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春風  作者: mone
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Episode1

懐かしい夢を見た。


大好きだったあの子が、公園で僕にシロツメクサを渡してくれる夢だ。


まだ背も小さくて、ランドセルの方が大きく見えた頃。


春の終わりの公園は、少しだけ湿った土の匂いがしていた。足元には白い花が一面に咲いていて、僕らはそれを宝物みたいに摘んでいた。


「これ、ゆびわになるんだよ」


そう言って、あの子は得意げに笑った。


僕は負けたくなくて、シロツメクサを何本も摘んだ。けれど、細い茎はすぐに切れてしまう。うまく結べなくて、指先に緑の匂いだけが残った。


「できないの?」


からかうように笑われて、少しむっとした。


「できるよ」


本当は、母さんに一度教えてもらっただけだった。


何度も失敗して、ようやく小さな輪っかができた。少し歪んでいて、花も一つ横を向いていたけれど、それでも僕にはちゃんと指輪に見えた。


「はい」


僕が差し出すと、あの子は目を丸くした。


「くれるの?」


「うん」


小さな手を取って、細い指にシロツメクサの指輪を通す。


あの子はしばらく自分の手を見つめていた。それから、花が咲いたみたいに笑った。



「わたし、大きくなったらゆうくんとけっこんする!」



その笑顔を見た瞬間、胸の奥がふわっとあたたかくなった。


だから僕は、何も考えずに言った。



「うん。ぼくの、およめさんになってね」



あの子は少しだけ驚いて、それから力いっぱい頷いた。



「うん」



僕たちは指切りをした。


小さな指と、小さな指。


春の匂い。


白い花。


あの子の笑った顔。


その全部が、夢の中ではいつも鮮やかだった。





一一一一一


ジリリリリリリ――


けたたましい目覚まし時計の音で、意識が一気に現実へ引き戻された。


「……うるさ」


伸ばした手が、枕元の時計を探す。


指先が何度か空を切って、ようやく目覚ましの頭を押さえた。


音が止まる。


部屋には、冷蔵庫の低い音だけが残った。


僕はしばらく布団の中で天井を見つめていた。


夢の余韻が、まだ胸の奥に残っている。


白い花。


小さな手。


約束。


「……夢か」


小さく呟いて、身体を起こした。


時計は六時三十分。


カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。


僕――佐々木優也の一日は、毎日ほとんど同じように始まる。


顔を洗う前に、まずキッチンへ向かう。


去年誕生日に大学の友人から貰ったコーヒーメーカーの電源スイッチを入れて、昨日の夜にセットしておいたマグカップを置く。低い機械音が鳴り、少しずつコーヒーの香りが部屋に広がっていった。


この匂いがないと、朝が始まらない。


そう思うようになったのは、いつからだっただろう。


少し前まで、苦くて飲めなかったはずなのに。


コーヒーが落ちるのを待つ間、洗面所で顔を洗った。


鏡の中の自分は、ひどく寝起きの顔をしていた。


目元に少しだけ影がある。


昨日、そんなに遅くまで起きていたわけじゃない。


なのに、あの夢を見た今朝は身体が重かった。


「ツグミ……」


名前を口にしてから、はっとした。


別に、誰かに聞かれるわけでもない。


一人暮らしの部屋だ。


それでも、その名前を声に出すと、空気が少しだけ変わる気がした。


ツグミ。


幼い頃、隣の家に住んでいた女の子。


僕の初恋だった。


物心ついた頃から、僕らはいつも一緒にいた。


公園に行くのも、学校に行くのも、夏休みにラジオ体操へ行くのも。


どちらかが外に出れば、当たり前のようにもう片方が後を追った。


でも、中学二年の夏。


ツグミは突然いなくなった。


引っ越したのだと、母さんは言った。


詳しい理由は知らない。


聞いても、母さんは困ったように笑って、「大人の事情よ」としか答えなかった。


連絡先も分からない。


最後に会った日のことも、なぜかうまく思い出せない。


ただ、気づいた時には隣の家は空っぽで、庭にあった自転車も、玄関先の鉢植えも消えていた。


あの日から、ツグミは僕の中でずっと中学二年のままだ。


「……何やってんだろ」


コーヒーメーカーから抽出が終わった音がして、僕は洗面所を出た。


マグカップを手に取り、熱いコーヒーを一口飲む。


苦味が舌に広がる。


少しだけ、現実に戻ってくる。


今日は大学の新歓期間だった。


所属している映画研究サークルにも、新入生が見学に来るらしい。


正直、騒がしいのはあまり得意じゃない。


けれど、サークルの人数が少ないこともあって、二年生の僕も顔を出すように先輩から言われていた。


面倒だな、と思いながらも、断る理由はない。


僕はクローゼットから適当に服を出して着替えた。


白のパーカーに、デニム。


リュックに財布とスマホ、ノートパソコンを入れる。


最後に、机の上に置いたままのマグカップを見た。


飲みきれなかったコーヒーから、まだ薄く湯気が立っている。


少し迷ってから、流しに捨てた。


玄関で靴を履き、鍵を手に取る。


ドアを開けると、朝の空気が少し冷たかった。



大学までの道は、歩いて二十分ほどだった。


駅を使うほどの距離でもない。


通学路の途中には、小さな川沿いの遊歩道がある。


春になると、土手にいろんな草花が咲く。


僕は普段、そこを特別気にしたことはなかった。


けれど、その日はなぜか足が止まった。


遊歩道の脇に、シロツメクサが咲いていた。


白くて、小さくて、丸い花。


風に揺れている。


「……」


胸の奥が、少しだけ痛んだ。


理由は分からない。


いや、分からないわけじゃない。


今朝、夢を見たからだ。


そう自分に言い聞かせて、僕はまた歩き出した。


大学の正門が見える頃には、構内はもう新入生らしき学生たちで賑わっていた。


あちこちにサークルの勧誘ポスターが貼られ、先輩らしい学生たちがチラシを配っている。


「映画研究サークルでーす!」


「初心者歓迎でーす!」


聞き慣れた声がして、僕は足を止めた。


正門の近くで、派手な色のジャンパーを着た男が手を振っている。


藤原颯斗。


同じ二年で、僕の数少ない友人の一人だ。


「優也! おっそ」


「まだ一限まで時間あるだろ」


「違う違う。新歓の準備、九時集合って言ったじゃん」


「聞いてない」


「言った。昨日グループに流した」


「見てない」


悠斗は大げさにため息をついた。


「お前さ、スマホ持ってる意味ある?」


「時計」


「もったいな」


悠斗は笑いながら、持っていたチラシの束を僕に押しつけてきた。


「はい、これ配って」


「今から?」


「今から」


「俺、勧誘向いてない」


「知ってる。でもお前、顔はいいから立ってるだけでいい」


「雑すぎるだろ」


「黙って笑ってれば新入生が来る」


「動物園の客寄せみたいに言うな」


そんなやり取りをしながらも、僕は仕方なくチラシを受け取った。


颯斗は人懐っこくて、誰とでもすぐに打ち解ける。


僕とは正反対だ。


だからこそ、隣にいると少し楽だった。


自分が話さなくても、空気が勝手に進んでいくから。


「で?」


颯斗が僕の顔を覗き込んだ。


「なに」


「また眠そうな顔してる」


「朝だからな」


「違う。なんか、夢見た後みたいな顔」


僕は返事に詰まった。


「……何それ」


「いや、たまにあるじゃん。お前。寝起きのまま魂だけどっか置いてきたみたいな顔してる日」


「言い方」


颯斗は笑っていたけれど、その目は少しだけ真面目だった。


僕は視線を逸らして、チラシを一枚めくった。


「別に。ただ、昔の夢見ただけ」


「昔?」


「子どもの頃の」


「ふーん」


颯斗はそれ以上聞かなかった。


その距離感が、ありがたかった。


午前中の授業を終えて、昼を挟み、午後はサークルの部室へ向かうことになった。


映画研究サークル、といっても、たいした活動をしているわけではない。


週に一度、部室で映画を観て感想を話す。


たまに短い映像を撮る。


文化祭では自主制作映画を流す。


そんな、ゆるいサークルだ。


僕が入った理由も、強い憧れがあったわけじゃない。


高校から一緒だった颯斗に誘われて、なんとなく入った。


けれど、居心地は悪くなかった。


部室棟の廊下は、いつも少し埃っぽい。


古い建物特有の匂いがする。


階段を上がると、奥の部屋から賑やかな声が聞こえてきた。


「今日、何人くらい来てるんだろうな」


颯斗が隣で言う。


「さあ」


「可愛い子いるかな」


「それ目当てで勧誘してるのか」


「半分」


「半分は?」


「部費確保」


「最低だな」


颯斗は悪びれもせず笑った。


部室の前まで来て、僕はドアノブに手をかけた。


その瞬間。


中から、女の子の笑い声が聞こえた。


明るくて、少し高くて。


知らない声のはずだった。


なのに。


胸の奥が、かすかに揺れた。


「優也?」


颯斗が不思議そうに僕を見る。


「……いや」


僕は首を振り、ドアを開けた。


「おはようございます」


そう言って部屋に入る。


窓際に、見慣れない女の子が立っていた。


白いブラウスに、淡い色のカーディガン。


肩につくくらいの髪が、春の光を受けてやわらかく揺れている。


その子がこちらを振り向いた。


僕は、息をするのを忘れた。




「……ツグミ」





声が、勝手にこぼれた。


部室の空気が止まる。


女の子は少し驚いたように目を瞬かせて、それから困ったように笑った。


「あの……」


その笑い方が。


あまりにも、記憶の中の君に似ていた。


「私、高野紬です」


彼女はそう言って、小さく頭を下げた。




「初めまして」



その言葉だけが、やけに遠く聞こえた。

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