第一章 旅の一行(2)
楼杏はズシズシと地を踏みしめ歩いていた。
水の香りが漂い、見慣れた背中が視界に入ると楼杏はスッと息を吸い込む。
「朔潤!!」
楼杏の声に2歳年上の幼馴染はのんびりと振り返った。
そのちっとも後ろめたそうにない様子に楼杏の苛々は益々募っていく。
「おー、チビ助。どうかしたか?」
「チビ言うな!何やってんだよ、こんなとこでっ!璋彬が心配しているぞ!!」
「あぁ、すぐ戻るよ。」
声高に言う楼杏とは対象的に彼はちっとも焦ってなんかいなかった。
「すぐ戻る」と言いながら、楼杏が来る前の体勢に戻ってしまっている。
突然不思議な気分に陥った。
記憶の中の彼はいつもこの場所でこの体勢で同じ所を見つめている。
背中の大きさだけが変わっていっているのだ。
「……また川の向こうを見てたんだ。」
「そうだなぁ。」
川辺で、小さな草花を弄びながら彼は向こう岸に広がる森を見つめては空を見上げ、そして森を見つめる。
そうしたって川を飛び越えて出て行けるわけでもないのに。
楼杏が兄のように慕う彼はいつもそうだった。
目は向こう側を見つめたまま、振り返ろうとしないのだ。
今のように楼杏が彼の斜め後ろに立ったって。
まるで楼杏たちなんてどうでもいいと告げているようで、そんな彼を見るのが嫌だった。
苛々とした勢いそのままに、彼の隣の腰掛石に座る。
「もう止めろよ!璋彬に聞いたぞ。また叩かれてたって。」
「そうだなぁ。」
でも、楼杏は知っていた。
「そうだなぁ」って言ったって彼はやめないのだ。
そうしてまた大人たちに叩かれて、でも彼は懲りずに此処に来て。
泣く璋彬に頼まれて、また楼杏が彼を呼びにくるのだ。
「楼杏、この川の向こうはどこまで続いているんだろうな。」
相槌を求めない問いかけに楼杏は黙って川の向こう側を見つめた。
朔潤の心を独り占めにする向こう側なんてなければいいと思った。
広がっているのが悪いのだ。いっそのこと暗闇だったら。
いや……それでも幼馴染は行動を変えやしないのだろうけれど。
*
「ギャーーーーーーーーーーーーーッッ!!」
……懐かしい幼馴染の声や顔が光と共に薄れていき、目を開けた楼杏は次の瞬間目一杯絶叫した。
寝起きの声とは思えないその音量が森全体に響き渡る。
下手したら山脈全体にエコーしてそうなその声に、同行者達が驚かないはずもない。
「ど、どうしました?!」
「イ、イザヤの顔がっ……!!!」
「……なんだ、そんなことか。」
「そんなこととはなんだっ!!目覚めたらこのでっかい顔が目の前にあんだぞ?!尖った牙が目の前に見えてんだぞ?!生命の危機を感じないか?!感じるだろ!!って、ギャー!!ば、ばる、あんたなんで剣構えてんだよっ!?」
こっちなんて一瞥もせずセシリアに擦り寄っている銀の獣を指差しながら力いっぱい力説する。
そして、同じく同行者であるヴァルが長い剣を構えているのを見て飛び上がった。
「……すまん、条件反射だ。」
「物騒だなっ!!」
淡々と言って剣を腰に戻すヴァルに打って響くようなツッコミもかかさない。
もうその一連の動作に遠慮も怯えも一切なかった。
……当たり前だ、初めて会って、もう3日目なのだから。
初めて会ったあの夜、闇に照らされた2人と1匹の姿はとても恐ろしく思えた。
だけど夜が明けてみると……そんな感情ははるか彼方に飛んでいってしまった。
「せしー!イザヤをどうにかできないのかっ?!」
「申し訳ございません、楼杏様。」
「謝んなくて良いからどうにかしてくれよぉ……あ、おはよう、せしー。」
「善処してみますわ。はい、おはようございます、楼杏様。」
朝の光を浴びて微笑む彼女はとても綺麗だったから。
出会った次の朝もそう思った。そう、不思議と銀の髪も全く怖くなくなっていたのだ。
思ったことを言わずにいられない楼杏はその瞬間から「綺麗」を連発しまくって、そうこうしているうちにすっかりと打ち解けてしまった。
……と、楼杏は思っている。
それに彼女の美しさは髪だけではないのだと、もう楼杏は知っていた。
「やっぱり、せしーの瞳は朝が一番綺麗だなぁ」
じっと、その瞳を覗き込む。
セシリアの瞳。初対面のときは紺色だと思っていたそれは、朝目覚めてみると薄く澄んだ空色をしていた。
そして、その瞳は昼になれば青みが増し、夕刻には朱色に染まり、日没と共に紺から闇色に染まる。
『ソラ』の瞳と言うそうだ。
「外の世界ってすごいんだなぁ……」
里に住む者はみんな黒い髪に黒い瞳だ。そりゃ、髪が白くなった者もいるが。
それでも、瞳の色が変わる人なんて初めて見た。
そう目を輝かせて感心する楼杏に、隻眼の青年ヴァルはこっそり溜息をついたが訂正することはしなかった。
ただ無言で朝食の準備を始める。
「あー!ばる、今日はおれがご飯作るって言ったじゃん!」
「……顔でも洗って来い」
その短い返答に楼杏はピシリと固まった。
この旅の一行は洗顔も身体の洗浄も…とにかく水を使うときは川へ行く。
川へ直接つかったり、直接手を入れたり……初めてその様子を見たときは仰天したものだった。
楼杏の里の者は水を嫌う。生活水は井戸から汲み、身体を清めるのは濡らした布を使う。
川――流れる水に直接触れるなど末恐ろしいことである。
そのうえ川に落ちて溺れた身だ。
川での洗顔は3日たっても慣れない習慣であった。
「うぅうぅ……」
川の冷たさを思って楼杏は唸る。
「今日は洗わなくてもだいじょー……」
「涎の後がついているぞ。」
こちらを見もしないヴァルの言葉にピシリと固まる。
慌てて口元をこするが、とれたかどうか分かりやしない。
「頭も土だらけだから洗って来い。」
「へ、頭?」
目を丸めると返ってきたのは疲れたような溜息。
「……寝相最悪だな。」
その言葉に今度は泣きそうになる。
確かに楼杏の寝相は悪い。
隣で眠る父の顔面を蹴飛ばして以来、蒲団を遠くに離されたほどにひどい。
囲炉裏の周りを頑丈な柵で覆い、完全に火を絶てないほど寒い日は身体を縄でぐるぐる巻きにされて繋がれるほどにはひどい。
試しにボサボサになっているであろう頭に手を差し入れると、案の定茶色いかたまりがボロボロと落ちてきた。
「は、叩き落とすから!」
「メシ食わさないぞ。」
「それは嫌だ!!」
反射的に答えるとタオルを投げてよこされた。
ヴァルは相変わらずこちらを見もせずに黙々と朝食の仕度中だ。
悔しいがもう何も言い返せない。
見たことのない食材を使った料理はほっぺが蕩け落ちそうなくらいに美味しかったのだから。
……仕方がない、こうなったらなるべく水を使わずに綺麗にしてこよう。
幸い、ここから川は少し離れている。なんとか誤魔化せるにちがいない。
そうこっそり心に決めるが、数瞬後にはその考えを撤回せざるをえなくなった。
「楼杏様。私もお供いたしますわ。」
銀の獣を従えて何の打算もなく微笑む美しいセシリアによって。
*
ヴァルから貰ったタオルを川にさっとつけて、それで顔を拭いた。
恐る恐る覗き込んだ水面で顔の汚れを確認して、せっせと綺麗にしていく。
その様子をセシリアはそっと窺っていた。
同じく水面を鏡として、ゆったりとした動作で己の銀の髪を結っている。
そんな自分は山奥のこの川を美しいと感じるが、楼杏にとっては恐ろしいものでしかないらしい。
実は、水汲み用の小さな桶も持ってきているから楼杏に貸してあげればいいだけなのだ。
が、それにはヴァルが否を答えた。
理由はよく分からない。満足に水を扱えないのは足手まといだと思っているのか、大切な旅道具である桶を貸せないと思っているのか……。
それでもセシリアは知っていた。隻眼の青年には何か考えがあり、そして彼はとても優しい人だということを。
だから、彼女は彼の意見に従っている。
「せしー、顔の汚れとれた!」
自分を呼ぶ声に顔を向けると、そこには満面の笑顔があった。
自然と自分の頬も緩むのが分かる。
「まぁ、よろしゅうございました。お次は頭ですわね。」
顔の汚れは綺麗になったが、まだ頭は土だらけだ。
そこを指摘すると晴れやかな顔が途端に曇っていく。
「まずは手とタオルで土を落とし下さいませ。」
そのときに顔にも汚れがついたりするため、本来は頭から綺麗にするべきだ。
でも、そんな顔されてしまったら「やり直せ」なんて言えない。
自分まで、心が曇っていく気がしてしまう。
「……そうしたら、後はお手伝いいたしますわ。」
甘やかしてはいけないんだろう、とは思う。
自分が信頼を寄せている青年は、楼杏に全てできるようにさせたいらしかった。
でも、この曇り顔で泣きそうに見上げられてしまったら。
「!!ありがとう、せしー!!」
この満面の笑みを向けられてしまったら。
つい、手を差し伸べてしまいたくなる。
「どういたしまして。さ、時間がなくなってしまいますわ。」
「あ、そうだね!ご飯食べれなくなっちゃう!」
おっとりと促すと、楼杏は慌てて水面と睨めっこしながら髪の土を落としだす。
その真剣な横顔が微笑ましい。
川に流されてきた少年、楼杏は不思議な子供だった。
黒い髪と黒い瞳、そして日差しのあまり差さない里で育ったからという白い肌。
日が差さず、食事も栄養価が足りないのか驚くほどに細く小さな身体。
初めは10歳くらいかと思ったものだ。だから自分の1つ年下と聞いて驚いた。
そんな子供はよく笑った。
初めて会ったときはセシリアの‘色’に驚き怯えていた。
それも仕方のないことと思ったのに……翌朝、「綺麗だ」と笑うのだ。
時と共に移ろう『ソラ』の瞳をじっと真正面から覗き込んで、嬉しそうに笑う。
無知な子供は無垢だった。
セシリアは心の底からの賛辞に戸惑い、楼杏は初めて知る数々のことに瞳を輝かせた。
ヴァルも楼杏には素っ気無いが見守り、獣は初めこそ反対したものの今では黙認してくれている。
そして、完全なる部外者を迎えたはずの一行は平穏の時を築いている。
不思議な、子供だった。
「せしー。」
「はい、なんでしょう?楼杏様。」
考えに耽っていたなんて気取られないように自然に顔をあげる。
と、楼杏が思ったよりも近くにいて驚いた。
しかも、セシリアの手元を凝視している。
「それ、なに?」
「え?」
つられるように、少し青みを帯びてきた瞳を動かす。
自分の手元にある美しい瓶の数々。
「化粧品ですわ。」
「け、けしょーひ、ん?」
言い慣れない言葉なのだろう。楼杏が多少つっかえながら繰り返す。
どうやら、楼杏の里にはないものらしい。
心底不思議そうに首を傾げる。
「なんで、『けしょーひん』を顔につけるんだ?」
「こちらをつけると肌の保湿効果が保たれます。こちらは肌を日の光から守るために、こちらは肌を白く保つために、こちらは……」
1つ1つ手にとり説明するが、楼杏は益々混乱して眉を下げる。
「よく分かんないんだけど……全部、顔に塗るの?」
「はい。」
頷くと何故かとても渋い顔になる。
「……外の世界じゃアタリマエ?」
「はい。女性にとってはそうですね。」
水が嫌いな楼杏にとって、液体を顔に塗りたくるという行為は信じられないんだろう。
自分が塗らなきゃいけないわけでもないのに、少し嫌そうな目で「こんなに……」と呟いた。
が、それにはセシリアが不思議そうな顔をする。
「まだほんの一部ですわ。」
「ええ?!まだあんの?!」
「はい。化粧品は大きく分ければ2種類あって、これらは肌を美しく保つためですが、他のものは肌を美しく飾るためにあります。」
濃い化粧があまり好きでないセシリアだって、この何十倍もの数の化粧品を所持している。
旅の荷物の中に『飾るための化粧』もいくつか入っていたが、山の中だしとそれらは使っていない。
……肌の手入れだけは怠るなと出立の時に言われたから、こうして毎日の手入れは欠かさないが。
「身分が高かったり資産家であればあるほど所持する化粧品の数は多いと聞きますわ。」
特に社交界デビュー済みのものはそうだ。皆、己や娘を着飾ろうと必死に膨大な数の化粧品を求める。
ゆえに、淑女の多い舞踏会や夜会は化粧の香りでむせ返りそうになるほどだった。
……セシリアも、そんな世界に身をおいていたのだ。それが今や禁域とも呼ばれる山奥で連日野宿をし、山奥の里で生活する者と懇意にする。
その格差がなんだか少しおかしくて、セシリアは小さく笑った。
「なに?」
「いいえ、なんでも。」
化粧品の数で競う令嬢たちには分からないだろう。
この、表面を飾る必要のない清清しさは。
「土汚れはとれたようですわね。では、お髪を清めさせてくださいませ。」
最後の化粧水を顔にしっかりとつけて、楼杏を招く。
が。
「おぐし……?きよ……?」
黒目がちの大きな瞳をぱちくりとさせるだけ。
少し、分かりづらい言い回しだったようだ。
「楼杏様の髪を洗わせて下さいな。」
少し考えてから言い直すと、楼杏は笑顔で近寄ってきた。
洗いやすいようにすぐ目の前に腰を下ろしてもらった。
セシリアの後ろでくつろいでいたイザヤがギロリと睨んできたが、楼杏は意地悪そうに笑って「いいだろー」と口を動かした。
セシリアが生まれたときからずっと一緒だという獣は鼻を鳴らすような仕草をして、少し前に進み出てまた伏せる。
その位置だと楼杏の斜め後ろにイザヤの鋭い爪があって少しおっかない。
「……せしー。イザヤの爪怖い。」
「まぁ。イザヤ、楼杏様に失礼ですよ。」
主人にたしなめられて、イザヤは渋々爪をしまった。勿論、楼杏に一瞥くれてやるのを忘れずに。
初めて会ったときは怖かったそれも、セシリアの言うことは絶対だと分かればそんなに怖くない。
馬より小さくて鳥より大きな動物。
なんと言う種類かは知らないけれど、セシリアと同じ色の毛並みはとっても綺麗だと今では思う。
「なぁなぁ、どうやって髪洗うの?水使わない?」
やはりどれだけセシリアに懐いていても、頭から水を浴びたりはしたくないのだろう。
怯えたように自分を見つめる楼杏に、何か打開策は、と考えた。
水に濡らしたタオルでふき取るだけなら今までと何も変わらない。
しかし、服を着たまま頭を濡らすとなると川に頭を突っ込むしかない。
本当に少しの、でも髪を濡らすには充分な量の水を楼杏が怯えないように、かつ服が濡れないように浴びるためには……。
「水は使います。でも、川の水は使いませんわ。」
セシリアはこの方法しか知らない。
きっと楼杏はひどく驚くだろうけど……きっと瞳を輝かせてくれるに違いない。
そんな確信がいつの間にか生まれていた。