皇帝陛下、あなたのために尽くしたわけではありません
側から見たらこれは愛に溢れた自己犠牲、献身のようにみえるだろう。
けれどもそれは自分のためでしかない。私を褒め称える人間はいつも同じ言葉を使う。だから私はその度、あまりにも表層しか見ていないその評価に笑ってしまう。
私は広大な領地を所有する大国ランカスターの皇后、アリエノール・ランカスター。まだ年若い皇帝フレデリックが少年だった頃から妻として陰日向なく支えてきた賢妻……などではない。
先帝がお隠れになられたおよそ10年前、フレデリックはまだ10にもならない幼さだった。皇位継承にあたって伴侶が必要になったが、彼と同年代の令嬢では諸外国への圧力に欠ける。
あくまでも皇帝が一人前になるまでの繋ぎの妃として用意されたのが私だった。彼が成人したらお役御免の存在を皆が嫌がるものだから、下級貴族の娘である私にそのお鉢が回ってきたのだ。
私だって断ることができたが、それでも引き受けた。
帝国の未来を思って?幼い皇帝への憐れみのため?違う。人に尽くし、人を慈しむような振る舞いをするとき、私はいつも自分が正しい場所に立っていると感じられたからだ。
私は正しさに基づいて行動する。それだけだ。
それだけに過ぎないのに周囲は私を理想の妃として評価する。息苦しいことこの上ないが、ただ日々の業務をこなしていくしかない。
今日も書類の束と向き合う。一般的な妃であればただ判を押すだけで良いが、長年幼い皇帝の業務を肩代わりしてきたためにそれぞれの裁量を任されることもある。
書類を見比べて前回の報告と大きな誤差がないか確認する。誤差がなければ万々歳、ただ承認印を押して次の担当者へ流せばよい。減っている場合は対策を講じなければならない。
今日も淡々と業務をこなす。そこに愛国精神は特にない。ただ役割だから行っているだけだ。
と、ふと皇帝の承認印が必要な書類に気がついた。ついでに他のことも話しておきたかったので皇帝の執務室へ向かい、判を貰いに行く。
「承認印、ありがとうございます。
ところで直轄領のことですが、これから嵐の季節に対して、河川の氾濫対策が不十分なように思えます。何か対策を講じるべきかと」
正面に座る皇帝が目を伏せる。
「君はどうしたら良いと思う」
まただ。また、委ねられた。
指摘するほどの頻度でもないが、彼はこうして小さな判断を私に委ねることがある。
自分で考えろと跳ね除けるべきか少し迷って、答える。
「はね橋の開閉の頻度を下げるように指示すべきかと存じます」
「流石だねアリエノール、良い提案だと思うよ。ありがとう」
目尻を垂れさせて無防備に微笑む。
私は仮の妃でしかないというのに、彼は時折私に甘えるようなことがある。それを拒否すべきかどうか、私には分からなかった。
自分の執務室に戻ると、訪問者がいた。大した要件がないなら追い返したいところではあったが、そう強気に出られる立場の相手でもないので迎え入れる。
「いやあしかし、皇后陛下のご活躍は目覚ましいですなあ。献身的な姿には頭が下がる思いです。
巷では皇帝フレデリックを太陽として皇后アリエノールは月に例えられるとか!」
日が登れば月は沈むでしょうに。くだらないおべっかを使いにきただけのようだった。
穏やかに微笑みを浮かべて躱し、帰路についていただく。本当に要件はないようで、揉み手をして去っていくだけだった。
元のように業務を淡々とこなしながら考える。
人々は随分私を人格者のように崇めるのが好きらしい。仮の妃にそうしたって得はないだろうに。
私は与えられた役割をこなしているにすぎない。それが側から見れば献身のように映るのだろう。
10年前、帝位に着いた時、フレデリックは未熟だった。繋ぎの妃として教育係も兼ねていた私は、執務室で朝は共に書類を捌き、夜は私なりに貴族社会で生き残る術を教えた。
ある時、フレデリックは私に言った。
「アリエノールは私の先生だな。なんでも教えてくれる」
過ぎた言葉だと謙遜したが、彼はそれでもきらきるとした憧れの眼差しを向けてきた。
私もまた、その時は今よりも未熟だったが、その言葉を思い返すと彼に情けない姿を見せてはいけないと思うようになった。
執務室の明かりは、まだ幼く丸さの残る彼の頬を柔らかく照らした。その様子を眺めながら、私は彼にこんこんと言い聞かせた。
感情を露わにしてはいけません、言葉の裏を読む癖をつけるように、揚げ足を取られないように下手な明言は避けること、などなど。
彼はそれをうんうんと聞き、時にメモをとったり私に質問したりした。その時間は穏やかなものだった。
闇がすっかり深くなった頃、私たちは切りの良いところで今日の分の指導を終わらせた。別れる時になっても、彼は立ち上がらず、何か言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「アリエノールは私を褒めることも、慰めることもしないな」
転げ落ちた言葉は、私の返事を求めるというよりも、自分の中にあるものを言葉に落とし込もうとしているようだった。
それからまた何か物思いに耽る様子を見せた。かと思えば、隣に座る私の手を取り、祈るように額に当てた。突然の行動に驚いたが、私は黙ってされるがままにしていた。表情はお互いの手に隠されてよく見えなかった。
しばらくそうしていたが、何か整理がついたのか、フレデリックは手を離してありがとう、と絞り出すように言ってから去って行った。
あの夜から、陛下は私の顔を伺うことが増えたように思う。何か答えを待つような、そんな表情で。
私はそれを奇妙に思ったが、指摘することはなかった。彼の政務がつつがなく回っていればよいのだ。それが教育係としての役目なのだから。
そんな過去を経て現在、今日も私は公務を果たしている。馬車に揺られて城から国営の孤児院まで。貴族でなければさっと歩いていくような距離を行く。
努めて音を立てないように止まった馬車から御者の支えを借りながら降りる。それを待っていたようなタイミングで、建物から子供達が飛び出してくる。
「アリエノール様だ!やったー!」
「今日はどんなお菓子を持ってきてくれたの?」
「見て見て、僕、計算もできるようになったんだよ」
足元にまとわりつく子供達一人一人に屈んで目を合わせて返事をする。子供らしい前後の脈絡が飛ぶ話に耳を傾け、成果を嬉しげに報告するのを褒める。
全て年相応のものだ。発達に問題がないとも言えるし、飛び抜けた才を持つものがいないとも言える。
とは言え発育に問題はないように見られる。着ているものは綺麗だし、身だしなみも整っている。きちんと面倒を見てもらっているのだろう。
国営の孤児院は、国が荒れていると横領や人身売買が横行しがちだ。それがないほどに現在の我が国は平和ということだが、目を光らせておいて不足はない。
ふと一人の子供が泥団子を持って駆け寄ってくる。護衛が捕えようとするのを控えさせ、自由にさせるとそのまま私に抱きついてきた。泥だらけの手が私のドレスに触れる。
「泥遊びしよう!楽しいよ」
と屈託のない笑みを浮かべる子に付いていくと、泥水で溢れた砂場に連れて行かれた。誘われるがまま入る。職員が
「アリエノール様、それは流石に…….」
と止めようとするが、目で制する。
砂場に足を踏み入れて、子供の言うがまま泥団子を成形していく。ずるい、と言いながら他の子供達に囲まれて、彼らの傑作の泥団子を見せられる。
ある一人の子供が、恐る恐る言う。
「アリエノール様の服、泥だらけになっちゃった。アリエノール様は怒られない?」
周りの子供達もあっと気づいたように言う。
「アリエノール様が怒られちゃう!」
「どうしよう…….」
不安がざわめきとなって空間に広がる。私はそれを宥めるように言った。
「大丈夫よ。私は怒られないわ。誰も私に怒ることなんてできないもの!」
と言うと、安心したような空気が広がった。
本当にそうだろうか。胸の中で誰かが小さく囁いたが、私はそれを押し込めた。
私が妃という役割の中にいる限り、誰も私に怒らない。それは確かなことだ。だけれどもどこか、それは寂しい響きのように感じた。
護衛や職員は泥だらけになるのを構わず子供の相手をする私に感動しているようだが、これほど楽な対応もない。言葉の裏を読む必要もなく、気を張る必要もない。正解が分かりきった問答。
子供達が嬉しげに言い募る中から、情報を読み取る。
前回来た時から様子は変わらない。子供達は護衛たちに怯える様子もないし、職員たちも十分な休息が取れているようだ。子供達も予算の中で出来る限りの支援を受けている。
改善の必要はない。
そう自分の中で結論づけて、今回の視察を終える。子供達は名残惜しそうな様子だったが、またすぐに会えると言うと、大盛り上がりしていた。
馬車の中で、爪に挟まった泥を取りながら議会での振る舞いを考える。
貴族院は主に若手貴族の急進派と、既得権益を守りたい保守派で対立している。現在は皇帝も成長して発言力を得てきたとはいえ、老獪な貴族たちにはもう一押しできないところがある。私がそれを支えなくてはならない。
皇帝の号令により議会が始まった。議題は関所の撤廃について。保守派は既得権益を守ろうと法案を通そうとしないが、急進派はそれに対抗、という構図だった。
その場には重苦しい雰囲気が漂い、牽制し合うような目線が飛び交う。下手なことを言って言葉尻を捕らえられては敵わないと、皆動こうとしないのだ。
隣に座るフレデリックに目を向ける。彼もまた、この議題について下手に偏った発言をしないように沈黙を守っている。
勇ましく口火を切ったのは急進派の若手貴族だった。
「関所は撤廃すべきです。
物流がスムーズになることでより地方が活性化される。
現行のシステムはあまりにも手間ばかりがかかって建設的とは言えない!」
そう語る彼に冷ややかな目が向けられる。
「理想的なことばかりをぺらぺらと」
「机上の空論に過ぎない」
冷や水を浴びせる言葉に彼は俯く。さらに追い討ちをかけるように保守派の貴族が言葉を重ねる。
「しかし実際のところ、関所は治安維持にもつながっている。
関所をなくすことによって盗賊が横行するようになったらどうする?」
ふん、と鼻を鳴らしてもっともらしいことを言っているが彼らが守りたいのは治安ではない。通行税だ。
関所の置いているだけで通行税は勝手に入ってくる。そんな既得権益を彼らが逃したいわけがない。
そんな思惑があるとは言え、言っていることは正しいのだ。だから皇帝も困るのだ。
どちらの主張も放たれたことで視線は皇帝の方に集まる。フレデリックは表情を変えない。
しかし、隣にいる私にはわかる。彼は困っている。打てる手がないのだ。
ここは私が、嫌われ役を引き受けるしかない。すっと息を吸い、落ち着いた声音で発言する。
「私も、今回の法案は通すべきだと思います。
関所の産む国益よりも、撤廃による地方活性という利益の方が大きい。
加えて、治安悪化というのも数字を見ればあくまでも誇張に過ぎないことがわかります」
保守派の貴族からじろりと睨まれる。それを無視して皇帝に決議を迫る。
「どう思われますか?」
「アリエノールの言う通りだ。関所は撤廃する方向性で行くべきだ」
皇帝と目を合わせにこりと微笑む。しかし周囲からは潜めた声で嫌味が飛んでくる。
「皇帝を操りおって……」
「邪魔ばかりする、目障りな女だ」
フレデリックはありがとう、と小さく囁いてくる。
感謝する必要はない。ただ、誰かが引き受けなければいけないことをしているだけだ。
議会を終えて城内を歩いていると、私をじろじろと見る目があることないこと振り撒いているのが聞こえてくる。
「冷酷な王妃が陛下のお気に入りだからと好き勝手振る舞っている」
「政治家ぶって偉そうに弁舌を振るっているが実際のところはただ私服を肥やしたいだけ」
好きに言えば良い。こういった陰口は大抵何にもならない。無視しておけば勝手に萎んでいくのだ。
そう思いながら歩いていると、針の筵だったところに声をかけてくる者がいた。先ほどの議会で発言していた若手の貴族だ。
「アリエノール様、ありがとうございます。
先ほどの議会では私は保守派にやり込められてしまって……アリエノール様に救っていただいたお陰で法案も可決になりました」
にこやかに感謝を繰り返す目の前の男に、儀礼的な答えを返す。
別に私は彼のために発言したわけではない。硬直した場の雰囲気を動かすために発言したのだ。
それに彼もやがて気づくだろう。私は彼ら急進派の味方ではない。ただその時々に応じてより良い政策を支持するだけだ。
それはどちらの派閥からも特別に好かれることはなく、距離を置かれる立場になるということだ。
嬉しげに声をかけてくる彼も、やがて形式的な挨拶すらしなくなるだろう。多くの人がそうしたように。
次に声をかけてきたのは、保守派の代表格の者だった。慇懃無礼な挨拶をした彼は、爬虫類のようなじとっとした目で私を見ながら言う。
「今日も流石の大立ち回りでしたなあ、アリエノール様。
いやはや、随分と陛下から気に入られているようだ!しかし花というのは一番綺麗に咲いた後は枯れてゆくだけ……最近は新しい花の噂も絶えませんしな、そのことはお忘れなきように」
フレデリックからの寵愛もそう長くは続かない、お前は繋ぎの妃でしかないのだからと言いたいのだろう。
貴族というのはやけに回りくどい言い回しを好む。ぺらぺらと語っていったが、結局私が気に食わないということだろう。
別に構わない。私はそういう役割なのだから、それを果たす。それだけだ。
繋ぎの妃になったばかりの頃ならこういった悪意に一々構っては落ち込んでいただろう。しかしこれは私の仕事によるものだ。
私が私の役割を果たす。それに対する評価であって私自身の否定ではない。そう気づいた時から特別何か思うようにならなくなった。
役割の外のことは、気にしなければ良いのだ。私は役割を果たせば良い。そうしたら正しくいられるのだから。
執務室に戻ると、今度はフレデリックが訪ねてきた。
「先立っての議会では、私が発言できない代わりを担ってくれてありがとう。君を守ることができなかった……」
そう恥じるように顔を伏せるフレデリックに、私は大丈夫ですから、と声をかける。
「もうこのようなことが起きないようにする。起きたとしても、その時は私が憎まれ役を引き受けるよ。
アリエノール、本当にありがとう。私はいつもあなたに支えられてばかりだ」
微笑むフレデリックに、私は目を合わせて頷くことしかできなかった。
妃候補とされていた令嬢の成人の儀が近い。宮廷内もどこかざわついている。
最近侍女からは、どこか様子を伺うような目を向けられる。仮初の妃でしかない私が今後の身の振り方をどうするか。それは日々噂に飢えている宮廷内で、最高の噂話のネタというわけだ。
褒賞を貰って優雅な暮らしをする予定だとか、地元に帰るだとか、意外と山に籠る予定だとか好き勝手に言われている。どうやら巷では賭けも始まっているとか。侍女たちの噂話で聞いた。
妃として長年勤め上げたのだからどこかの貴族に取り入って政局にしがみつくだろうと噂する人もいるそうだ。
中々捻くれたものの見方をする人もいるものだな、と思っていたがどうやらこの考えを持つ勢力は意外と多いようだ。
というのも、かつての政局を忘れられないのだろう。皇帝の補佐を謳って私が主に発言していた、あの頃のことを。だからいまだにこんな噂が流れるのだ。
幼かった皇帝はまだ発言力を持たなかった。 その代わりに私が議会で発言するのは当然のことだろう。 幼い皇帝が非情な判断を下せないとき、誰かが嫌われ役を引き受けなければいけない。
それが私になるのもまた、自然な流れだった。
私はあくまでも国家が安定した運営をするための歯車にすぎないのだろう。
幼かった皇帝は成長して発言権を得た。
厄介な老人たちの頭を押さえつけることもできるようになり、ときには行きすぎた革新的な意見を穏やかに跳ね除けることができるようになった。
もう、私という歯車は必要がなくなった。
先日の議会のような衝突もまた起こるだろうが、その時は私は必要ないだろう。
その実情に反して、貴族たちの印象は、まだかつての幼い皇帝とその隣で采配を振るう厄介な妃の印象しかないのだろう。
先日廊下を歩いていた際、聞いてしまったのだ。
「あの年増女もついにお役御免か!せいせいするな」
「何かと口うるさくて面倒だからな、これで私たちの派閥も動きやすくなるだろう」
その言葉に突っかかるでもなく、私はただ黙って聞いていた。
なるほど、こうして貴族たちのこぼす愚痴を聞いてみれば、私が憎まれ役を引き受けた成果もあるというものだ。 私は誰からも好かれる妃であってはならなかった。
けれどもそれは、どこか私を安心させてくれた。 そのようにしているとき、私自身の正しさを疑わずにいられたから。
とはいえ、私の存在もそろそろ必要なくなってきた。 私が排除されるのは自然なことだろう。
それに逆らう必要もないし、特別な感慨もない。 妃としての私は、ここで終わるのだ。
これからは新しい妃を迎えて、穏やかな国政を運営していくのを私は眺めていれば良い。 ただ時が満ちただけのことだ。
そんな折、どこか緊張した様子の陛下が声をかけてきた。
「その、時間に余裕ができたから、お茶でも飲まないか」
いけませんよ陛下、そんなにわかりやすく声を固くして緊張したそぶりを見せれば、海千山千の化け物たちにいいようにされてしまいます。
普段ならそう注意するところだが、彼から発されるただならぬ空気に、思わずはい、と答えることしかできなかった。
侍女にお茶を入れさせ、人払いを命じる。侍女たちはどこか物言いたげな顔をしながらも下がる。
紅茶から立ち上る湯気がどこか嘘のように見えた。匂いも何もかも、全てが幻のように詮ないことだと感じた。
「それで、その……。最近はどうだ」
不自然に目を伏せながら聞いてくる陛下にもどかしい気持ちになりながら答える。
「そうですね、貴族院の方々も賑やかな様子ではありますが、落ち着いていますよ。陛下が特別心を配られる必要はありません」
「ならよかった、あー、それでなぜ声をかけたのかというとな……。
セシリア嬢は知っているか?成人の儀が近いという」
あまりに婉曲的すぎる質問に、思わずいつもの調子で注意してしまいそうになる。ぐっとこらえて、小さく頷く。
「存じ上げております。その方がどうかされましたか?」
私から話を広げて欲しそうにこちらを見る視線をあえて無視するようにティーカップに口をつける。それではいけませんよ陛下、いつまでも私がいるわけではないのですから。
「……彼女は、私の妃候補として話が上がっている。それにあたって、現在の妃である君と離縁するように言われている」
少し意外だった。そこまで話が進んでいるとは。
私自身、宮廷の誰からも好かれているとは思っていない。貴族院を筆頭に、どうも私を宮廷から追い出したい勢力もいるようだ。それならそれで仕方がない。私が宮廷にしがみつく理由など何一つないのだから。
そこで口ごもってしまった陛下に、視線だけで続きを促す。
「しかしそれでは、君の献身にあまりにも不義理だ。
君は僕の妃として、何も見返りを求めることなく、未熟だった僕を幼い頃から支えてくれた。
そこで、離縁を断り、君が妃としてここに残るようにしたいんだ」
一瞬、理解が遅れた。何を言っているのだ?私はただ役割をこなしていただけだ。誰もなりたがらない期間限定の妃になりフレデリックを支えてきたのはそうすべきだったからだ。ただその積み重ねに過ぎない。
私の混乱を置き去りに、熱っぽく目の前の人は続ける。
「君ほどの女性が身を引く必要などない。……きっと、君が本当の妃になってもみんな認めるだろう。
アリエノール、僕を陰日向なく10年も支えてきた君の献身を愛と呼ばずになんと呼ぶのだろう。正式な式を挙げて妃になってくれないか」
その言葉に全身の毛が逆立つのを感じた。思わず返す。ああ、感情的になって言い返すなど、一番やってはいけないことだと教えてきたはずなのに。
「違います。それは愛なんかじゃない。
私は、ただ役目を果たしただけです」
努めて冷静になるようにする。深呼吸だ。
目の前の陛下にも何度も教えてきた。自分の意に沿わないことを言われても決して感情的になってはいけません、それこそ相手の思う壺です、と。だから私も、教えてきた私こそがその通りにしなければならない。落ち着かなければ。
陛下の表情がさらに強張る。かと思えば、幼い頃のように表情が泣きそうに緩んでいく。眉が下がり、力の入っていた口角が緩む。
陛下が幼い頃には何度も見てきたが、久しく見てこなかった顔だ。だからそんなに簡単に顔に出してはいけません、と頭の中に浮かぶお説教とは裏腹に、口から飛び出るのは目の前の彼にとっては残酷なことばかりだった。
「私は陛下が即位されてから養育の任を賜り、こなして参りました。
それ以上の意味は、ありません」
陛下の顔が今にも泣き出しそうに歪む。私はそれを、黙って見つめることしかできない。
「私は…….」
それだけ呟いて、陛下は俯く。目の表面に貼っていた膜は、済んでのところで弾けるのを耐えた。
しばらく沈黙が続いた。時計の音だけがその場に響いて、沈黙が続かないようにしていた。紅茶はもう湯気など出さなくなっていて、けれども手をつける気分にもなれなかった。
私は何も言うことができなかったし、陛下も何度か口を開こうとしては言葉をうまく見つけられず黙り込んでばかりだった。
すっかり冷めた紅茶を前に、永遠とも思える時間を待つ。不思議と心臓の音は平坦だった。
紅茶のカップの縁をじっと眺める。動いているはずなどないのに、この場の空気の重さに少し震えているようにも感じられた。
やがて陛下が顔を上げて、私の目を見て言う。
「私はそれでも、愛だと思うよ。
君がくれた言葉はどれも温かく、私のことを思ってのものだった。君がそれを否定したとしても」
私はいまいち、それが理解できなかった。全て職務だから、正しいと思えるからしていたことだった。
しかし陛下は、陛下なりの落とし所を見つけたのだろう。それに水を差す必要もない。
黙って頷く。それに対して陛下も、私の目を見ながら微笑む。
お互いに何も挨拶することなく、自然とその場を離れた。
それから私は、宮廷を辞する準備を始めた。
周辺諸国への通達や新しい妃を迎えるための儀式の準備、それらを実行する侍女たちへの指示。
眩暈がするほど多いそれらは、意外なほどあっさりと片付いた。フレデリックが手伝ってくれたからだ。
私が主にすることになったのは、部屋の片付け。しかし私の部屋に私物と呼べる物は乏しかった。政務に追われて趣味などなかったからだ。
私はいつも役割をこなすことしかしなかった。豪華なドレスや調度品も、全てそのためのものでしかない。私物ではないのだ。
呆気ないくらいに早く片付いた部屋を眺める。特別な感慨はない。この部屋もやがて新しい妃を迎えて、主人の好みに沿ったように作り変えられるのだろう。
私が宮廷を去る日、皇帝との茶会が設けられた。その場で彼はこう言った。
「君は僕を救ってくれた。
この十年は君がいなければ間違いなく乗り越えられなかった。それは疑いようのない真実なんだ。
それを愛として受け取るよ」
皇帝は微笑んだ。その目は先日よりもしっかりしていた。一人で国を背負う覚悟を決めたのだろう。
黙って頷くのがきっと、良いのだろう。それでも私は、彼にこう返す。
「いいえ。私はただ、役割を果たしただけです。
あなたが見たいように私を見た。偶々求めていたものに私が似ていただけで、私はそうではないんです」
フレデリックは黙って、表情を変えないままだった。
それが何を意味するのか、私にはわからなかった。けれどもわかる必要はない。私と彼の人生は、もう交わらないのだから。
生家へ向かう馬車に一人で乗る。
護衛も誰もいない。重たくて高級そうなドレスではなくて、軽い生地のワンピースで。
がたんがたん、と小さな音を立てながら馬車は進む。
王城が遠く離れていく。寂しいとは感じなかった。ただ、もう私の役割は終わったのだなと感じた。
本当に、これで良かったのだろうか。私には他にも取れる選択肢が多くあった。宮廷に残る、議会に残って政局の中心に立つ、どこかの貴族に嫁ぐ。それらを全て無視して、私は今生家へ戻ろうとしている。
この選択が合っていたのか間違っていたのかわからない。全て、考えても意味のないことだ。
私は最後まで役割を果たして、正しくいられた。それで十分、全てが満たされた気がした。
馬車の窓を開けて、風を感じる。孤児院が随分遠くに見えた。




