姉に婚約者を寝取られましたが、私には想い人がいるので
白い骨のような立ち枯れた樹々。
遠くの峰々が沈みゆく月に照らされ、巨人のように座している。
「聖騎士さま…」
ぐわんと、意識が浮上した頃には、血の滴が地面に落ちていた。
焼けた火箸が触れたような熱さが背に走り、リアンは胸のあたりを抑えながら言葉を紡いだ。
「郊外へ戻りましょう、ひとつの遠征部隊が前線から消えたところで誰も咎めません。ましてや、今頃、肉の塊にがぶり食いついているであろう王侯貴族など、血の通った顔で策略を練っているだけです。私たちのことなどこれっぽちも気にしちゃいない。だから逃げましょう」
四肢の自由の効かない聖騎士を抱えて走ったところで、勝機などこれっぽっちもない。
だが、何年も共に戦ってきた者を置いていくのも気が引けた。
「エイミーさま、このような一衛生兵に見送られようなど不甲斐ないだろうけど、貴方の武功は消えやしない。きっと、この栄光は街中に張り出され、市民はすっかり小躍りを始めているでしょう。ワイン片手に戦果を讃え、誰もが暮まで熱弁を振るい、翌朝、泥のように眠る…。」
そうだ、平民上がりのリアンには目に見えた。
蒸し焼きになった猪肉は柔らかく、とろとろになった甘い果汁は噛みしめると、濃厚な甘味が口いっぱいに広がったものだ。
幾千と威勢よく旅立った兵士が数十名に減って帰ってきたのを見るのは胸が痛いが、そういう日はたんと美味しいものが食べられるので、リアンにとっては安上がりだった。
「私の…故郷の話を…しましょう、そうすれば、きっと安らかに寝られるはずです」
──聖騎士エイミー。
誰もが英雄と称えられる存在が、今やリアンの腕の中でぐったりと憔悴し切っている。
「春は気まぐれで、雨が降ったかと思えば眩しいほどの日差しが戻って、濡れた土から青い匂いが立ち昇るのです。霞がかかった山の端は墨で滲んだようで、その下に広がる畑は黄色い絨毯のようで。子どもの頃の私はその中をわあわあと駆け回って、母に叱られながらも、また翌日には駆け回っていました」
エイミーの睫毛が、かすかに揺れた。
「夏は光、緑葉の揺らめき、遠雷の匂い。夜空には弧を描く流れ星が走り、白い砂浜のように星が瞬きます。露草の淡い青、野原を染める向日葵の黄、夕暮れに閉じる夕化粧の花も綺麗です」
鬱蒼と生い茂る森に、かさりと、梢から数匹の小鳥が飛び出した。数名の追手だ。
毒気の渦巻く森に響くのは、重装備が木々に擦れる音。鼓動が激しくなり、胸が苦しくなってきた。
「秋は夕暮れ、茜に溶ける山の端、帰り急ぐ鴉の列。風が渡るたびに葉が一枚、また一枚と剥がれて、足元に積もってゆきます。鹿の遠音、虫の音、夜露に沈む野菊の白、そうして何もかもが静かに、静かに、終わってゆく美しさが綺麗です」
でも、国王様が崩御されて。
新たな若い国王様は、戦争で潤った。
武器商人が城門を叩き、穀物商人が倉庫を満たし、傭兵斡旋業者が謁見の間に列をなした。
戦争とは、つまるところ金になる。国王様はそれを学んだのだ、実に熱心に。
そうして前線には、補給の見通しも退路の算段もない命令書だけが届くようになった。
地図の上では美しい作戦も、現地では泥と飢えと屍の山だった。
リアンが縫い合わせた傷の数が、月を追うごとに増えていったのはその頃からだ。
「冬は…」
息が詰まり、肉が引き裂かれるような感覚に陥り、足までもが震えた。
走って、走って、転んで、また走って。
気がついたら騎士さまと並んで瘴気の森に踏み込んでいた。二人とも、もうとうに助からない傷を抱えていた。
ボタッボタ、と騎士さまの命が血とともに流れ出てしまう。騎士さまの青い双眸から光が消えていく。
「…ぁ」
ああ、朝日が昇る。
冬の言葉は最後まで出てこなかった。
黄金の光が枯れ木の隙間から差し込む中、騎士さまの腕に抱かれたまま、リアンは崖を踏み越えたのだった。
* * *
という前世が私にはある。
最初は疑問にすらならなかった。前世の記憶など、夢と大差ない。毎朝目が覚めるたびに薄れていく類のものだと思っていた。
だが十二歳の時、図書室でたまたま手に取った歴史書に、見覚えのある地名を見つけた。
ページを繰る手が、止まった。
数百年前に滅びた小国。わずか三行の記述。
それだけだった。遠征兵団の名前も、戦争の詳細も、もちろんリアンという名前も、どこにもなかった。
そういう人生だったのだと、アンジェは静かに納得した。
記録にも残らない、名前もない、ただ消えていった命。
──前世も、今世も、どうやら似たようなものらしい。
アンジェが一歳になる誕生日の前日、母が死んだのだ。
父の嘆きようはそれは酷いもので、幼馴染と再婚するのは当然の流れだったらしい。
アンジェが物心ついた頃には、継母が屋敷を取り仕切っていた。
まあ、よくある話だ。
躾と称した折檻、食事抜き、使用人の解雇。父が事故で逝ってからは、それが日常になった。
令嬢のくせに井戸水を汲み、床を磨き、洗濯をする。継母の連れ子であるリゼル姉さまは、そんなアンジェを見て育ったせいか、母親に倣うようにアンジェのことを踏みつける。
踏みつけられ続けたら、いつかは慣れる。
それがドアマットというものだ。
そのリゼル姉さまが、アンジェの婚約者であるクロード公爵子息と茶会に出席しているという話を聞いたのは、三日前のことだった。
驚きがなかったといえば嘘になる。でも泣く気にもなれなかった。
シーツを抱えたまま、ぼんやりと窓の外を見た。
継母に告げ口する気もなかった。
どうせ継母はリゼル姉さまの味方だ。アンジェが婚約者を奪われて困るよりも、リゼル姉さまが公爵家に嫁げる方が都合がいいに決まっている。
「アンジェ、ぼさっとしてないで。お客様がいらしているのよ」
廊下の向こうから継母の声が飛んでくる。アンジェはシーツを置いて、黙って動いた。
令嬢らしく、おとなしく、波風を立てず。
それがアンジェのやり方だった。前世からずっと、そうやって生き延びてきた。
ただ。
(騎士さまは…どうしているんだろう)
お茶を注ぎながら、ふとそんなことを思った。
春の光が、庭に満ちていた。
* * *
白薔薇が咲き乱れる中庭には柔らかな風が吹き抜け、磨き上げられた銀器の上には果実茶の湯気が立ちのぼる。
その湯気の向こう側、まるで絵画の中から抜け出したような可憐な姿で貴婦人たちが椅子に腰を下ろしている。
平民上がりのリアンには、あれが夢だった。
貴族に憧れるまで、さほど時間はかからなかった。遠征兵団の外様者が見上げる空の色は、いつも決まってこんなふうに、眩しくて遠かった。
今世では令嬢として生まれた。
なのにお茶を注いでいる。
銀器を磨くのはアンジェの仕事だ。庭の薔薇を手入れするのもアンジェの仕事だ。
そうして磨き上げた銀器でお茶を飲み、手入れした薔薇を愛でるのは、継母とリゼル姉さまだ。
「アンジェ、お代わりを」
リゼル姉さまが言った。
クロード公爵子息の隣で、今日もやけに晴れやかな顔をしていた。婚約破棄の話は、もう屋敷中に知れ渡っている。
姉に婚約者を寝取られたのだから、アンジェとてとやかく言えない。
継母の賓客たちがちらりとアンジェを見た。哀れむような、それでいてどこか面白がるような目だった。
アンジェは微笑んで、お茶を注いだ。
銀器の上に湯気が立ちのぼる。
薔薇が風に揺れる。
絵画のように美しい午後だった。
(前世でも今世でも、私は注ぐ側らしい)
ふと、そんなことを思った。
おかしくて、少しだけ笑いたくなった。
嫁ぎ先がなくなった私は、とある辺境伯の屋敷に向かった。
継母の差配だ。厄介払いにしては手際がよかった。婚約破棄から一週間も経たないうちに話がまとまったのだから、おそらく最初からそのつもりだったのだろう。
辺境伯家への奉公、という名目だったが、要するに使用人だ。令嬢から使用人へ。まあ、今さら大差ない。
屋敷に着いたのは夕暮れどきだった。
出迎えたのは老齢の執事と、数名の使用人たち。辺境伯本人は不在で、近々戻るという話だった。部屋に案内されて、荷をほどいて、夕食を済ませた。
案内された屋根裏部屋はすっかり夕闇に呑み込まれている。
領地経営の才があるとあれ程呟いていたのに、使えないとなれば義娘とて売り払うのだ。
呆れて、反吐すらでなかった。
翌朝。アンジェは言いつけられた仕事を片付けながら、中庭に面した廊下を歩いていた。
朝の光が石畳に落ちている。どこかで鳥が鳴いていた。
角を曲がった瞬間、人とぶつかりそうになった。
「失礼——」
咄嗟に顔を上げた。
背が高い。肩幅が広い。軍人のように真っ直ぐ立っている。旅塵の残る外套。そして——青い目だった。
アンジェの足が、止まった。
心臓が、ひどく静かに、一度だけ大きく跳ねた。
男はアンジェを見て、わずかに眉を寄せた。
何かを探るような、それでいてどこか困惑したような顔だった。
「……あなたは」
低い声だった。アンジェは息を呑んだ。喉の奥に何かが詰まって、言葉が出てこなかった。
騎士さまは、こんな泥水と血にまみれて死ぬような方ではないのに——かつてそう思いながら言葉の雨を降らせた、あの夜の記憶が、一瞬で全身に満ちた。
庭に朝の光が満ちている。
鳥がまた、どこかで鳴いた。
男はまだアンジェを見ていた。その青い目に、どこか見覚えのある色をたたえながら。
「——どこかで、会いましたか」
アンジェはゆっくりと、息を吐いた。
十七年待った。前世から数えれば、もっとずっと長い。
「……さあ」
微笑んだ。十七年かけて磨き上げた、完璧な笑顔ではなく——もっと、ずっと小さな、本物の笑顔で。
「でも、貴方のことは知っています」
「…もしや」
一拍おいて、エイミーは瞠目した顔を引っ叩いた。
「リアン…リアンかッ?」
「ええ、そうよ」
アンジェはにこりと笑った。
エイミーの目が、見る見るうちに赤くなった。大の男が、旅塵の残る外套のまま、廊下の真ん中で泣きそうな顔をしている。
おかしかった。あの戦場で一度も泣かなかった人が。
「ずっと、探していた。名前しか知らなかった。それだけで、ずっと」
アンジェは目の奥が熱くなるのを感じた。
十七年分と、前世の分と、どちらの涙なのか、もう分からなかった。
「冬は」
気がついたら、声が出ていた。
「冬は静かで、綺麗なんです。霜が下りた朝は世界がしんと澄んで、息が白く立ちのぼって——それだけで、何もかもが清らかに見えるんです」
エイミーが、息を呑んだ。
「春は」
低い声で、エイミーが続けた。不器用な、でも確かな声で。
「春は霞、朧な月。雪解けの水が野を流れて——お前が駆け回っていた、あの菜の花畑みたいな色をした季節だ」
アンジェは笑った。声に出して、笑った。
「夏は」と言いかけて、また笑った。エイミーも笑った。使用人が遠くで足を止めて、首を傾げながら去っていくのが見えた。それでもまだ笑っていた。
庭に風が吹いた。白薔薇が揺れて、花びらがひとつ、石畳に落ちた。
口づけは短かった。
花びらがもう一枚、風に運ばれていった。
中庭には、おかしいくらい穏やかな空気が漂っていた。
* * *
その頃、ウォード家では。
リゼル姉さまとクロード公爵子息の婚約が、正式に発表された。屋敷中が祝いの空気に包まれた。継母は得意の絶頂だった。
だが、長くは続かなかった。
クロード公爵子息の放蕩が、方々で噂になりはじめたのは、それから間もなくのことだ。賭博の借金、複数の女、隠していた負債。
公爵家の名声は足元から静かに崩れていった。リゼル姉さまが嫁ぐ前に、婚約は白紙に戻った。
継母は方々に手を回したが、一度傾いた話は戻らなかった。
アンジェは、その話を人伝に聞いた。
(まあ、そういうこともある)
いつもと同じように、そう思った。
隣でエイミーが「何がおかしい」と言った。
アンジェは首を振って、また笑った。
二人が式を挙げたのは、翌春のことだった。
雪解けの水が野を流れ、木の芽が吹いて花が咲き、北に帰る鳥が鳥雲に入って渡ってゆく季節。
白薔薇が咲き乱れる中庭に柔らかな風が吹き抜けて、花びらがひとつ、またひとつと石畳に落ちていった。
エイミーの青い双眸に、光が満ちていた。
あの夜に消えていった光が、ここにあった。




