後宮配達人は秘め事を運ぶ
「もう流行っていないのよね、こういうの」
訳知ったような顔で言いながら、目の前の妃は布にくるまれた小箱を卓に投げ置いた。
妃の名は朱玉屏。後宮での位は低い、いわゆる下級妃だ。
だが、なんでも市井で腕を鳴らす豪商の娘であるらしく、身なりは身分不相応に華やかである。ふっくらした唇に真っ赤な紅。扇子を振る手元には金の鈴がぶら下がり、振るたびにしゃらりしゃらりと無駄に鳴る。
市井で散々もてはやされたであろう容姿は決して悪くないものの、粒ぞろいの後宮では下から数えた方が早いというのも納得である。
朱玉屏はふくよかな頬を少ししかめると、扇子を口元に添えて一嵐を見た。
「もっと早くに届けてくれればよかったのに。それが配達人の仕事でしょ」
配達人、という言葉に、一嵐は思わず表情をひきつらせた。
もともと市井の人間だったのが、なんの因果か後宮専属の配達人として登用されて今日で三か月。とっとと逃げ出したいという思いは募るばかりである。
(女っていうのは本当に面倒くさい)
自身も女でありながらそんなことを思うのは、後宮の澱んだ空気を目の当たりにしたからである。
煌びやかな宝飾品、柔らかな微笑。その裏には鋭い棘が隠れている。
一嵐はそうと分からないように溜め息を吐き出すと、布を開いて小箱を差し出した。
「一度ご覧になってはいかがでしょうか」
「必要ないと言っているのに」
朱玉屏は眉根を寄せたが、別に拒否はされていないだろうと判断した一嵐は遠慮なく蓋を取った。
彼女が注文した品、もとい小箱の中身は一対の翡翠の耳飾り。色、艶、ともに一級品。青みがかった緑の石が陽に透け、細工も精緻。造り手の腕もまた一流だ。
「大変すばらしい細工かと」
「ええ、そうね……」
朱玉屏が考え込むように扇子を揺らし始める。
(靡いたか?)
心変わりして受け取ってくれるのではないか、と一嵐は期待を膨らませたが、現実はそう単純ではない。
「……分かったわ」
朱玉屏はにこやかに微笑むと、小箱を手にとって一嵐の手に押し付けてきた。
「私はもういらないから、あなたにあげる。お代も気にしなくていいわ」
まるで夕餉の残りでも渡すような口ぶりだが、中身は超上質の耳飾りである。一嵐は目を白黒させて小箱を突き返した。
「いや、いただけません」
「いいから、いいから」
やたら手首の力が強く、朱玉屏はぐいぐいと押しつけてくる。
結局、押し問答の末に小箱は一嵐の手に収まることとなった。立場上は下女に近い一嵐が、妃である朱玉屏相手に強く出られないことを知っての暴挙である。
(これだから女は……)
一嵐が心の中で嘆いていると、満足げにしていた朱玉屏は思い出したように袖口を探った。
「そうだ、お礼に見せてあげる。いま流行りの香よ」
なんのお礼だよ、と胸の内でぼやく一嵐をよそに、朱玉屏が自慢げに手にしたのは手のひらに収まるほどの小さな陶器。中から甘ったるい香りがふわりと漏れる。
「これを焚けば、帝にお呼ばれするって話よ」
「はあ」
一嵐は半眼で応じた。
確かにここ最近、後宮では通称『帝呼びの香』が流行っている。
だが一嵐の鼻は利く。ろくでもない品ということは、結果を聞かずとも分かる。
「……やめた方がいいと思いますよ。銭をどぶに捨てているようなものです」
「もう、せっかく教えてあげたのに」
怒ったような口調で言いつつも、朱玉屏はご機嫌だった。流行り物さえ手元にあれば満足する女である。
彼女が噂で注文を入れては放り出すのはこれが初めてではない。香に耳飾り、扇に彩筆、先月などは金糸で刺繍した枕まで買い込み、『これを抱いて寝れば、夜に帝が尋ねてくる』と言っていた。
結果は聞いていないが、まあ察するに難くはない。
「もし欲しかったら分けてあげるわよ」
「いえ、結構です」
一嵐はにべもなく断り、朱玉屏の前を辞した。
部屋を出るとようやく空気が軽くなった。秋の気配が香の煙の奥からかすかに漂い、風に乗って庭の紅葉が揺れる。
鼻先に漂う甘い香りに鼻をひくつかせながら、一嵐は小さく笑った。朱玉屏をはじめ妃たちは知る由もないだろうが、後宮に出回っている香はどれも眉唾物ばかりだ。
市井で衆目に晒せないような品ばかり運んでいた、元運び屋としての経験則である。
(こいつは珍しく本物のようだけど)
手の中で小箱を転がしながら廊下を折れると、視界が一気にざわめいた。
夕刻、後宮はさながら蟻の巣である。明かりが落ちる前に仕事を片付けようと、あちこちで下女たちが行き交い、布をたたみ、荷を運ぶ。宦官たちは大声で指示を飛ばし、誰がなにをどこへ持って行っただの、あれがこれが足りないだのと喚いている。
これでは蟻の方がマシかもしれない。
そんな喧騒の中、一嵐はするりするりと身を躱しながら、ようやく自分の部屋へと戻った。夕焼けが格子から差し込み、部屋に長い影を伸ばしている。
だが、扉の前で一嵐は足を止めた。
濃い影の中、一人の女が佇んでいた。その姿は影の中でぼんやりと浮かんでおり、目を凝らさないと輪郭がはっきりしない。
(生きてるのか?)
思わずそう疑ってしまうほどに女は瘦せ細っていた。肌は死人のように青白く、質素な衣は擦り切れ色褪せている。
その姿を見れば、誰もが幽霊と見紛うだろう。怪力乱神の類を信じない一嵐でさえ、幽霊の言葉が脳裏をよぎったほどだ。
「……あなたが、運び手様ですか」
黙ったままの一嵐にしびれを切らしたか、女の方が口を開いた。その声は乾いてひび割れ、深い井戸の底から響いてくるように冷たい。
「そうですが」
一嵐が短く答えると、女は細い腕で一通の手紙を差し出した。
「これを、呉順様に……どうか……」
手紙を受け取る前に、一嵐は一歩だけ後ずさった。女の顔はやはり骨のように白く、やつれているとかそういった言葉では説明がつかない。
(……まさかね)
一嵐は手紙を受け取った。
「呉順殿ですね。分かりました。預かりましょう」
女は一嵐の言葉に頷くこともせず、すっと踵を返して去っていった。まるで影のように、足音さえ残さない。
女が角を曲がった後、ふと好奇心に駆られて角を覗きこんだが、そこにはもう誰もいなかった。
(……一日の終わりに嫌なものを見た)
一嵐はため息をつくと、預かった手紙に視線を落とした。表には『呉順様』と細い字で書かれ、裏には女の名前が書かれている。
「林翠?」
聞いたことのない名前だ。まあ、三千人もの女官や宦官がひしめき合っているこの後宮において、聞いたことがある名の方が少ないのだが。
一嵐は鼻を鳴らすように笑うと、部屋のろうそくに火を灯した。
◇◇◇
翌日、一嵐はまだ日が昇りきらないうちに宦官の詰所に足を運んだ。日が昇ってしまうと、宦官たちは後宮中に散らばってしまい、とてもではないがその中から一人の宦官を探し出すなどできはしない。
砂漠の中から針を探すようなもの、もとい、後宮の中から尋ね人を探すようなものである。
「呉順殿はいらっしゃいますか」
入口の近くにいた宦官に声をかけると、宦官は面倒くさそうに詰所の奥を指さした。
その先にはまだ年若い宦官が身支度をしていた。宦官というのは月日を重ねるにつれ丸くなっていくものだが、まだ宦官になって日が浅いのか、どことなく男らしさを残している。
一嵐が近づいていくと、呉順は眉をぴくりと動かして一嵐を見下ろした。
「へえ、運び手っていうのは妃限定じゃないのか」
「ええ、その通りです。だからこの配達は無給ですよ」
妃や官人が頼んだ品物の配達に関しては一嵐に給金が入るが、一嵐が個人的に引き受けた品物に関しては奉仕活動、つまるところタダ働きである。
それでも頼まれると引き受けてしまうのは、できるだけ女の敵をつくりたくないからという、ただそれだけの理由だった。
「それは悪いことをしたな。……で、私に届け物か? なにかを頼んだ記憶はないが」
「昨日、あなたに、と」
そう言って、封筒を差し出す。呉順は訝しげに受け取り、筆跡を眺め、封に記された名を読んだ。
そして、その瞬間、まるで雷に打たれたように身を震わせた。
「林翆……!? 嘘だ、あれは……」
ぶるぶると唇を震わせる呉順に、一嵐は眉をひそめる。
「ご存知ですか?」
「知ってるも何も……あれは、もう……」
言葉が詰まった。呉順の顔色がみるみる蒼くなっていく。
「あれは死んだんだ。先月、流行り病で……」
呉順の震える息遣いが耳朶を揺らす。
「まさか、ゆ、幽霊……」
手紙を握りしめるその手は死人のように白い。
対して、一嵐は短く鼻を鳴らした。
(幽霊が手紙を書けるものか)
そうでなければ、今ごろ墓場は手紙だらけだろう。
手の込んだ悪戯をする奴がいたものだ、と一嵐は他人事に考えた。
この時はまだ、自分が巻き込まれる羽目になるとはつゆほども思わずに。
◇◇◇
「ねえ、知ってる? 幽霊からの手紙の話」
すぐ隣の下女の言葉に、一嵐は口に含んでいた薄い汁を危うく吹き出しかけた。
一つ咳をしてむせそうになったのを誤魔化し、隣の会話に聞き耳を立てる。
配達もひと段落し、下女用の食堂で一人遅い昼食を食らっていたのだが、まさかこんな短期間に幽霊という言葉を再び耳にするとは。
「知ってる、知ってる! 死んだ下女から手紙が届いたって話よね」
「そうそう。『お前たちが私を殺した』、『赦しを乞え』とか書いてあったって」
「それって、死んだ子が化けて出たってこと?」
「きっと呪いよ。なにか未練があったんだわ」
一嵐は呆れて目を回した。
(今朝の出来事が、もう下女の噂話か)
人の口に戸は立てられないと言うが、相変わらず後宮の噂は伝染病のように広まっていく。朱玉屏のような女が次々と新しいものに手を出すのも納得だ。
あっという間に興味を失った一嵐は、さっさと食事を終えようと汁を流し込んでいく。
が、続く下女の言葉を聞き、ついに汁を吹き出してしまった。
「お医者様と帝様にも届いたんでしょ?」
「手紙を届けた人も、あれは幽霊だったって……ってあなた、大丈夫?」
「だ、大丈夫です。気にしないで」
涙目になって咳き込む一嵐を怪訝そうに見つつも、下女たちは噂話に舞い戻った。
「でも、下女が帝様となんの関係があるのかしら」
「帝様なんて雲の上のお人なのに」
一嵐は口元を拭いながら、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
(医者と帝にも届いているだって?)
宦官相手に悪戯を仕掛けようというのならまだ分かる。だが、医者、さらには帝ともなれば話は違う。徹底的に犯人探しが行われ、犯人は見せしめとして首を刎ねられるだろう。いや、斬首で済むならまだいい。場合によっては、帝の威光を損ねたとしてさらに惨たらしい刑が科されるかもしれない。
(……いったい何がしたいんだ、あの幽霊もどきは)
幽霊が手紙を書くわけがない。手紙を書いたのは、幽霊の皮を被った生者だ。
一嵐が空の椀を前に考え込んでいる間、下女たちは食事を終えて出て行ったらしい。気づけば食堂には沈黙が下りていた。微かな衣擦れの音でさえ異様に大きく聞こえる。
その沈黙を破ったのは、上擦ったような少年の声だった。
「こんなところにいたか」
顔を上げると、目の前の椅子に沈琛が腰かけていた。駆け回った後の子供のように乱れた髪に、しわの寄った官服。背は低く、あどけなさを残す顔にはにやついた笑みを浮かべている。
しかしながら、その正体はれっきとした朝廷勤めの官人だ。さらには一嵐を後宮に拉致、もとい登用した張本人でもある。
正直、一嵐としてはもうかかわりたくない相手だ。
「……何用ですか」
そうと分からない程度に小さくため息をついて問うと、沈琛は頬杖をついて一嵐を見た。
「そう邪険にするなよ。用がなきゃ来ちゃいけないのか?」
「この後すぐ仕事に戻るつもりだったのですが」
「そうなのか? 俺が声をかけなきゃ、あと数刻は考え込んでいそうだったがな」
「……いつから見ていたんですか」
「お前が無様に吹き出したのは見た」
目の前の生意気な少年が官人でなければ、身を乗り出して張り倒していたところだろう。だが、それをできないことを知っているのが沈琛の嫌なところである。
それでも一嵐は負けじと不満を漏らした。
「盗み見とは趣味が悪いことで」
「それが命の恩人に対する態度か?」
「その件に関してはお世話になりました……」
一嵐は目を逸らして曖昧に笑った。
今でこそ配達人を名乗ってはいるが、もともと一嵐は市井で違法な品を運んでいた、いわゆる運び屋だ。
しかし、長らく悪事に加担していたツケか、ある日お縄にされそうになったところを沈琛に拾われたのである。
(もっとも、お縄にされた方がマシだったかもしれないが)
一嵐はため息をつくと、改まって沈琛に向き直った。
「それで、官人ともあろうお方が、罪人とおしゃべりをしに来たわけではありませんよね」
「まあ、それも目的の一つではあるが……」
目的の一つではあるのか、という一嵐のつぶやきは無視し、沈琛は少しだけ眼光を鋭くした。
「お前、幽霊騒動は知っているな?」
「幽霊から手紙が届いたっていう?」
「その言い草だと、まるで自分は関係ないとでも言いたげだが……お前が手紙を届けた張本人だと聞いているぞ」
「……それが?」
訊き返してしまってから、今のは悪手だったかと顔をしかめる。ここでしらばっくれておけばまだ巻き込まれずに済んだ可能性もあっただろう。
しかしながら、一嵐はすでに片足を踏み入れてしまっていた。
「今日、お前が宦官に届けた手紙と同じものが、医局の医者と帝にも届いた。むろん、これはお前が届けたものではないことは知っている」
「本当に同じものなのですか」
「一語一句同じだ。いま文官に調べさせているところだが、おそらく筆跡も同じだろう。つまり、たった一人がこれだけの騒ぎを起こしたというわけだ。これが林翆の筆跡かどうかは調べようがないがな」
椅子が軋む。沈琛は腕を組んで深く座りなおした。
「……で、なにを知っている?」
何か知らないか、ではなく、何を知っている、と来たか。
「何も知りませんよ。依頼人のことも、届け先のことも」
「では、配達記録に残っていないのはなぜだ?」
「個人的に受けた依頼だからです」
沈琛はぴくりと眉を動かした。
「つまり、誰かに頼まれたことを証明のしようがないわけだ」
「私が騒動の犯人だと?」
「少なくとも刑部の連中はそう考えている」
一嵐は思わず天を仰いだ。
帝の威光が脅かされた以上、警部は血眼になって犯人を探し出そうとするだろう。場合によっては、帝を満足させるために、何より自分たちに怒りの矛先が向かわぬように、犯人をでっちあげることも厭わないはずだ。
このままでは一嵐がその犠牲になってしまう。
「……刻限は」
「明日の朝にでも縄を持って訪ねてくるだろうな」
一日にさえ満たない短い時間。その間に真犯人を探し出し、自身の身の潔白を証明しなければならない。
一嵐は小さく舌打ちを漏らし、沈琛を半眼で睨んだ。
「最初から私に犯人を探させるつもりだったのですね」
「犯人はおそらく下女だ。だったら刑部の宦官どもにやらせるより、お前みたいな立場に捉われない人間にやらせた方が早い。……むろん、お前が犯人である可能性も皆無ではないがな」
「本当にそう思っていたら、今ここにいないでしょう」
「へえ、よく分かっているじゃないか」
沈琛が口角を上げたのを尻目に、一嵐は席を立った。
(とにかく時間がない)
歩き出しながら思考をする。
いま一嵐に必要なのは何よりも情報だ。
林翆はいつどうして死んだのか。犯人はなぜ林翆の名を騙り手紙を送ったのか。宦官、医者、帝の三者のつながりは。
無意識に口元に手を当てる。その下には抑えきれない笑みが浮かんでいた。
(少し面白くなってきたな)
食堂を後にした一嵐の背後で、沈琛は面倒くさそうな表情で外を眺めていた。
◇◇◇
医局の門をくぐると、薬草の匂いと雑多な足音が辺りを満たしていた。調薬棚の前で何人もの医者や宦官が行き交い、帳面に目を走らせたり薬を包んだりしている。
そんな中を一嵐は身をくねらせてすり抜けた。
目的地は医局の最奥、扉のない襖の向こう。
薄暗い空間の中央に据えられた机の奥では、男が一人、煙管を手にして座っていた。宦官の多分に漏れず肉付きが豊かであり、官服がぴったり肌に張り付いている。
煙をまとっているその姿はまるで獏のようである。
「おや、これはこれは、配達人殿」
名を崔狗というこの男は、医者であり医局の長でもある。名前も顔つきも態度も、何から何まで胡散臭い男であるが、医者としての腕は確からしい。
「どうも。少しお時間いただいても?」
「ええ、ええ。構いませんとも」
喉の奥を鳴らすように笑いをこぼしつつ、崔狗は煙管を机に置いた。
「品物がないようですが、何用で?」
「お察しかと」
「ふむ。……外では幽霊騒動とやらが巻き起こっているようだ」
一嵐が切り込むより先に、崔狗の方が話を始めた。一嵐は慎重に言葉を重ねる。
「あなたにも手紙が届いたと聞きました」
「ええ。今朝のことです」
「……中身を聞いても?」
一嵐が用心深く問うと、崔狗は思いのほかあっさりとうなずいた。
「構いませんよ。どうせ隠しきれる類の話でもなし。ただ、現物は刑部に回収されてしまって、ここにはありませんが」
崔狗はそう前置きをし、煙管を一吸いしてから手紙の内容を流れるように語った。
「『お前が犯した罪を私は知っている。お前が私を殺した。赦しを乞え。懺悔せよ』とな」
一嵐は顎に手を当てた。
(中身もしっかり幽霊を演じているな……)
ただの小手先の脅しではない。犯人には相当強い感情が渦巻いているようだ。
「私には何のことやら。こちとら人の腹は開けても、心の中までは診られませんのでね」
肩をすくめて崔狗が笑った。帝をも巻き込む騒動の渦中にいるというのに、崔狗のまなざしには煙のような不明瞭さが立ち込めている。
一嵐はその目を観察しながら問いかけた。
「先月亡くなった、林翆という下女のことを聞いても?」
崔狗の動きがほんのわずかに止まった。煙管の火種がじり、と音を立てる。
「さて、それは医療記録に属する話ですので」
「もう死んでいるのに?」
「だとすれば、なおさら慎重に扱わねばなりませんなあ」
「しかし、その林翆が手紙を送ったとされている。そうなれば事情は変わるのでは?」
「死者は死者です。筆を執ることはないし、ましてや配達を頼むなど笑止千万でしょう」
一嵐は目を閉じ、こめかみを指で押さえた。
崔狗の言い回しはいつもこうだ。肝心な点では煙に巻き、言質を与えず、真実の在りかをうやむやにしてしまう。
どうすればこの曲者から情報を引き出せるかと考えあぐねていると、崔狗は再び煙管を手にし、先端を一嵐に向けた。
「私から言えるのは一つ。林翆という下女は死んだ。それだけです」
それだけ告げて、崔狗は煙管を口に戻した。部屋に再び煙と薬の匂いが立ち込める。
「……どうも。手間を取らせました」
これ以上問うても何も出てこないだろうと判断した一嵐は一礼し、医局を後にした。
(医者がだめなら、あとは……)
一嵐はちらりと太陽を一瞥した。やや日が傾きつつある。
「間に合うな」
一人でつぶやくと、一嵐は配達用の倉庫に向かって駆け出した。
◇◇◇
品物を両脇に抱え、持ちきれない分は頭の上に。それでいてひょいひょいと軽快に駆けていく一嵐を最初は目を丸くして見ていた下女や宦官たちであるが、三か月もたてば見慣れたらしい。今となっては道を開けてくれるようになった。
まあ、変人認定されて単に避けられている可能性もあるが、それならそれで好都合なので良しとしよう。
「お届け物です」
戸を叩くと、届け先の妃の代わりに下女が顔をのぞかせた。朱玉屏のようにわざわざ応対する妃は稀であり、普通はこうして専属の下女が対応する。
「ああ、配達人さん。お疲れさま」
「どうも」
受け渡しの手続きをしつつ、一嵐は何気ない風を装って探りを入れた。
「体調に変わりはないですか」
「ええ、大丈夫だけど、どうして?」
「最近、ちょっとした病が流行っているそうでして。先月も流行っていたものだとか」
すると下女は、ああ、と思い出したようにうなずいた。
「先月は下女が何人か亡くなったのよね。薬がなくなったとかで」
一嵐はぴくりと眉を動かした。薬がなくなったというのは初耳だ。
「それはかわいそうに」
「ええ……あ、そういえば、噂の林翆って子も薬をもらえなくて亡くなったそうよ。親しくしていた子がひどく取り乱していて、可愛そうだったわ」
林翆、の名に一嵐は口元を隠して口角を上げた。
(やはりこういう情報は下層の人間に聞くに限るな)
市井でも、知りたい情報は商人より浮浪者の方がよく知っていた。もっとも、彼らの場合は娯楽のためではなく、生きるために情報の網を張り巡らせているわけだが。
一嵐は笑みを消すと、相変わらず素知らぬ風を装って答えた。
「へえ、そうだったんですか。それならお医者様に手紙を送ったのもうなずけますね」
「まあ、正直、逆恨みにも思えるけれど……はい、どうぞ」
妃と下女の名前を書いた紙を受け取る。これを配達記録と突き合わせてようやく一つの配達が完了する。配達人が品物を盗まないようにするための措置らしいが、あいにく一嵐は宝飾品やら化粧品屋らに興味はないので、ただ七面倒なだけだ。
「では、今後ともご贔屓に」
一嵐が礼を言いつつ立ち去ろうとすると、下女が手を伸ばして引き留めた。
「あ、ちょっと待って。これを緋月蓉さまに届けてほしいのだけど」
そう言って一通の封書を差し出す。普段なら一も二もなく引き受けるところだが、この度はそうもいかなかった。
「……幽霊からの手紙じゃないでしょうね」
「え?」
下女はぽかんと口を開いて一嵐を見つめると、途端に口元を押さえて笑い出した。思わず眉根にしわが寄る。
(笑い事じゃないんだけどな)
下女はひとしきり笑ったあと、封書を一嵐の手に乗せた。
「大丈夫。これは私のところの妃さまが緋月蓉さまに宛てたものよ」
「はあ……ならいいんですが」
一嵐が渋々封書を受け取った。
念のために確認する。紙の質感、宛先、差出人。どれも例の手紙とは違う。
ほっと安堵の息を吐くと、下女は再びくすりと笑った。
「……なにか」
「意外だったの。あなた、幽霊とか信じなさそうだから」
一嵐は黙って肩をすくめた。まさにその幽霊のせいで殺されそうになっているなどと、言ったとしても信じてもらえないだろう。
「……では、確かに引き受けました」
影が長くなりつつあるのを確認した一嵐は、一つ頭を下げて背を向けた。
(それにしても、薬がなくなったとはな)
崔狗はそんなこと一言も口にしていなかった。まさか本当に知らなかったなどということはないだろう。知っていて黙っていたのだ。
きな臭いな、と一嵐は西日の影に覆われながら思う。
薬が不足した結果、治療を受けられなかった下女が亡くなってしまった、というのは十分に起こりうる話だ。隠す必要のある話とは思えない。
その裏には何かが、おそらく帝にかかわる何かが隠されている。
「思いのほか深い沼にはまったなあ……」
一嵐はつぶやいたが、その目の底には好奇の光が宿っていた。
(まったく、抜け出すのが惜しいくらいだ)
◇◇◇
後宮にはおよそ百人の妃がいる。しかし、その百人全員が帝の寵愛を受けているわけではない。帝にお目通りが叶うのはそのうち十数人で、さらに夜を共にできるのは四夫人と呼ばれる四人の妃、そして后のみ。余す九十人は帝にとって威光を保つための装飾品に過ぎないのである。
とはいえ、妃たちは位に応じてそれなりの暮らしができているので、おのれの扱いに文句を言う者などいはしない。
まあ、文句を言ったところで、着の身着のまま市井に放り出されるだけの話なのだが。
そして、これから向かう緋月蓉もまた、そんな装飾品の一人である。
中位の妃である彼女は、朱玉屏のような下級妃に比べてはるかに豪華な宮を四等分にしたうちの一角で暮らしている。
白砂を敷いた小さな中庭では柳がそよぎ、一嵐はそのそばを抜けて勝手知ったように宮殿を進んだ。
自慢ではないが、百人近くいる妃たちの居所はとうに記憶している。緋月蓉に品物を運ぶのもむろんこれが初めてではない。
「お届け物です」
戸を叩いた直後、まるで図っていたかのように勢いよく戸が開いた。反射的に飛びのいてしまった一嵐を値踏みするように眺めるのは件の緋月蓉当人。
なめらかな曲線を描く腰回りに、月光のように白い肌。細面の顔には紅を差し、眦には薄赤の化粧を引いている。
まさに花のように美しいが、それは根を断たれて水に浮いた花に近い。どこか内からの輝きに欠けている。
緋月蓉は一嵐のことを上から下までじっくり見定めると、手にしていた扇子を突き出した。
「あなた、私の下で働かない?」
「……はい?」
「体力がありそうだし、要領もよさそう。ねえ、どうかしら?」
一嵐はこめかみに指を当て、小さく嘆息した。昨日からまったく碌な目に遭わない。厄日というものは二日も続くものなのだろうか。
「……なにゆえ、急にそのようなことを?」
呆れの中から絞り出すように問うと、緋月蓉はさして隠すそぶりもなく答えた。
「先月、よく手伝いに来てくれていた下女が一人、流行り病で死んでしまったのよ。それで人手が足りないの。今日もほら、こうして私が応対しなければならないし」
その言葉に、一嵐の思考が一瞬止まる。
(……まさか、ね)
まさかとは思うが、疑問を宙ぶらりんのまま放っておけるほど一嵐は辛抱強くない。
好奇心を覆い隠すように淡々と問いかける。
「その下女というのは、どのような者だったのですか」
「別に、どこにでもいるような子よ。林翆って言ったかしらね」
止まっていた思考が徐々に加速を始める。
林翆。死んでなお利用される哀れな下女。
「……林翆と言いますと、あの?」
「ああ、なんだかよく知らないけれど、林翆の幽霊が出たって騒ぎになっているんでしょう? 化けて出られるのなら手伝ってほしいものだわ」
この様子だと、帝にまで手紙が届けられたことは知らず、ただのくだらない噂話程度に思っているらしい。てっきり刑部から取り調べを受けて、多少なりとも経緯は知っているかと思っていたが。
(まあ、私が犯人の方が、何かと都合がいいんだろう)
配達人など代えの利く一端に過ぎないが、帝の装飾品を傷つけては威光にかかわる、といったところだろう。刑部から忖度部へ改名した方がよさそうだ。
とはいえ、知らないなら知らないで都合がいい。一嵐は慎重に問う。
「専属の下女はいないのですか?」
「いるわよ、一人。でも気が利かないのよねえ」
緋月蓉は物憂げに溜め息をつくと、一転して妖艶な笑みを浮かべて一嵐に迫った。
「ねえ、どう? たまには人生の寄り道もいいじゃない?」
「袋小路に迷い込みそうなので遠慮します」
一嵐は半ば上の空で答えると、封書を緋月蓉に手渡してその場を後にした。
背後で緋月蓉が不平を漏らすのが聞こえるが、今の一嵐には届かない。
(当たりだな)
柳の下で立ち止まり、一嵐は顎に手を当てる。
林翆の死因は病死というより、さしずめ放置死といったところだろう。何かしらの理由で薬が不足し、彼女は適切な治療を受けることができなかった。
そして『何かしらの理由』には、おそらく帝が絡んでいる。
犯人は薬不足の裏側を知ってしまい、手紙を送るに至ったのだろう。
しかし、仮に犯人が分かったとして、一つ疑問が残る。一嵐に手紙を渡したあの姿、あれはとてもではないが生きた人間の肌の色ではなかった。死人のように、ではなく、まさに死人の色だった。
(何かからくりが……)
一嵐は目を閉じる。
直前まで絶食していたか。それとも単に体調不良だったか。
(それとも……)
脳裏に一つのひらめきがよぎる。
あれを使えば簡単に死人に化けられる。
「……確かめないと」
宮の敷地を出ると、一嵐はその足で再び配達用の倉庫に向かった。倉庫と言っても、妃たちが頼むのは小物ばかりなので、その広さは厠程度のわずかなものである。
常に肌身離さず持っている古びた鍵を使って扉を開け、手に取ったのは配達記録を記した帳面。
(記憶が正しければ……)
数日前まで記録を遡る。
「あった」
一嵐はある記録を指でなぞった。
「届け先は緋月蓉、品物は香……」
香、と言いかけて一嵐はもう一度文字をなぞった。『香』の字の上から、朱色で大きくバツがつけられている。配達の後に一嵐自身が書き加えたものだ。
五日前のことだが、この配達はよく覚えている。
なぜなら、このとき一嵐は香を運んでいないからだ。
香は分かりやすい品物だ。見た目の割に軽く、ほのかに香りが漏れ出していることが多い。特にいま流行りの『帝呼びの香』は、その強い甘い香りが特徴的だ。
だが、五日前に運んだ品には、そのような香りがまったくなかった。さらに見た目の割に重く、香に比べてやや業務的な包装。
一嵐は即座にその品名偽装を見破った。
真の品名は、おしろい。それも大量の。
全身に塗りたくれば、死者に化けるのも可能だろう。
(そしてあの日、これを受け取ったのは……)
帳面に挟んでいた、受取人の名前を記した紙を手に取る。多くの妃の多分に漏れず、緋月蓉も受け取りは下女に任せていた。
「柳雪、か」
もし彼女が、林翠の死にひどく取り乱していたという下女と同一人物なら。同じく緋月蓉のもとで働いていた林翠と懇意にしていてもおかしくない。
もちろん、緋月蓉による犯行の可能性も否定はできないが、そこまで親しくしていたなら、『どこにでもいるような子』などという言い方にはならないだろう。
獲物を前にした肉食獣のように、一嵐の目が鋭く光る。
一嵐は一人、静かに片笑んだ。
◇◇◇
白霧が立ち込めていた。
まだ太陽が顔を出すには早い刻限、中庭の池の水面には霧が漂い、白んだ空と区別がつかないほど同じ色をしていた。洗濯場の石敷きも露で濡れ、草葉が時折雫を落とすのみ。
その中で、一嵐は池のほとりの岩に腰掛ける人影を見つけた。真白な霧に澱んだ煙が交じっている。
「どうも」
一嵐が声をかけると、崔狗はわざとらしく驚いたように両手を上げた。
「おお、幽霊かと思いましたぞ」
「だとしたら、後宮は幽霊屋敷ですね」
崔狗は短く笑うと、黙って池に向き直った。それを暗黙の誘いだと受け取った一嵐は斜め後ろに立つ。
「それにしても、お早いことで」
「君にも言えたことじゃないのかね?」
「いつもはもっと遅いですよ。こんなに早く始めても、受け取り手がいませんから」
崔狗に向けるわけでもなく、一人苦笑をこぼす。しかし崔狗にも伝わったようで、彼はわずかに肩を揺らした。
「私も同じですよ。病人が起きだすのは昼を過ぎてからだ」
「では、なぜこんな時間に?」
「この景色が好きでしてね。霧の日は、物の形が崩れて見える。人も景色も、何か違うものに見える」
何を言い出すのかといぶかしむ一嵐を、崔狗は首をひねって見上げる。
「まるで幽霊がいる気分にさせてくれるのですよ」
幽霊なんて鼻から信じていないくせに、と一嵐は内心で突っ込みたいのを堪え、今度は自分から仕掛けた。
「一つお頼みしても?」
「なんでしょう」
「知り合いの下女が病にかかってしまったようでしてね。先月の流行り病と同じものだそうで、ぜひ薬をいただきたいのですが」
「……であれば、まずは医局にいらっしゃるよう伝えてください」
「節々が痛むらしく、医局まで行けないのですよ」
崔狗は、今度は無言でこちらを見た。だが、一嵐の顔に意地の悪い笑みが浮かんでいるのを見て、珍しく苦虫を噛み潰したような顔をする。
それを見て取った一嵐はさらに畳みかけた。
「先月は不運にも薬がなくなってしまったそうですね。よく分かりますよ。不測の事態が起こると、十分にあると思っていたものがあっという間になくなってしまう。……ですが、あれからひと月たちました。今なら幾分か余裕があるのでは?」
崔狗はまっすぐ池を見つめた。黒い瞳が、濡れた水面のように反射して、奥底を読ませない。
しばらくして、小さな吐息が崔狗の口から吐き出される。
「どこまで知っているのです?」
「薬不足は人災だ、ということくらいですよ」
「……まったく、あなたを登用したお方は、慧眼なのか節穴なのか気になるところですな。ずいぶんな曲者を拾ってきてしまったようだ」
「あなたに言われたくありませんが」
そう皮肉を返しながら、一嵐は沈琛の憎たらしい顔を脳裏に浮かべた。
彼が慧眼なのか節穴なのかは一嵐も図りかねるところだ。打ち首になりかけていた運び屋を拾って何がしたかったのか。ただ困ったときに使える手足が欲しかっただけなのではないかとさえ思えてくる。
一嵐は頭を振って沈琛の顔を追い出し、崔狗の後頭部を見つめた。
「いかがですか」
「……他言無用です」
「承知しております」
崔狗は用心深く周囲を見回し、それでも物足りないのか一嵐を手招いた。素直に寄った一嵐に顔を近づけ、掠れ声で囁く。
「先月、帝様が例の流行り病に倒れた。朝廷でもごく一部にしか知らされていないことです」
一嵐は目を細めた。
(なるほど、これは口外できないわけだ)
帝の厄は国の厄。それだけ帝という存在は国そのものを体現している。
間違っても広く知れ渡るような状況は避けたかったというのもうなずける。
「それで、薬をすべて帝様に回した、と。おかげで後宮から薬が消えたわけですね」
「その通りですとも」
崔狗は池の水面に小石でも落とすような声で呟いた。
沈黙の中、一嵐は問いかける。
「なぜ柳雪は帝様が絡んでいることを知っていたのでしょう?」
「林翆から聞いたのかもしれませんな。寝ている林翆のそばでうっかり帝の名を口にしてしまったことがありましたゆえ、もしかすると聞かれていたかもしれません」
「なるほど。では、呉順はいったい何の関係が?」
「隔離部屋まで病人を搬送させていました。おそらく林翆も運んだかと」
一嵐は湿った地面に残るおのれの足跡を見つめた。
(出そろったな)
手紙を受け取った三人は間接的に林翆の死にかかわっていた。
むろん、誰かが止めていれば、などという次元の話ではないので、林翆の怒りは逆恨みに等しい。
「……しかし、誰かを恨みたくなるのも分からなくはないな」
一嵐がごちると、崔狗は無言で立ち上がって一嵐を見た。
「運び手よ。帝の命は、百の下女に勝る。それが国というものなのです」
「……へえ」
崔狗の教訓めいた言い草に、一嵐は片眉を上げると、いつもなら懐にしまい込むような皮肉を表に出した。
「そんな帝様が、たった一人の下女に脅かされているなどと、甚だ可笑しな話ですね。もちろん、あなたにも言えることですが」
「何を……!」
崔狗が言いかけるのを、一嵐は片手を上げて制した。
「では、失礼いたします。依頼人が待っていますので」
「……あなたにもいずれ理解できる日が来るでしょう。抗えないものは死と天命だけではないのです」
一嵐はしばし黙ると、吐き捨てるというにはあまりに軽い調子でつぶやいた。
「くだらないな」
それは皮肉でも挑発でもない、まぎれもない本音だった。
崔狗は無言で一嵐を見つめた後、やはり言葉を発さずに背を向けた。表情を盗み見ようと水面を一瞥するが、霧が邪魔してぼんやりとした影しか見えない。
そのまま待つことしばらく、崔狗は眉間を指で揉んだ。
「あなたを登用したお方は慧眼かと思っていたが、どうやら節穴だったようですな。帝様への忠誠心の欠片もない」
「あなたはあるとでも?」
「そのつもりでしたが……」
崔狗は真意を悟らせない、いつもの胡散臭い笑みを浮かべた。
「はて、霧が濃くなってきましたな。……配達人殿も、そろそろ始業の時間では?」
そう言うや否や、にわかに池の向こうが騒がしくなった。
「早朝からご苦労なことですな」
「おそらくうちの客です」
「どう対応するおつもりで?」
「それはもちろん、ご丁寧に……ああ、ご迷惑はおかけしませんので」
一嵐は他人行儀に頭を下げると、岩の影から池の向こうの様子を伺った。
屈強な男たちがこちらに向かって一直線に歩いてきている。どこからか一嵐の現在地が漏れたらしい。壁に耳あり障子に目あり、とは極東の国の言葉だったか。
(まったく、捕り物は二度とご免だと思ったのに)
運び屋時代、しばしば捕吏に追い回されていたことを思い出す。まさか帝のお膝元で似たような目に遭おうとは、当時は夢にも思っていなかった。
「配達人! そこにいるのは分かっているぞ!」
池をぐるりと回りながら、刑部の連中が声を張る。
「はい、いま行きます」
一嵐は殊勝に答える一方、その足の筋肉を緊張させていた。
(さて、やるか)
一嵐は岩の影から足を踏み出し、にこやかに微笑んだ。
「どちら様でしょう?」
「刑部だ。なぜ来たかは分かっているな」
「さあ?」
次の瞬間、一嵐は身を翻してその場から逃げ出した。
「あ! 逃げたぞ!」
後ろから驚きと怒号が追いかけてくる。
「待て!」
一嵐の口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。いい加減、連中は『待て』と言われて待つ罪人などいないことを学ぶべきだろう。
後宮仕えになってから本気で走るようなことはなくなったとはいえ、長年培ってきた逃げ足の速さはそう簡単には衰えない。
おのれの足に感謝しながら、刑部との距離を一定に保ちつつ後宮中を駆け回る。
向かうは緋月蓉の宮。
門のそばに立つ宦官が驚きの声を上げる。
「は、配達人!?」
「どうも、お届け物です」
門番は硬直している間に一嵐に押しのけられ、次いで刑部の連中もどやどやと追ってくる。
一嵐は少し足の速さを落とし、緋月蓉の居所へ向かう。
「緋月蓉さま、ちょっと失礼」
戸を開くと、あっけにとられた顔の緋月蓉と目が合った。そして、その後ろに控える一人の下女。
(こいつか)
一嵐は軽く息を整えると、あとから入ってきた刑部の男たちに向き直った。
「ご挨拶が遅れました。配達人の一嵐です」
「そ、そのようなこと、とうに知っておるわ! なにゆえ逃げたのだ!」
「皆様をご案内申し上げただけです」
「案内だと?」
「幽霊のもとへ、です」
ちらりと振り返ると、下女がまさに幽霊のように顔を真っ青にしてわなないていた。
今この場で一嵐の言わんとしていることを理解できているのは彼女、柳雪ただ一人。緋月蓉も刑部も、何を言い出すのかと怪訝そうにしている。
「とはいえ、むろん幽霊など存在するはずもありません。その正体は、幽霊の皮を被った生者だ」
「その生者とやらがお前なのであろう?」
一人の宦官が威圧的に足を踏み出す。一嵐は身を引くことはしなかったが、いつでも飛び出せるように全身の筋肉を緊張させた。
(なるほど、聞く耳も持たないと来たか)
取り締まる連中に特有の、権力ゆえの自信と傲慢は市井でも後宮でも変わらないらしい。
しかし、刑部が耳を貸さないであろうことは想定内だ。わざわざ緋月蓉のもとまで来たのは、柳雪だけが目的だけではない。
(力を貸してくださいよ、妃さま)
一嵐がそっと緋月蓉に手を伸ばしかけたとき、凛とした声がその動きをとどまらせた。
「妃の前で声を荒げるとは、少し無粋が過ぎるのではないか? 刑部諸君」
「し、沈琛さま……!」
驚愕に目を見開いた刑部の連中や緋月蓉に対し、一嵐は横を向いてこれでもかと深いため息をついた。おそらく刑部の態度を見計らって助太刀に入ってくれたのだろうが、これからずっと沈琛の茶々が入るのかと思うと気が滅入る。
「それに、ここは帝様のお膝元でもある。荒事は控え願いたいのだがな」
「し、しかし、この者が逃げて……」
「私には逃げているようには見えないぞ」
沈琛は一嵐を一瞥すると、無表情のうちに一瞬だけ笑みを忍ばせた。
「せっかくご招待賜ったのだ。聞かせてもらおうではないか」
「……お気遣いどうも」
一嵐は目を合わせずに答えると、刑部の連中に視線を戻した。
「先ほど申し上げた通り、幽霊が手紙を書こうはずがありません。幽霊の皮を被った何者かが、林翆という死んだ下女の名を使い、呉順殿、崔狗様、そして帝様に手紙を書いた」
その言葉に、えっと声を漏らしたのは緋月蓉。
「林翆って、あの林翆?」
「それはっ」
「ええ、その林翆です。よくここを出入りしていたとか」
制しかけた宦官を遮り、一嵐は間髪入れずに答える。
事の重大さを知った緋月蓉は口元を手で覆ったが、沈琛がその様子を目を細めて見つめた。
「ほう、よくここを出入りしていた、と。このことは?」
「いえ、その……」
「知っていたのか?」
沈琛の声に冷たい威圧感が籠る。宦官はしばらく逡巡していたが、やがてあきらめたように深く頭を下げた。
「存じておりました」
「にもかかわらず、こちらの妃に話を聞かなかったというのか。ずいぶんと丁寧な調査が行われたようだな」
皮肉めいた沈琛の言葉に、宦官は一層首を竦めて身を引いた。一見すると、子供が大男を委縮させるという奇妙な光景だが、この場にそれを指摘する者がいないほど沈琛の眼差しは冷たく冴えていた。
だが、それも宦官に対してだけ。一嵐に視線を移したときには、いつものからかうような悪餓鬼の笑みが浮かんでいた。
しかし、一嵐が彼の期待に沿えなかったとき、そのまなざしは再び熱を失うだろう。一嵐はそれを重々承知していた。
「それで、お前は林翆の名を騙る何者かがいるというんだな」
「……さようです。その者とは、林翆の死を知っていて、なおかつ深い恨みを抱いている者。おそらくは林翆と親密な関係にあった者でしょう」
そこで一嵐は緋月蓉に顔を向ける。
「林翆はよくここに出入りしていたと聞きました。間違いありませんね?」
「え、ええ……待って、私を犯人と言いたいの?」
「いいえ、滅相もありません。いくら頻繁に出入りしていたとはいえ、下女と妃では壁が高すぎるでしょう。これほどまでの騒ぎを起こすほどに親密になれた者……」
そこで初めて一嵐は柳雪と目を合わせた。
「例えば、林翆と同じ下女」
その場にいる全員の視線が柳雪に注がれる。
だが、一嵐と柳雪は互いに視線を交わしたまま微動だにしなかった。
目の前にたたずむ、痩せ細った一人の女。まさか彼女が帝に脅迫文を送りつけた犯人であろうなどとは思いもしないだろう。日々走り回っているおかげか、下女にしては健康的な体形をしている一嵐に容疑が向くのも納得がいく。
(見た目ばかり気にする後宮らしいことだ)
一嵐は胸の内でつぶやくと、柳雪から目を離さぬままに続けた。
「すべての始まりは、先月の流行り病です」
人の多い後宮で、その病はあっという間に広がっていき、数人の下女の命を奪った。
林翆もその中の一人だ。
「しかし、林翆の死因は、単なる病死ではありません。適切な治療を受けられなかったが故に死に至ったのです。それはなぜか……」
緋月蓉と刑部たちが同時に首をひねる。この様子では、やはり刑部も事の経緯は知らないらしい。
柳雪はあくまで無表情を貫いているが、林翠の名が出るたびにその肩が揺れている。
一嵐は息継ぎをする一瞬の間に腹をくくり、再び口を開いた。
「先月、さるお方が病にかかられました。その治療のため、後宮の薬はすべてそのお方のもとに集められたのです。当然、後宮から薬は消え、下女たちにまで行き渡らなくなってしまった」
「待って、さるお方って……」
緋月蓉が言外の意を察したか、化粧の上からでも分かるほど顔が蒼ざめる。
黙ってうなずこうとした一嵐だが、それを遮ったのは沈琛の横やり。
「朝廷の大臣ですよ。ここでは名は明かせませんがね」
「そ、そうなの? てっきり帝様が病に倒れ、それで帝様のことを恨んだのかと……」
「いえいえ、帝様はご健在です。きっと大臣本人に送るより、帝様に送った方が注目されると思ったのでしょう。まったく不敬なことだ。そう思うだろう、配達人?」
そう同意を求めてくる沈琛の目には、なんてことをしようとしてくれたんだという焦りと、これ以上余計なことを言うなよという圧が入り混じっている。
(弄ばれる側の気分が分かったか?)
内心ではいたずらに成功した悪餓鬼のように笑いながらも、一嵐は申し訳程度に頭を下げた。沈琛の苦々しい顔つきを見るに、一嵐の性根が分からないわけではあるまい。市井で裏家業に精を出していた人間に、少しでも良識を期待する方が悪いのだ。
沈琛への意趣返しに満足した一嵐は、それ以上は踏み込むことなく話を再開させた。
「ともかく、そうして林翆は薬を飲むことができずに死んでしまったのです。しかし、そのことに納得できなかった者がいた。その者は、林翠の死にかかわった者に対して復讐を企てました。薬を与えなかった医者、林翠を隔離した宦官、そして帝様に」
「それが……」
全員の視線が柳雪に注がれる。ひゅ、と喉の鳴る音がする。
しかし、刑部の男の一人が首を振って一嵐の方を見た。
「待て! なぜこの者が犯人だと断定できる? 死んだ下女にはほかにも親密な者がいたかもしれないではないか!」
「おお」
意外と鋭いことを言うな、と思わず声が漏れてしまった。どうやら忖度をするだけが能ではないらしい。
だがあいにく、こちらにも説明はつく。
一嵐は動揺している様子の緋月蓉を見やった。
「緋月蓉さま、一つお伺いしても?」
「え、ええ」
「先日、香を買われましたか?」
「買ってないけれど」
ついに一嵐はこらえきれずに口角を上げた。これで証拠は出そろった。
「それはおかしいですね。先日、私はお届けしたはずなのです。あなた様の下女、柳雪に」
「え? 私は受け取っていないわ」
「実際、彼女の署名も残っています。それにもう一つ、品物は実際には香ではありませんでした。重さや包装からして、中身はおそらくおしろいでしょう」
一嵐が説明すると同時に、沈琛が合点がいったようにうなずいた。
「それを塗りたくって幽霊に扮したわけか」
「おっしゃる通りです。もし自分が犯人でないというなら、その時の品を……」
推理の締めにかかろうとしたところで、それまで黙っていた柳雪が勢いよく顔を上げた。
「あるわけないでしょう? 顔、首、手足……あれだけあっても、すぐになくなってしまったわ」
「き、貴様! 認めるのか!」
刑部の男たちが柳雪に詰問するが、彼女は臆する様子もなく、それどころか彼女の目と唇が弧を描いた。
「あの子の命はもう長くないと聞いて、その時は悲しみこそすれ、怒りはなかったわ。だって、病だもの、仕方がない。……でもね、あの子の見舞いに行ったとき、聞いてしまったの。あの子が薬をもらえていないということと、その理由を」
一嵐と沈琛は同時に体をこわばらせた。
せっかく帝の体調不良を誤魔化すことができたのに、このままでは柳雪によって真実を暴露されてしまう。
沈琛が小さく舌打ちをして口を開きかけたが、先んじて柳雪が放った言葉が意外なものだった。
「どうやら朝廷の大臣さまが病にかかり、そのために薬が必要になった、ということをね」
「ほう……」
さすがの沈琛もこの言葉には意外そうに眉を上げた。一嵐はわずかに首を傾げ、柳雪のことを見つめる。
しかし、柳雪は一嵐の無言の問いに答えることはなく、じりじりと後ずさった。
「だから、復讐することにしたの。あの子を一人孤独にさせた宦官に、権力に負けた医者に……この腐った後宮を作った帝に」
「なっ……帝様を侮辱するか! 捕らえろ!」
男たちが足を踏み出すと同時に、柳雪はひょいとその手を躱して駆け出した。
「お、おい! 待て!」
一嵐は意外に思って眉を上げた。どうやら大人しく捕まるつもりはないらしい。
男たちは突然のことに目を白黒させたが、すぐに我に返って走りだした。不意を突かれたとはいえ、間もなく柳雪に追いつくだろう。
(……馬鹿だな)
一嵐は心の中でぼやくと、何でもない顔で一歩踏み出し、先頭の男にさりげなく足を引っかけた。
「うおっ!?」
豪快な音を立てて男が前のめりに倒れ、後ろの二人も巻き添えになって転ぶ。
部屋を出ていく一瞬、柳雪と目が合ったような気がしたが、彼女は足を止めることなく走り去った。
彼女の瞳には、固い決意がにじんでいた。
◇◇◇
薄暗い部屋に、小さく抑えられた足音が近づく。
寝台に横になっていた一嵐はひょいと体を起こした。素人の忍び足程度、たとえ寝ていようが聞き取れる。
「……配達人さま」
囁き声が聞こえ、一嵐は黙って扉を開けた。そこには、あの日のように、全身におしろいをまぶした柳雪の姿。ただし、量が足りなかったのか、うっすらと地の肌が透けて見えている。
「逃げ切れたんですね。運がいいことだ」
「……なぜ、あの時助けてくれたの?」
なんとなくその質問を予期していた一嵐は、軽く肩をすくめた。
「帝様が病に伏していることを隠してくれた、お礼みたいなものです。それに、曲がりなりにも依頼人が斬首になるというのも夢見が悪い」
「同情したわけじゃないのね」
「同情って、あなたに? それとも林翠に?」
「私に同情してほしいなんてつゆほども思っていないわ。ただ……もしあの子に同情してくれたなら、教えてあげたかったの。あなたをかわいそうだと思ってくれた人がいたよ、って」
どうやって、と訊くほど一嵐は野暮ではなかった。ただ、うんざりした気持ちを隠そうともせずに溜め息をついた。
(せっかく逃げ切れたというのに、なんで死のうとするかな)
これでは、せっかく打ち首の危険を冒してまで手を貸した意味がない。まあ、勝手に助けておいて恩着せがましい、と言われてしまえばその通りなのだが。
「それじゃあ、さようなら」
一嵐がなにも言わないのを見て、柳雪は小さく頭を下げて踵を返した。暗闇に、白っぽい彼女の肌が不気味に浮き上がっている。
その後ろ姿が角を曲がろうというとき、一嵐は口の中で小さく舌打ちをして、柳雪を呼び止めた。
「ちょっと」
「悪いけど、思いとどまる気はないわ」
嘘つけ、と一嵐は胸の内でぼやいた。死ぬことをわざわざ言いに来るような人間は、たいてい誰かに引き留めてほしいのだ。それを本人が自覚しているかはまた別の問題だが。
一嵐は数秒の沈黙の間に考え、部屋の中から小箱を手に取って再び顔を出した。
「これを」
「なにかしら」
自分の目で確かめろ、という一嵐の無言の圧力に折れ、柳雪は不承不承ながらも小箱を受け取った。
そっと箱を開くと、その目が大きく見開かれる。
「きれい……」
「一級品の翡翠の耳飾りです。あなたに、と」
「誰から?」
怪訝そうな柳雪の表情が、一嵐の顔を見つめるうちに驚愕に変わる。
「まさか、林翆から?」
「依頼人の名は明かせません」
その瞬間、柳雪の目から大粒の涙がこぼれた。涙は頬を伝って翡翠の上に落ちる。暗がりの中、ろうそくの光を反射して、翡翠が美しく輝いた。
「ああ……林翆……」
「あなたが死んだら、そいつをつける人間もいなくなりますよ」
涙があふれては落ち、いつの間にか柳雪の顔つきは生気を取り戻していた。ただ単におしろいが落ちて血色がよくなったように見えただけかもしれないが、まあそれを言うのは野暮だろう。
「南門の横の塀に抜け道があります。どうするかはお任せします」
顔を伏せていた柳雪は、小箱を大事そうに胸に抱えた。
「あなたは、死んでもなお優しいのね、林翆」
柳雪は深く息を吐き出すと、よろよろと歩き始めた。角を曲がる直前、一嵐の方を振り返り、深く頭を下げる。
そして、ついに柳雪の姿は闇に紛れて消えた。
(時には嘘が薬になる)
一嵐が心の中でつぶやいた直後、背後から声が聞こえた。
「……無事に成仏したようだな」
「その冗談は本当に笑えませんよ」
一嵐はため息交じりに振り返った。そこには面白くなさそうな表情の沈琛。
「なんだ、気づいていたのか」
「背後から不意打ちされたことは一度や二度ではありませんから。それより、何用ですか?」
「ちょっと語らいに来ただけだ。お前があんなに情の深い人間だとは思ってもみなかったぞ」
一嵐は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「別に……幽霊になって枕元に立たれるのは御免ですから」
「お前の冗談も大概だな」
沈琛は面白がるように笑ったが、すぐにまた探るような目つきをした。
「それで、本当のところは?」
一嵐は正直に答えるか迷ったが、頑として帰りそうもない沈琛の様子を見て、しぶしぶ口を開いた。
「……同じく使い捨てられる側の人間として、少し思うところがあっただけです」
「使い捨てられると、そう思っているのか?」
「わざわざ雑談しに来たわけでもないでしょう」
普段どのような仕事をしているのかは知らないが、官人は真夜中にこうして世間話をしに来るほど暇ではない。
(こんな回りくどいことをしないで、刑部の連中を連れてくればいいのに)
一嵐は多くを知りすぎてしまった。帝の威光を守るため、一嵐に関する記録はすべて抹消されるだろう。むろん、一嵐自身も。
ひやりと背筋に悪寒が走る。運び屋時代、幾度となく修羅場を越えてきた。それなのに、足の筋肉が震える。使う側からの視線を初めて身に浴びているからだろうか。
いつ逃げ出そうかと足の筋肉を緊張させながら機を伺う。
と、不意に沈琛が大きな声を上げて笑い出した。
「殺しはしないさ」
「は……」
「ちょっと足を踏まれたからと言って、優秀な猟犬を殺すわけがないだろう?」
「……お褒めいただき光栄です」
「ただし、罰は必要だな」
沈琛は思わず喉を鳴らした一嵐をじっと見つめていたかと思うと、おもむろに後ろ手に隠し持っていた酒瓶を持ち上げた。
「付き合え。そしたら見逃してやる」
「正気ですか」
「それが返事か?」
「……お付き合いします」
一嵐はがっくりうなだれた。
まったく、この後宮には権力を濫用する輩が多すぎる。
(了)
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