1話 親子
練馬のアパートで平穏な時間が過ぎる。
老人夫婦が経営するアパート。
1年分の現金を出したら、保証人とかもつけずに、すぐに借りることができた。
昔、男子学生の騒音に苦労したようで、おとなしそうな女性が借りることを喜んでいた。
条件は、男性を連れ込んだりしないことだと言われる。
老人夫婦は、子供ができ、夜泣きとかされるのは困るとぼやいていた。
目の前に石神井川が流れ、すぐそばに運動場があるアパートの2階の部屋。
女性だから、洗濯物とか盗まれると困るだろうと2階にしてくれたみたい。
川沿いにはいろいろな花や木々が植えられていて、四季を楽しめると言っている。
私の部屋から川が見え、休日になると家族連れの子供の声とかで目が覚める。
家の裏側には、木々は少なめで、子供の遊具があるぐらいの公園がある。
都会に比べて時間がゆっくり過ぎていく雰囲気は気に入った。
ある週末、近くにある公園では桜が咲き誇っていた。
私は、公園でベンチに座り、満開な桜を見上げる。
今年も、穏やかな春を迎えられたと。
こんな穏やかな気持ちでいられるのは、犯罪から当面は遠ざかろうと決めたから。
これまで、いつも、何かに急かされ、針のむしろの上で緊張感の中で暮らしてきた。
将来、また犯罪に関わることがあるにせよ、今は、この穏やかな時間を楽しもう。
しかも、女性の体になれたのだから、女性として穏やかに過ごすのことは悪くない。
そんな、のどやかな気持ちでいると、いきなり、可愛らしい女の子が目に入ってくる。
お父さんとシャボン玉を飛ばして大笑いしている姿が微笑ましい。
「お父さん、こっち、こっち。シャボン玉が飛んでいっちゃうよ。」
「美海、あまり走るなよ。公園からでると危ないから。」
お父さんと娘さんが、大笑いしながら遊んでる。
お父さんはまだ若そうで、娘さんを愛おしいという目で暖かく見守ってる。
こんな親子もいいわね。私も娘がいたら、幸せだったのかしら。
私にも過去に子供はいたけど、死なせてしまった。
生きていたら、このぐらいの年だと思う。ちょうど女の子で同じ。
そんな我が子と重なる娘さんを見ると、目頭が熱くなる。
シャボン玉は、紫や緑や橙色とか複雑な模様で、陽の光をあびて光り輝く。
お父さんの口元から飛ばされた大小のシャボン玉は、そよ風で流れていく。
それを追いかけて娘さんが大笑いして捕まえようと走っていた。
娘さんは純粋で汚れもなく、かわいい。
ただ、目の前のシャボン玉だけを見つめ、今を楽しんでいる。
私は、ずっと、この娘さんを眺めていた。
そして、お腹も空いたので持ってきたアップルパイを食べることにした。
すると、その娘さんがはずむように近寄ってきて、話しかけてくる。
「おねえさん、そのアップルパイ、とても美味しそう。どこで買ったの?」
「お姉さんが自分で作ったのよ。多めに持ってきたから食べてみる?」
「え、本当! 食べたい。」
「美海、知らない人にねだっちゃだめだろう。」
「いえ、いいですよ。お父さんも、いかがですか?」
「いいんですか?」
女の子も、無精髭のお父さんも、私のアップルパイを笑顔で食べてくれる。
ベンチに女の子を囲んで3人で座っていたから、夫婦と子供に見えたかもしれない。
こんなに子供好きのお父さんと一緒だったらと、少し想像していた。
でも、彼女がいる男性を奪うのは、もう懲りた。
整形し、殺して奪ったけど、なんだか今はむなしい。
そこまでした隆一には、もうなんの愛情もないから。
今は、その犯罪やその後の殺人で警察から追われている。
私には、男性に夢を見ることは神様から許されていないのかもしれない。
本来の性を捨てて異性になった天罰として。
そう思って、最近は、男性とは距離を置いてきた。
でも、不思議とお父さんと一緒にいるのは嫌じゃなかった。
普通だったら、知らない男性が近づいてくると警戒心がわくのに。
娘さんがいたからかもしれない。
アップルパイを食べながら、しばらく雑談をしていた。
「お母さんは、今日は来ていないんですか?」
「いえ、この子には親は私だけなんです。」
「変なこと聞いちゃって、すみません。」
「いえ、いいんですよ。」
このお父さんは、無精髭は生えているけど、肌はとてもきれい。
きれいというより、きめ細やかで、柔らかそうに見える。
シミやシワもなく、紫外線対策とかしっかりしているのかもしれない。
そして、声は男性らしい低音というよりは、少しキーが高い感じがした。
まだ若いのだと思う。
その後、私がシャボン玉をふき、娘さんとしばらく遊んだ。
どうしてか、お父さんとは自然な自分でいられた。
でも、警察が密かに近づいている可能性もあるので、心は完全には許せない。
その日は、それで別れる。
でも、しばらくして、そのお父さんと再会をする。
スーパーで買い物をしていると、あのお父さんから声をかけられた。
「あれ、また会っちゃいましたね。この辺に住んでるんですか?」
「ええ、本当に偶然ね。今日は、お嬢様は一緒じゃないんですか?」
「家で、帰りを待っています。どうですか、娘も一緒に夕飯を私の家で食べませんか?」
お父さんは、女性を誘う魂胆があるなんて全く感じず、ごく自然に私を誘う。
私も、どこにも警戒しない自分がいるのに改めて驚いていた。
でも、そんなに軽い女性だと思われるのもよくない。
男性と近くなっても不幸になるだけだし。
「え、この前、会ったばかりなのに、お宅までお伺いしたらお邪魔でしょう。」
「そんなことありませんよ。娘も喜びます。この前、一緒に遊んでくれたお姉さんと、また会いたいと言っていたので。」
「そうなんですか。じゃあ、今回は、お言葉に甘えて行っちゃおうかな。」
「どうぞ。ご遠慮なく。」
なりゆきでご自宅に行くことになってしまった。
そんな自分がいることが不思議。多分、娘さんと会いたいだけだと思う。
スーパーからお父さんの家に向かう道は、夜桜が街頭の光を浴びていた。
春を迎える華やかな気持ちになれる風景。私は夜桜が好き。
あたりは暗くて何もみえず、桜だけがスポットライトを浴びて幻想的な風景。
一瞬の輝きだから美しく思える。
彼とは付き合う気もなかったけど、娘さんとはまた楽しい時間を過ごしたいと思った。
でも不思議。私が、娘さんがいるといっても男性の家に行くなんて。
少しは気持ちの変化もあったのかもしれない。
「伊東さんは、どんな仕事してるんですか?」
「昔はIT企業で働いていたんですが、いろいろあって、今は会社は休んでいるんです。」
「会社で働くって大変ですものね。無理されないでください。」
「釘宮さんは、どんな仕事しているんですか?」
「僕も最近までIT会社で働いていたんです。でも、娘の美海と一緒に暮らす時間がもっと欲しくて、会社辞めたんです。」
「いいお父さんですね。でも、生活費とかはどうされているんですか?」
「今は、自分の部屋で株式投資をしています。もともと、銀行のトレーディングのシステム開発をしていて、大体の勘所があり、すぐに儲けることができるようになりました。」
優秀な男性なのだと思う。
しかも、娘さんのために会社を辞めるなんて、いいお父様。
男性と関係を持つなんて期待していないけど、少し憧れを含めた笑顔で彼を見上げる。
「すごいですね。私なんて、株式なんてやったこともないし。」
「簡単ですよ。バブルは崩壊しましたけど、うまくやれば、質素に暮らすために必要な稼ぎぐらいなら、すぐに得られます。でも、なによりも良かったのは、娘の美海が、一緒にいる時間が増えたことに喜んでくれること。美海の笑顔を見れるなら、それだけで幸せですから。」
「釘宮さん、とっても素晴らしいお父さんなんですね。」
家に入ると、私が来ると聞いていたのか、娘さんが走って、私の足に抱きついてくる。
くすくす笑って、私の手を掴み、部屋に招き入れてくれた。
とても、清潔感があるダイニング。娘さんと一緒に暮らしているからなのかもしれない。
どう育てたら、こんなに純粋な子供が育つのかしら。
私のことを、全く疑うこともなく、ただ、一緒にいることを楽しんでいる。
おそらく、お父様が純粋で、素晴らしい人なんだと思う。
私達は、女の子を囲み3人でテーブルに座った。
お料理はお父さんが作り置きしていたハンバーグをレンチンしたもの。
私も、キャベツを切って、お皿に盛り付けた。
こんな家庭は、恋焦がれるようなことはないけど、穏やかでいいかもしれない。
このお父さんはそんなに嫌じゃない。
でも奥様はどうしたのかしら。
部屋には、奥様との写真とかはなく、仏壇もない。
病気で亡くなったのではなく、別の男性と一緒に出ていったのかもしれない。
そのことには触れられずにいた。
そんなことを考えながら、私はお酒を交わして陽気にいっぱい話していた。
なんとなく、久しぶりに体が疼く。今夜だけ、そんな関係になってもいいとも考えていた。
女の子は寝る時間になり、お風呂に入って、パジャマで寝室に行く時間になった。
「おやすみなさい。」
「おやすみ、おねえさん。また、明日遊んでね。」
「じゃあ、明日の土曜日には、公園でまた会おうね。」
「絶対だよ。じゃあね。」
「おやすみ。」
可愛らしい娘さん。30分ほど経った。娘さんは寝たかしら。
そんな娘さんがいるのに、私はとんでもないことを考えていたと反省する。
もし、奥様が亡くなっていたら、その家で彼と体を重ねるのは失礼だとも思うし。
私はお酒を傾けていたら、結構、酔っ払ってしまった。
自分の体の欲望をお酒でごまかそうと思ったのかもしれない。
それで、話してしまったの。ずっと誰にも秘密にしてきたことを。




