
テイはそれだけ言って、また一歩歩き出した。エイリンは怯える様に後ろへ下がる。
「だったら、何で兵士にならない!
何で騎士にならない!
そうなれば守れただろう!、そうなれば戦えただろう!」
エイリンは泣きながら叫んだ。
目の前の男が、自分にとって天敵だと言う事に気付きながらも、問うことをやめられない。
こう叫べば、何と言うか分かっていながらも、エイリンは叫ぶしかなかった。
「それじゃ、守れないから。それじゃ、笑ってくれないから」
テイは当たり前のことの様に言う。
それは、エイリンが聞きたかった答え。きっと騎士になる時、言って欲しかった言葉。
力が欲しかった。守れるだけの力が欲しかった。
けど、力を手に入れても、何も守れなかった。
何時も、関係ない人を殺して、戦場だからと言ってごまかして、これが平和のためだと呟いて、後ろ振り返らずに逃げてきた。
だけど、その先にあったのは、自分の欲しかった世界じゃなかった。あったのは、新しい戦場と言う名の地獄と、駒と言う名の部下。
どれだけ大切に想っても、捨てなきゃいけない部下、誰かのためにと誤魔化して敵を殺す自分。
そんなものが欲しかったわけじゃない。
欲しかったのは、皆が笑い合える世界と、暖かい温もり、それだけだった。
テイは一歩前に進む。剣の切っ先は喉仏から離れ、地面に刺さっていた。テイはゆっくり、歩いてゆく。
エイリンにそれを止める事は出来なかった。
止めてしまえば、あの時騎士となった時の志さえ、穢してしまう気がして一歩も動く事が出来なかった。
テイは、エイリンにとってもう一人の自分だった。あの時、間違わなければ、こうなってたかも知れない。
こうなりたかった。
エイリンの理想像だった。
「教えてくれ」
ただ、口だけが、最後の教えを問う。
「何故、あの男がお前にしか殺せない。なぜ、そう確信できる」
エイリンは項垂れたまま、尋ねた。
もう二度と会う事もない、もう一人の自分に。
「あの男は魔王。邪剣を持ってる。聖剣を持たない勇者じゃ勝てない。だから邪険を取り戻さないと」
テイは掠れた声で言った。エイリンはテイを振り返る。
「馬鹿な、魔王は死んだはずだ。いや、死んだんだ。証拠もなくでたらめを言うな!」
エイリンは信じられないと言う顔で、テイの後ろ頭を見つめた。
「魔王しか知らない事を知ってた。それに、大量の兵を洗脳してる。あんなの魔王にしか出来ない。
人知を超えた魔法、あんたも何か覚えがあるだろう。それにここを攻めた理由も分かる」
テイはゆっくりと囁く。
エイリンは頭の中に、遠距離発動の魔法と秘密兵器が頭をよぎった。
そして、魔王が聖女の血を浴びると不死になる、と言う噂を思い出す。
「ああ、ある。あの男は、今までの常識を越えた魔法編み出し、閉器を使える」
エイリンは初めて黒いローブの男、魔王と私的会った時の事が思い浮かんだ。エイリンは倉庫の中で閉器を見た。
それは、エイリン達が預言者ケンミと共に壊したはずの閉器だ。
「それが証拠になる。閉器は邪剣の力でだけ、魔王にだけ使えるもの」
それが一押しとなる。
エイリンは、テイの言葉が嘘には思いたくなかった。
だから、信じた。疑わしいところも、怪しいところもある。
それでも、エイリンは自分の理想と昔の自分を信じた。
「そうか」
そう呟くと、エイリンは目を閉じる。頭の中でもう一人の自分が叫んでいた。
このまま、ここに止まっていいのか?
自分は間違えたかもしれない。
それでも、いや、だからこそここに逃げていていいのか?
お前は何で騎士をやっている?
「駄目だよね」
そう呟くと、エイリンはテイに近づく。
テイは歩みを覚えたばかりの赤ん坊の様に、バランスを崩しながら歩いていた。
エイリンはその肩を担ぐ。
「行くぞ。魔王の所だな」
エイリンは、涙で濡れた顔を拭かずに笑った。
今までやってきた事は間違いかもしれない。それでも、エイリンにとって、民を守る事は大切な使命だ。誰が何と言おうと、それだけは否定させない。
そして、それだけは、穢されたくなかった。
魔王の企みで、穢されたくはなかった。
「ありがとう」
テイは、掠れた声で嬉しそうに笑い返す。二人は、ゆっくりと確実に歩みだした。
「まってくだせぇ」
野太い声が二人を呼び止める。エイリンの兵が二人の前に立ちはだかっていた。
「どけ、お前達、最後の命令だ」
エイリンは泣き腫らした目で、騎士であるエイリンの顔を作る。
「嫌ですぜ」
兵達は首を横に振り
「最期までお供します」
何時も通りに笑った。そんな馬鹿な男達にエイリンは笑いだしそうになる。
「分かってるのか?、付いてくれば反逆罪だ。ただじゃ済まんぞ」
答えの分かっている問い。エイリンには、目の前にいる可愛い部下達がどう答えるか、手に取るように分かっていた。
「「「「そんなの、母親の股から這い出た時に、覚悟してますぜ」」」」
兵達もエイリンの反応を承知していたのだろう、声をそろえて言う。
「本当にいいのか?、やめた方が利口だぞ」
エイリンは、それでもやめろ、と忠告した。
兵達は笑いながら、承服できません、と珍しく難しい言葉を使う。
「馬鹿共が」
エイリンは憂いそうに呟いた。
「俺達は国じゃない、あんたに仕えているんだ」
兵の一人が言った。
「少し待っててくだせぇ。馬車と馬を持ってくるんで」
そう言って、兵の一人が走り出す。
「そっちの坊主をここに寝かせてください。休ませた方がいい」
兵の一人がテイをその場に寝かせた。
エイリンはテイの隣に座る。周囲では慌しく、エイリンの兵が反逆の準備をする。
「それで、どうやって魔王を倒すんだ?、言っとくが、玉砕はごめんだ」
「邪剣を、黒い、漆黒の剣を俺が手に取ればいい。それで、魔王は邪剣からの力を吸い出せなくなる」
テイは呻く様に言った。
味方ができ、安心した所為で、神経が緩んだのだろう。身体に力が入らなかった。
「・・・・・・漆黒の剣、まさかそれは刀身まで全部真っ黒で、柄尻に巨大な黒曜石を埋め込んだようなものか?」
エイリンは一度、ある場所でそれを見た事があった。それが邪剣である事を願い、テイに迫る。
「よく知ってたな。そうだ」
テイは全身からくる痛みに顔を歪めながら、頷いた。
「それなら、ある場所を知ってる。魔王の所じゃない。良かったな。勝率があがったぞ」
エイリンは嬉しそうに笑い、部下に行き先の変更を告げた。
場所はここから後方にある小さな森だ。
閉器の隠された場所に、エイリン達は進路を取った。
エウシウスは自分の顔が引きつっている事が分かった。
「エウシウス」
シャナが後ろから、不安そうに呟く。二人の他に人間はいない。十数分まで間では、三十人ほどいたが、たった十数分で、全て屍に変わってしまった。
城の中に出来た人工庭園、この世の楽園とまでいわれた場所は、今絶望の黒で満たされていた。
「シャナ姫、迎えにあがりました」
魔王は先ほど三十人以上の人間を虐殺したとは思えないほど、穏やかに微笑んでいた。
「まだ、その台詞は早いんじゃないのか?、俺を倒してからにしろよ」
エウシウスはシャナを隠す様に一歩、前に出る。
魔王の顔が不愉快そうに歪んだ。
「聖剣を持たないカスか。
封印を壊すのに、左手一本分の力と一年近くの歳月が必要だった。
なかなか良い封印だ。その封印に敬意を表して、見逃してやる。
さっさと失せろ」
魔王の身体から漆黒の力が溢れ出る。邪剣の力だ。それは最盛期に比べれば弱々しいが、それでも並みの人間なら触れただけで殺せてしまう程の力だった。
「悪いけど、惚れた女を見捨てられるほど、利口じゃないんだ」
エウシウスは引きつった笑みを浮かべる。
聖剣を持たないエウシウスは、聖剣の力を手に入れられない。
勇者と魔王は対等、どちらが勝つかはその力のみで決まる。
そして、力は魔王が上。どちらが勝つかは、分かりきっていた。
もし、魔王が相手でなければ勇者が勝っていただろう。存在の格が違う。既に戦う前から、どちらが勝つか決まってしまっているのだ。
「なら、死ね」
「お前がな。魔王」
それでもエウシウスは、両手で握った剣に力をこめ、走る。
魔王は余裕の笑みで、剣を構えた。
どちらも互いの剣、聖剣と邪剣を持っていない。
しかし、伝説となるほどの業物だ。武器による差はなく、勝負は力と技と心のぶつかり合いとなる。
「負けないでください」
シャナはそれしか出来ないから、それ以外何も出来ないから。祈った。
エウシウスが生きてくれる事だけを祈った。
負けてもいい、自分はどうなんてもいい、ただ彼が死にませんように。
それだけをシャナは祈った。
エイリンは目の前にある大木を、七色に輝く剣で粉砕する。
テイはエイリンの操る馬の後ろに乗っていた。
森に入るまで身体を休めたお陰で、テイはかなり楽に身体を動かせる。 体中が痛み、骨が軋んでいたが、最初の状態に比べれば、かなり楽だった。
目の前には既に閉器の姿があった。
大きさは二階建ての家ほど、エイリン達が前に壊した物が一寸した屋敷ぐらいの大きさがあった事を考えると、かなり小さい。
壊れた所為なのか、移動のためか分からないが、今は好都合だ。どこを壊すか考えなくてすむ。
いきなり乗っていた馬の歩調が乱れた。
テイは慌ててエイリンの身体にしがみつく。
馬は限界に近かった。口から泡を吹いて走っている。十キロ近く、全力で走らせたのだ当然の結果だった。
予想より速くつけた。しかし、エイリンの胸には不安と不信感が、胸に降り積もっていく。
ここまで何の妨害もなかった。
エイリン達は速さだけを重視してここまで来たのだ。居なくなった事を誤魔化す様な小細工や、相手に気付かれない静かな進軍もしていない。
いくら何でも、兵が気付くはずだ。
それなのに、何の妨害もない。罠かも知れない。
そう言う不安と、罠なら何処にあるのか、という不信感がぬぐい捨てられなかった。
他の仲間も同じ気持ちなのだろう。何処となく、何時もより緊張した表情をしている。
予想が当たった。閉器の前には、数十人の兵士が陣形を組んで守っている。どの顔も見覚えがあった。
どれも、先日エイリンが護衛に選んだ兵士達だ。
人数では向こうが上だが、兵士しかいない事が唯一の救いだ。全員無表情に武器を構えていた。
「このままあたしとテイが突っ込む。お前達は外の奴らをどうにかしろ」
エイリンは叫ぶと馬を更に速く走らせた。その後ろの兵達が並び、エイリンを頂点とした二等辺三角形を作る。
エイリンは剣に魔力を通した。七色の魔力が螺旋を描きながら、柄から切っ先まで伝わる。その形は紡錘状で、見る者に巨大な槍を思い浮かばさせる。螺旋は少しづつ回り始める。回転は次第に速さを増して行き、大気がそれに巻き込まれた。
「はぁぁぁぁぁぁ」
エイリンの叫びに応じて、右腕に文様が浮かび上がる。螺旋は剣を離れ馬と乗り手を覆い、更に回転の速度を上げる。
迷わず馬を入り口らしき所に突っ込ませた。入り口を守っていた兵士が回転に巻き込まれ、体がねじ切れる。十人前後の兵士が、ミンチに変わった。
螺旋の槍を突き立てられた入り口が悲鳴を上げながらも耐える。
螺旋が入り口を抉る。
入り口にひびが入った。
螺旋にかげりが見えてくる。
一進一退の攻防が続き、最初に根をあげたのは、二人が乗っている馬だった。それでも軍馬としてのプライドか、馬は前のめりに倒れる。
テイとエイリンは、前方へ投げ飛ばされ、それが最後の一押しになった。入り口は破れ、螺旋の槍はエイリンの剣ごと消滅する。
鼓膜を痺れさせる轟音と共に、テイとエイリンは閉器の中へと放り出された。
テイは固い床に投げ飛ばされ、無様に倒れる。
エイリンは何とか受身を取ると、すばやく立ち上がり、二本目の剣を抜いた。油断なく構える。
目の前には椅子に座ってた男が、玩具で遊んでいた。
二十歳は過ぎているだろう男は、まるで少年の様に無邪気に笑って、玩具で遊んでいる。
男の後ろには巨大な肉の塊が、表面に光り輝く幾何学模様を作り鎮座していた。透けて見えるその中に、黒い棒状の何かが見える。
「こんにちは、僕はZていうんだ。最初で最期の人格。よろしくね」
まるで、友達になろう、と言っている様に、Zは手を振っていた。
「邪剣をこちらに渡してもらう。従えば、命は助けてやる」
エイリンは剣に魔力を通し、何時での切りかかれる状態で睨む。
どれだけ無邪気に見えてもZは明らかに敵だった。
手が四本、両方肘から二股に分かれている人間などまともなわけがない。
「あ、もしかして、これの所為?、ごめんねぇ、僕の時はこれが消せないんだ。だけど、それだけだから、仲良くしようよ」
Zは、四本の手を振って笑った。
「だとしても、魔王に味方するなら、倒すだけだ」
「そうだ。こっちにも事情があるから、邪剣返してもらう」
ようやく立ち上がったテイは、エイリンの言葉に頷く。
左手には小型のナイフが握られていた。利き手が使えない上、殆ど力の入らないテイのために、エイリンの兵が用意したものだ。
「こまったなぁ。あの人は、んB、あ、うん、わか・・・・」
Zの四本腕が日本腕に変わる。まるで瞼を閉じるように枝分かれしていた腕の一つが肘の中にしまわれた。Zの雰囲気が一変する。同一人物とは思えない変わりようだった。
「はじめまして、ベルタと言うものだ。驚くとはない。多重人格と言うものでね。そのリーダーをやらせてもらっている」
ZがBに変わる。エイリンとテイは、始めてみた多重人格者に戸惑いを隠せなかった。ただの演技か、本物か、見分けが付かない。
「先ほどの問いの答えだが」
Bは二人の戸惑いを無視して話を進めた。
友好的な態度などない。
それだけで、答えが分かった。
「ノゥ、だ」
答えと同時にBが手じかにあった棒を手に取り、エイリンがBに切りかかる。
魔力を帯びた薙ぎを、Bは一歩前に出る事で間合いを外し、魔力を帯びた棒で受ける。
エイリンはBの左に回りこみ、力で剣の死角から男を追い出す。
その間にテイは二人の脇を通り、巨大な肉の塊に走った。
エイリンは男が止めに入れぬ様、左からも一度薙ぐ。
男は右後ろに飛んでこれをかわした。
「ふん、いいのか?、このままじゃあ、大切な邪剣が奪われるぞ」
「その心配はない。あれに触れて無事な存在は魔王のみだ。
それに、あれにも防御機構ぐらいつけてある」
Bの言葉を裏付けるように、
「ぎゃがやぅしいえごいあはあああああふぅぅぅぅぅぅぅぅあぅいひひでゃぢおあひうぇ」
テイが枯れた喉を潰す様な叫びを上げる。
「な」
エイリンが、テイの方に視線を向けると、光り輝く肉と肉に触れた手から煙を上げているテイが居た。
その光景に一瞬意識が全て持っていかれる。
そして、左腕に何か硬いものがぶつかった。左腕の骨が砕け、衝撃は内臓を突き抜ける。
「甘い」
Bの呟きが耳に入ると同時に、エイリンは壁にぶつかり、ボールの様に跳ねる。
「がっはああぁぁ」
魔力による防御を一切出来ず、魔力の乗った攻撃を受けた結果だ。
エイリンの鎧は魔力に対する防御力はない。魔力に対する防御力をつけると、重くなり動きにくくなるのだ。
自分で魔力に対する防御が出来るエイリンは、動きづらくなる事を嫌い、対魔力の防御力がない鎧を選んでいた。
今回はそれが裏目に出た。
一撃で、戦闘不能に近いダメージを受ける。
「ふん」
Bは更に追撃の手を打つ。手に持った棒を、全力で振り下ろしてきた。
「ちぃい」
エイリンは、それを転がってよける。
エイリンのよける軌道が分かっているかのように、Bの棒が地面すれすれを薙ぐ。
今度は剣で受ける。
衝撃だけで内臓が悲鳴を上げ、骨が軋んだ。
意識が途切れそうになる。死にたくない、と言う本能と、騎士としての訓練がどうにか意識をつなぎとめた。
エウシウスはシャナの手を引き逃げていく。
やはり、今の魔王には勝ち目がなかった。
剣技、身体能力、駆け引き、全てにおいて魔王が上。
しかも魔王の攻撃と、エウシウスの攻撃では同じようにあたっても、ダメージが違う。
エウシウスが十受けるダメージを、魔王は一にまで軽減していた。
もしかしたら、もっと軽減しているかも知れないが、エウシウスは考えないようにした。
「逃げるのか?、はっ、情けない。勝てる時だけ強気で、負けそうになったら逃げる。最低だな」
追いかける魔王が、勇者の惨めな後姿を嘲笑う。
魔王には、その後姿が別の誰かと重なって見えた。
邪剣を奪い取った時、なきながら逃げ出したテイの後姿だ。
実際にはまるで違うのだが、魔王の狂気が二つを重ね合わせる。
「逃げろ、逃げろ、そして絶望の中で死ね」
狂気が、魔王から冷静な判断力を奪っていた。
本来なら直ぐにでも追いつける所を、わざと速度を落としいたぶる。
普段なら絶対にしない、素人じみた行為。
だが、魔王はそんな事も気付かずに、二人を追い回した。
テイは黒く炭となった指先を、更に肉の塊へと埋没させる。
見た目とは違い、殆ど抵抗もなく指は入っていく。
肉の塊の中は見た目からは分からないが、数秒で人の身体を沸騰させるほど熱い。
「ぎゃおうふぁおほいうぇほへだあ」
無理矢理叫ばされた喉から血が吐き出された。
体中をめぐる血液が全て沸騰したように熱い。
右腕はあの時と同じ様に、黒く変色している。
昔話をしよう。
テイは慌てて自分の右腕を見た。
右腕は見えている肌全て、欲望で黒く染まっている。
左手を恐る恐る見ると、左手も漆黒に染まっていた。
そして、漆黒の剣に映る自分の顔も、影の様に真っ黒だった。
「嫌だ。いらない。そんなのいらない」
テイは耳を塞ぎ、目を閉じ、いらない、いらないと首を横に振る。
「なら俺が貰ってやろう」
不意に、聞いた事のない声が耳に入った。生暖かいが体中に掛かる。
テイは恐る恐る目を開け、耳を開いた。
「ヒィ」
テイは逃げ出した。何も考えたくなくて、目の前の怪物から離れたくて、テイはがむしゃらに走り出す。
「逃げたか」
枯れ木の様に醜く骨と皮しか見えない身体をした男が、占い師の心臓を食べながら、満足そうに呟いた。
あの時と違う事が一つだけあった。
あの時は逃げる事ができたが、今回は逃げられないという事だ。
逃げてしまえば、自分の全てを否定する事になる。
それは許される事ではない。
親を捨て、家族を捨て、友を捨て、それでも選んだ自分。
それを否定する事だけは、絶対に出来ない。
だから、テイは逃げられなかった。
|(進め、進め、進め)
それだけを考えて、炭になりかけている右腕を更に埋め込む。
左肺に肋骨が刺さり、右足の膝から下の感覚がない。
左腕は痛み以外何の反応もなく、内臓は何時破裂しても可笑しくない状況だった。
壁に寄りかかっていなければ、その場に倒れていただろう。
|(ああ、死ぬな)
エイリンは、冷静に今の状況を分析した。
ボロボロの身体、そして折れた剣に、尽きた魔力、それだけでも絶望的なのに、Bが魔力を込めた棒で身体の中心を突こうと突進してきている。
勝てる要素がなかった。
Bの間合いに入る。
エイリンは諦めた様に棒の先端を見た。
|(頑張ったよね。もう疲れた)
誰かに許しを請う。
Bの身体が極限まで捻じれた。
「ぎゃおうふぁおほいうぇほへだあ」
誰かの悲鳴が聞こえる。エイリンの右腕に力がこもった。
|(そっか、死んだら次は)
Bの棒が突き出される。
「死ねるかぁぁぁぁぁぁ」
自分が死んだ後、悲鳴の主がどうなるのか。
それが頭を過ぎる。
思考より先に、体が動いた。
生き残っている左足で壁を蹴る。
衝撃で肺にささった肋骨が、更に深く食い込んだ。
Bの棒が、エイリンの左下半身に当たる。
左足が付け根からは三百六十度回転した。ねじ切れていない奇跡だった。
エイリンは、折れた剣をBの喉元に投げつける。
Bはしゃがんでそれをかわした。
|(進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め・・・・・・)
肩まで肉の中に入る。指先は既に感覚がない。
剣まで後十七センチ。
|(進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、進め、すすめ、すすめ、ススメ、ススめ、ススめ・・・・・・)
顔の右半分が肉に埋もれた。既に精神というものは存在していない。
剣まで後八センチ。
|(ススメ、ススめ、ススめ、ススめ、ススめ、ススめ、ススめ、ススめ、ススめ、ススめ、ススめ、・・・・・・)
顔が全て埋もれた。目は焼かれ、使い物にならなくなる。鼻腔から熱が入り、肺臓を焼き尽くす。髪の毛が燃え、服まで燃え移った。
剣まで後一センチ。
|(すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、すすめ、す)
そこで、肉体も力尽きた。倒れる様に、肉の中に入ってゆく。
しゃがんでかわしたBの喉元に、エイリンは喰らいつく。残った力の全てを顎に注ぎ、歯を喉に食い込ませていった。
Bの喉から、美しいルビー色の血が吹き出て行く。
「がああああぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ」
Bはエイリンを引き剥がそうともがいた。
Bの指が鼻の穴や口の中に入り、裂けるかと思えるほど引っ張るが、エイリンは無視する。
次第に指の力は弱くなり、冷たくなった。
獣の様な顔でBの喉笛を噛み切ったエイリンは、そのまま力尽き倒れた。自分の役目は果たしたとばかりに、口元に笑みを浮かべていた。
テイは体中、内も外も、炎で焼かれている。身体の殆どが焼かれ、無事な部分は殆どない。足や指の末端から燃え尽きていった。
わらってほしい
最期に残された欲望が、漆黒の剣を動かす。漆黒の剣は主を見つけた様に、テイの手の中に納まった。
魔王は、エウシウスの左肩を切り落とし、再度剣を持ち上げる。
エウシウスは、発狂したくなる精神と、失神したくなる肉体を強引に黙らせて、剣を構えた。
しかし、片腕がなくなった所為で、上手くバランスが取れず、倒れる。
「もう良いです!、やめてください!、私ならどうなっても良いですから!」
シャナが泣きそうな顔で、それでも微笑みながら叫んだ。
「どうでも良い分けないだろう」
エウシウスは、それだけ呟くと魔王に突進する。
既に剣を振るえる状態ではなかった。
身体ごと刃をぶち当てる。
その程度の事しか出来ない。
「無様」
魔王はエウシウスの突進を嘲笑った。
ゆっくりと剣を持ち上げ、エウシウスの脳天に剣を振り下ろそうとして、身体から邪剣の力が抜けてゆく。
身体が全て枯れ木の様に醜く変わってゆく。
エウシウスの剣が胸を貫いた。
「異端では、光に勝てない、か」
魔王は諦めた様に全身の力を抜く。体中から肉が消えていった。
本来なら生まれる前に死んでしまう様な体、それを維持していた膨大な魔力も、絶対の力も今はない。
異端というだけで、悪に落とされた身体は、醜い屍としてその姿を晒していた。