婚約破棄代行商会『モームリデゴザイマス』
【1】
大通りを二つ折れ、影の濃い細道にひっそりと建つ古びたアパートメントの一階に私の店はある。
出入り口のドアはガラスにハメられた鉄格子に錆が目立ち、木製の扉は年季が入り、黒ずんでいる。
そして、古びたドアの脇には小さな看板がある。
『婚約破棄/離婚代行 モームリデゴザイマス』。
金文字は控えめで、目立たないが、あえてそうしている。
この店は特殊。
多くの人に利用してほしいわけではない。
必要な人にだけ届く店であればいいのだ。
「おはようございます。本日はご予約が一件入っております」
私が店内に入ると、唯一の従業員であるジェフ・バートラムが来客の予定を告げる。
バートラムの年齢はたしか今年で55歳、白髪のオールバックと口ひげは見事に整えられており、むしろ清潔感がある。
「で、来客はいつ頃かしら?」
「30分後のアポイントメントでございます」
その後、ものの10分でドアをノックする音が聞こえる。
よくあることだ。
私の店に依頼する者は早く胸の内をぶちまけたくて、みな予定よりも早く来店する。
私は目元を隠すアイマスク状のハーフマスクを装着して、客人を迎え入れる。
ハーフマスクは白金の糸でゼラニウムの花をモチーフとした刺繍が入っており、仮面舞踏会のような、どこか謎めいた女主人といった雰囲気が出て、依頼人にも評判がよい。
「あ、あの……予約していたものです」
年季の入ったサロンテーブルとソファー、私の前に座っているのは若い女性だった。
バートラムによると依頼者はリゼット・エルネス。エルネス男爵家の令嬢だとのこと。
「私がこの店の主、サーラです。マスク姿で失礼します。少し怪我をしていまして、お見苦しいので隠させていただいています」
商会の主人が小柄な若い女性だということで、彼女は少し戸惑った様子を見せた。
しかし、すぐに気を取り直して、まっすぐに私を見つめる。
「サーラさんは必ず婚約破棄をさせることができるんですよね。依頼者の名誉と家名を傷つけることなく」
いまにも泣き出しそうな目で私を見つめるリゼット。
「ええ。必ず婚約を破棄させ、依頼者を心と名を救済し、相手の名誉を地に落としてみせましょう」
そう言うとリゼットの顔がぱっと明るくなり、礼の言葉が口から出そうになる。
しかし、私はそれを手で制して言葉を続ける。
「〝依頼を引き受けたならば〟のお話です」
「お願いします! お代はちゃんとお支払いします。お高いようでしたら、何年でもかけて。おいくらでしょうか」
いきなり何年でもかけてと言い出すということは懐には余裕がなさそうだ。
「事情にもよります。手付金に成功報酬、調査が必要であれば調査費用。それにオプションをつければその分の料金もいただきます」
「オプション?」
「こちらオプション表でございます」
バートラムが一枚の紙をテーブルの上に置く。
・人前で大恥オプション
・土下座オプション
・物理ぶん殴りオプション
・ついでに帰りがけに深めの落とし穴に落とす
「ほかにもご要望がありましたら、ご相談に応じて」
バートラムの言葉にリゼットは困惑した顔を見せる。
「いずれにせよ代金の話は契約すると決まってからにしましょう。特殊な商いですので、必ずお引き受けするとは限らないのです。いくらお支払いすると言われても、お断りすることもありますので」
「それはなにを基準に?」
「怒り――」
私は依頼者の事情を聞き、十分に憤りを感じ、縁を切る必要があると判断したときのみに依頼を引き受ける。
依頼者にも非があると感じた場合や、単なる家の都合や、わがままによる依頼は引き受けることはない。
そう告げると、リゼットは静かにうなずいた。
「では事情をお話しいただけますか?」
バートラムがリゼットの前にお茶を差し出す。
このタイミングでお茶を出すのは私の店のルールだ。
おそらく長い話になる。それに話したくないことも話すことになるだろう。
依頼者の喉と心を潤す必要がある。
「……わ、わたくし、リゼット・エルネスと申します。婚約者はアルノー・ヴァルディ、伯爵家の嫡男です」
なるほど、伯爵家と男爵家、家格に差がある。
「アルノーは浮気をしています」
「それは間違いないと言い切れますか?」
「ええ、だってアルノーは隠していませんから」
「というと?」
「わたしには浮気を隠していません。浮気相手のエリザベート男爵令嬢と毎週のように逢引きされています」
「ほう、抗議はされないのですか?」
「もちろん、最初はしました。しかし、聞く耳を持ちません。『この俺が一人の女で満足できるわけはないだろう』と」
「であれば、相手の両親、ヴァルディ伯爵家に抗議してみればいかがですか?」
私の問いにリゼットは深いため息を返した。
「親公認なのです。お義父さま、お義母さま、ともにアルノーさまを溺愛されていて、見て見ぬフリをしています。むしろわたしがウソを言っていると、虚言癖の婚約者を持つなんて息子はかわいそうだと……」
「それはなんとも酷い……」
バートラムが思わず言葉を漏らす。
「それからと言うもの、伯爵家の親戚筋の方にご挨拶に行くたびに、虚言癖の女だと紹介され、笑いものにされるのです」
リゼットの頬を大粒の涙が伝う。
その姿を見て、私の胸中にふつふつと怒りが湧いてくる
「ご両親、エルネス男爵に相談は?」
「はい。ですが、相手が浮気をしていない、私がウソを言っているだけだと主張されてしまっては、こちらの家名に一方的に傷がつくと」
なるほど、せめて、相手が浮気していると認めさせてからでないと、伯爵家と男爵家の格の違いで不誠実であったのはリゼットの方だとされてしまうということか……。
リゼットの涙が止まらず、ついには「ううっ」と小さく嗚咽を漏らし始めた。
「もしよろしければ、お茶を召し上がってください。カモミールが入っていますので気持ちが落ち着きます」
この店で出されるお茶はすべてハーブティー。訪問者の心を少しでも癒すべくバートラムが丹精込めて作るオリジナルブレンドだ。
「いい香り……」
リゼットはそのカップを口へと運ぶと、かすかに安堵の表情を浮かべる。
……!
私はカップを手にしたリゼットの袖口に目を留める。
袖から覗く細い手首、その手首に紫のラインのようなアザがある。
「そのアザはどうされました? ぶつけたようには見えませんが」
「これは……その……、いつものように逢引きにお出かけになるアルノーさまを引き留めようとして、乗馬鞭で……」
「……!」
「アルノーさまはカッとすると手が出ることがよくあるので……」
浮かんだばかりの安堵の笑み、その上にまた涙がつたう。
――もう十分。
私の胸に怒りが満ちた。
「わかりました。お引き受けしましょう。私が必ず婚約を破棄させます。相手方が一方的に恥をかく形で」
【2】
――翌日。
店の扉は施錠され、扉の前には本日休業の札が吊るされている。
店中には私とバートラムだけ。
今日はリゼットの案件の具体的な作戦を練る日に充てる予定だ。
昨日、依頼を引き受けたのち、私たちはリゼットからさらに詳しく事情を聞いた。
「アルノー・ヴァルディは毎週、逢引きに出かける。そのことをリゼットには隠さない。けれど外向きには友人のジュリアン・ラングレー子爵宅を訪ねていると言い張っている。そういうことね」
「はい。その子爵殿とアルノーさまは子供の頃からの付き合いで、秘密を漏らすことはないだろうとのこと」
幼馴染の絆は深いということか。
浮気のアリバイ工作にも鉄の結束があるということだ。
「で、両家について調べはついた?」
「はい。報告いたします。ヴァルディ伯爵家はヴェルダンヌ公爵家の親戚筋ということで、自分たちも名門であると自負心が強いようですな。一方リゼットさまのエルネス男爵家は爵位があると言っても、経済的な余裕はないようで、貴族学校に通うのもやっとのようすです」
さすがはバートラムだ。昨日の今日で仕事が早い。
なるほど、伯爵家と男爵家、その家格の差以上に両家には格差があり、だからこそ、これほどまでに無礼に振舞えるということか。
「この家の差であれば、たしかに浮気を告発しても、『虚言だ』の一言でねじ伏せられるかと。侍女など事情を知っている者もいるはずですが、証言は難しいでしょうな」
「なるほど……。ならばあとでもみ消させないように、多くの人の面前で、浮気を認めさせないとね」
私は椅子にもたれ、少しだけ考える。
できれば自ら罠にはまる形がいい。アルノーが堂々と浮気などしていない、友人の家にいっただけにすぎないとアリバイを主張し、それを逆手にとって……。
その時、私の脳裏に一つのアイディアが浮かんだ。
「——あれを使いましょうか」
独り言のつもりが声になった。
「あれと言いますと?」
「先月、ライナルトからの贈り物があったでしょ。どうしたものか扱いに困っていたのだけれど、あれを使わせてもらうわ」
「あれを……ですか? どのように」
さすがのバートラムでもこの情報では私の意図を理解できず、小首をかしげている。
「まずは……」
改めてバートラムに自分の脳裏に浮かんだ作戦を丁寧に話して聞かせる。
このときの私の顔には怪しい笑みが浮んでいたことだろう……。
【3】
――それからひと月後
私はバートラム、リゼットと共にヴァルディ伯爵家の屋敷を訪れていた。
「いよいよ、その日が来たのですね」
リゼットは正門の前で緊張した面持ちを浮かべている。豪華な鉄製の門扉は開かれており、次々とドレスアップした招待客が門の中へと入っていく。
今日は伯爵家、当主、アルノーの父親、ディエゴ・ヴァルディの誕生日を祝うパーティーが開かれており、親戚をはじめ、親交のある貴族たちが集まっている。
もちろん息子の婚約者であるリゼットも招待されており、私とバートラムはリゼットの連れという名目でパーティー参加する予定だ。
「そんな怖い顔をしないで。門に恨みがある人みたいですよ」
私はリゼットのこわばった顔を少しでも和らげようと、少し冗談めかして言う。
「門にはないですが……この門の奥にいる人間には恨みがたっぷりと」
「婚約破棄代行商会モームリデゴザイマスは最悪のクオリティを保証します。
ヴァルディ家、地獄の誕生日パーティーをお楽しみください」
私たちそう言うと、リゼットをエスコートするように少し前を歩いて門をくぐる。
幸いパーティーの場とあって、私の仮面舞踏会風ハーフマスクも特にとがめられることはなかった。
伯爵家のメインホールには百人以上の参加者が集まり、笑い声とグラスの音が華やかで贅沢なさざめきを作り出している。
ヴァルディ伯爵家の広間は、父親の友人や親戚筋の年配層の面々、そして、アルノー・ヴァルディの姿もある。取り巻きの若い紳士淑女に囲まれ実に楽しげ、取り巻きの中には、口裏合わせの友人、ジュリアン・ラングレー子爵の姿もある。
「決行のタイミングはアルノーが父親にお祝いのスピーチをする直前なんていかがでしょう?」
「それはまさしく最悪ですわね」
私がリゼットの耳元で、そう囁くと、リゼットも怪しい笑顔を浮かべる。
そんなリゼットの怖い笑みに誰も気づくことなく、つつがなく主要ゲストからのお祝いのスピーチが始まる。
そして、ついにその時――。
アルノーがスピーチのためのメモを手に壇上へと上った。
「さて、行きましょうか」
私はハーフマスクをつけたまま、リゼットとバートラムを伴って、舞台の前へと進み出る。
「アルノー・ヴァルディさま」
「ん? リゼット、そちらはどなたかな?」
壇上でアルノーが少しイラついた様子で眉根を寄せる。
スピーチの邪魔をされて不愉快なのだろう。
しかし、こんなことでご機嫌ナナメになってもらっては困る。
貴方のご機嫌はこれからナナメどころか垂直に降下するのですから。
私は壇上へと上がる。
アルノーに正対するなり、間髪入れずに言い放つ。
「アルノー・ヴァルディ、あなたはリゼットという婚約者がありながら、堂々と浮気をなさっていますね」
騒ぎが起こるかと予想していたのだが、むしろ音が止まった。
みな、驚きの表情で成り行きを見守っている。
「急になにを言い出すんだ。そんなことしていない」
アルノーは即答する。薄く笑い、肩をすくめた。
「否定なさるのですが、これまでリゼットさまには隠すことなく、女性と遊びにお出かけだったと聞きましたが?」
「それはリゼットの虚言だ。証拠でもあるのか?」
まあ、そう言うだろう。まったくもって予想通り。
「ではお尋ねします。先週末はどこに?」
「ジュリアン・ラングレー子爵の屋敷だよ」
アルノーは壇上からジュリアンへと「頼んだぞ」言わんばかりの視線を送る。
「なるほど、では先々週は?」
「同じだ。ジュリアンの邸だ」
「随分と足しげくジュリアンさまのお屋敷に通っておいでですね」
「幼馴染だからな。毎週のようにチェスをプレイしている」
その言葉にジュリアンが大きく頷く。
やはり竹馬の友の口裏合わせの絆は固い。
「それでしたら、見慣れていると思うのですが……」
私は半歩だけ近づき言葉を続ける。
「ジュリアン・ラングレー子爵のお屋敷のエントランスに飾られている絵画の名前は言えますか?」
「なんだと?」
「いえ、何度も見ているのですから、ご存じでしょう? 名前を失念されているのであれば、どんな絵であるかでも結構ですので」
アルノーは鼻で笑い、周囲へ視線を滑らせた。
「大画家エッシェンによる風景画の傑作、タイトルは『湖畔』だ。これでいいか」
勝ち誇ったかのように口の端を歪ませ、私を見下ろす。
「あら、本当かしら」
私は首を傾げ、ジュリアンへと視線を移す。
「それは先月まででは? ……ねえ、ジュリアンさま」
視線が一斉に子爵へ向く。ジュリアンはグラスを持つ手を一瞬だけ固くし、ばつの悪い笑みを作った。
「そうだ。最近絵を変えたんだ。ライナルトの美人画に」
ジュリアンはばつが悪そうに答える。
「おかしいですね、先週も先々週も訪問されて、あの絵に気づかないなんて、ライナルトは奇才の画家。あの抽象的な美人画は、一度見れば忘れない。忘れるはずがない」
「く、……くそっ」
アルノーの口元が今度は怒りと動揺で歪む。
「なんで勝手に……」
「勝手にって……事情があるんだよ。っていうかお前、誰だ? なぜ絵を変えたことを知っている。こんなチビ、屋敷に来た覚えはないぞ!」
もちろん私もジュリアンと面識がないし、屋敷に行ったこともない。
そしてお前の質問に答える必要もない。
「それでアルノーさま、子爵の邸宅には行かず、どちらにお泊りで?」
私は声を少しだけ落とす。
「もしかして白鷺邸では? 素晴らしいホテルですよね」
アルノーの目が点になる。
「あのオヤジ、口止めしたはずなのに……!」
(あら、簡単にブラフに引っかかってくれた)
ジュリアン子爵の邸宅のあるヴァランディーヌ河岸の高級ホテルといえば白鷺邸。
アルノーの高慢な性格を考えれば、豪華に逢瀬を楽しむだろうと予想しただけのこと。
しかし、アルノーは絵画の件が図星だったせいで、勝手に裏を取っていると勘違いしてくれた。
いまこそ一気に畳みかけるときだ。
裁判であればまだ証拠は不十分だろうし、アルノーにも申し開きしたいことはあるだろう。
しかし、これは裁判ではなく、婚約破棄。
わざわざ浮気男の言い訳を聞いてやる義理はない。
ことの成り行きを見守っている聴衆に、不義理を働いたのは誰なのか、印象づけてやればいいのだ。
「先ほどこの男はあろうことかリゼットさまを嘘つき呼ばわりしましたよね。みなさん、アルノーさまのこの真っ青な顔をご覧ください。もうお分かりですよね、誰が嘘つきなのか!」
私の身体は小柄だが、声は非常に通る。
強く、まっすぐな声が会場を駆け抜けていく。
「リゼットさまはこのようなことをお望みではありませんでした。しかし、どれほどいさめても浮気をやめず、それどころか開き直り、嘘つき呼ばわりする。これではリゼットさまの名誉が守れませんので、やむなく友人の私がこうして事情をつまびらかにしたのです」
私は鍛えられた声で朗々と謳いあげると、壇上からリゼットに向かって手を差し伸べる。
「さあ、リゼットさま、どうぞ」
私のエスコートでリゼットが壇上に上がる。
私の店を訪れたときのおどおどしたリゼットではない。
堂々とアルノーの前に立ち、その顔を睨みつける。
「わたくし、リゼット・エルネスはアルノー・ヴァルディとの婚約を破棄します!」
「お集まりのみなさんが証人です。いま、アルノー・ヴァルディの不義理により、二人の縁は断ち切られました」
私の拍手が静まり返ったホールに高らかに鳴り響く。
と、それをきっかけにホールにざわめきが戻ってくる。
先ほどまでの楽しげなものではなく、混乱と怒りの色を含んだ騒々しさではあるが。
「アルノー、やってしまったな」
「これはヴァルディ家の恥だ」
「正直、そんなことだと思っていたんだ」
口々にアルノーを責める声。その声は当然当人の耳にも届き……。
そして、我を失わせた。
「お前、何者だ」
アルノーが血走った眼で私を睨みつけ、私のマスクを指差す。
「そのマスクを取れ!」
私の顔めがけて、荒々しくアルノーの腕が伸びる。
リゼットの言った通り、カッとすると手が出る男だ。
そのかぎ爪のように開いた指が私のマスクに触れた瞬間――。
私はその手首を取り、身をひるがえして円を描くように反転し、手首の関節をキメる。
力はいらない、そのまま、親指を下にして、手首の関節をねじったまま押してやれば……、ほら、アルノーが顔から床に突っ込んでいく。
まるで床に手をつき、詫びているかのように。
「大丈夫ですか?」
リゼットが心配するのはもちろん私。
私はアルノーの腕を制したまま、余裕の笑みを返す。
「土下座オプションと物理攻撃オプションを使ってしまいましたが、これはおまけしておきます」
【4】
私、ジェフ・バートラムは婚約破棄及び離婚代行商会〝モームリデゴザイマス〟の従業員——ということに、ここではなっている。
今日も従業員として、店を開く準備に取り掛かる。
窓を少しだけ開け、さわやかな朝の空気を入れ、床板を拭き、デスクと応接用のソファーセットを軽く布で拭く。
最後に、デスクの後ろの壁にそっと新しい鏡を掛けた。
銀の縁が控えめに光る。百年ほど前のアンティーク品だそうだ。
「壁紙と合ってるわね、大きさもちょうどいい」
声に振り向くとこの店の主あるサーラの姿がある。
「それにしても、よろしかったのですか、謝礼はこの鏡代で」
この鏡はリゼットからの贈り物。
婚約破棄代行の謝礼代わりに受け取った物だ。
安くはないだろうが、代金としては格安だ。
「ずっと、ここに鏡がほしいって思ってたのよね」
サーラは愛用のゼラニウムの刺繍をあしらったハーフマスクを着用して、鏡を覗き込んでいる。
マスクをつけたとき、髪が乱れていないかチェックするために、ずっと鏡が欲しかったらしい。
その姿を見て、私は肩をすくめる。
「ライナルトの絵画をジュリアンさまのお屋敷へ送りつけたことを考えると、大赤字ですな」
「ふふ、でも王家からの贈り物とあっては、飾らずにいられないでしょ」
彼女は小さく笑う。
あれからもう一週間が経ったか……。
たしかにアルノーの口裏が絵画一枚で崩壊したさまは、実に爽快だった。
サーラは鏡に映った自分のマスク姿に満足すると、紐に指をかけ、マスクを外す。
隠されていた目元が露わになる、
顔には傷ひとつない。控えめにいっても美貌の持ち主。
小柄な体格とやや丸いフェイスラインが幼い印象を与えるが、その目は独特の力強さを感じさせる。長いまつ毛、くっきりとした二重瞼、そして琥珀色に近いブラウンの瞳。
幾人もの画家、そして、気鋭のライナルトの創作意欲を掻き立てたサラフィナ王女の面差しが鏡に映し出される。
「この仕事は儲けなど端から求めていないもの」
サーラことサラフィナ王女が鏡越しに言う。
「爵位をもった人間は誇り高く、高潔で、市民の見本となるふるまいをせねばならない。我が国の爵位を汚す者は排除する。それが王家の務め」
「まことに。私も姫の執事として、微力ながらお支えいたします」
私は鏡に映ったサラフィナ王女に頭を下げる。
「それに――」
王女はくるりと振り返ると、私に向かっていたずらっぽく笑う。
「私、あの絵、気に入ってなかったのよね。だって私、あんな変な顔してないもの」
子爵の邸宅に送り付けたライナルトの肖像画は「見えていないものもすべて一度に描く」というコンセプトで、顔と後頭部、正面と背中、すべてが描かれた、よく言えば野心的、正直に言うと滅茶苦茶な作品だった。
王女はその作品を持て余し、どうしたものかと考えていたらしい。
「それで、今日の予定は? アポイントメントは入っているの?」
「はい、婚約破棄を望む令嬢が間もなく、午後に離縁を望むご婦人からもう一件」
「わかったわ」
王女はふたたび愛用の白金の刺繍の入ったハーフマスクを装着する。
刺繍のモチーフである白のゼラニウム、その花言葉は――。
『あなたの愛を信じない』
読んでいただきありがとうございました。
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