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第一章  旅の一行(1)


『……あるじ、衣服を御身におつけ下さい。』


そう声をかけてきたのは、生まれたときから自分を守護する白銀の獣だった。

顔を上流へ向け静かに喉を鳴らす様子に彼女はハッとして衣服を身に着ける。

水によって綺麗に洗い流された青い耳飾がしゃらんと揺れた。


「イザヤ、何かありましたか。」

『……川に禍々しいものが。』


岸に上がった彼女を守るように獣が前に出る。

身をひそめるように獣の後ろに立ち、その影から目を細めて上流を見据える。

それからすぐ、緊張した面持ちで川を見つめていた彼女は息を飲んだ。

獣の言った通りに黒い塊が流れてきている。


しかし、あれは……人間だ。


「イザヤ!あの方をこちらへっ!!」

『御意。』


主の声に白銀の獣は地面を蹴り、まるで飛ぶようにして向こう岸へ渡るとまたこちらへ戻ってきた。

その際に口でそれを銜えている。

近くで見るとそれは黒い髪のひょろっとした子供だった。

顔色は青白く、ぐったりとしたまま目は閉じられて開かない。

彼女は急に不安になった。怖くなった。……死んでいるのだろうか?


「……生きていますか?」

『かろうじて。……いけません!!』


駆け寄ろうとする彼女を子供を銜えたままのイザヤは止める。

イザヤは口を開けて話しているのではなかった。

何重にも聞こえる彼の『声』は1つの音として主である彼女の脳に直接届くのだ。


『何か禍々しいものが身のうちを巣食っております。お近づきになられない方が宜しい。』

「でも、介抱しなくては……!」

『……この者は主の命であれば我が一時浄化しよう。』

「分かりました。イザヤ、頼みます。」

『御意。』


イザヤは子供を横たえると、その心臓に頭を寄せる。

額の3枚の花びらのような紋様がボウッと浮かび上がった。

守護獣の術を確かめた彼女はすぐに踵を返し森へ入る。

同行している男を呼びにいくのだ。

あの子供は黒い髪をしていた。「あの人」の一族の子供かもしれない。


それに例えそうでなくても、命が消えかけそうな人を見捨てれるはずもなかった。




*




水は柔らかい。


そもそも水には実態がなく、つかむこともできないものだ。

そのことを楼杏はよく知っていた。

それでもやはりこの川の水は別だと思った。

流れに触れた途端、水は楼杏の小さな体をひどい勢いで追いやった。

同時に鎖のように水は楼杏自身をからめとった。

一方では追いやろうと一方では捕まえておこうと。

容赦なく肺の中に入り込んでくる水と2つの力に遂に楼杏は意識を手放した。

その間際浮かんだものは頑固で厳格な父と優しい璋彬、そして、2年前から会っていないもう1人の幼馴染の姿だった。


――なぁ、朔潤、お前はどうやってこの水を越えたんだ?




*




「気づかれました?」


最初に見たのは光だった。

ひどく淡い。ひどくぼやけている。光を見ようとする心が悲鳴をあげ、潰されそうだった。

それでもその光は綺麗で、向こうにあるものを見てみたいとも思った。


「だ・・・れ・・・?」


女の声だった。

でも、聞いたことのない声だ。朝の木漏れ日を歌うような声だ。

「誰?」と聞いたつもりだった。だが、喉の奥がひどく熱くてうまく声になったかは分からない。

でも通じたのだろう。光の向こうにいる女が笑ったような気がした。


「それは後ほど答えます。今はこの薬湯を飲んで下さい。楽になりますから。」


薄く開いた冷たい唇に陶器のようなものが触れた。

続いてドロッとした液体のようなものが流し込まれてくる。

その液体が触れると喉が焼けるように熱く感じた。

呼吸がうまくできずに咽そうになる。

その度に陶器が口から離され、楼杏が落ち着くとまた流れ込んできた。

どれくらいの間それを繰り返したのかは分からない。

だが、誰かのホッとついた息を最後に、再び液体が流れ込んでくることはなかった。


「……飲んだか。」


女の向こう側から声がした。

男の声だ。楼杏の父のように低くて無感動な――でも、父よりも少し若い感じがした。

やはりこの声も聞いたことがない。


「はい、全部。」

「……よく飲めたな、それ。」

「感覚がまだはっきりしていないのでしょう。お兄様直伝なので、効くと思いますが。」


よくは聞こえないが、何か話しているようだった。

この2人は何者なんだろう。

そして此処は何処だろう。確か自分は川に落ちたはずだ。


自分の右手を意識すれば、落ちる前に追った飾り布を握っていることが分かって安堵した。

次いでよく意識すれば体のあちこちが冷え切っている。

自分は死んだのか。

となると此処は・・・神である鵬崙公のお膝元だろうか。


「即効性か?目が開いてきたぞ。」

「…聞こえますか?」


ぼうっと考えているうちに感覚が戻ってきたようだった。

最初に聞こえた柔らかな声に小さく頷いて、その声の主を見ようと目をこらす。

光とともにその姿が映ると、重い瞼なんて気にもならずに黒い瞳を大げさなくらいに見開いた。


真っ先に目に飛び込んできたのは、女をまとう銀の色。


「おまえ・・・人間・・・?」

「……他に何かに見えますか?」


呟きに答えた声は意外にも困ったような寂しそうな響きがあった。

ふっと焦燥にも似た想いが沸きあがって慌てて彼女をもっとじっと見つめる。

夜に向かう空のような暗い紺色の瞳は、心配そうにこちらを見つめていた。

年の頃は楼杏より少し上くらいであったが、女は見たこともない姿をしていた。

さほど大きくない身体をすっぽり覆うのは大きな茶色の外套。

頭を覆うフードは後ろに外されていて、顔の両側で編んでいる柔らかそうな髪は驚いたことに黒じゃない。

父の持つ刀剣をよく磨いたものが光に反射して生まれる色だ。

やはり人の形はしているものの、髪の色も目の色も人としてあっていいものなのだろうかとも思う。


楼杏は、自分と同じ黒髪黒目以外の人間を見たことがなかったのだ。


「おい、ガキ。」


深みのある低い声につられて顔を上げる。

そしてまたそこで目をしばたかせた。

この男こそ、「人としてあってはならない」にふさわしいかもしれない。

年があるとしたら20代半ばだろうか。

服の上からも分かるほどよく鍛え抜かれた体。

それを彩る色は楼杏の肌よりもむしろ髪の色の近い。

老齢の樹木のような肌に、髪は日が沈みきる直前の濃紺――白銀の女の瞳の色と似ている。

暗い色彩の中に浮かぶたった1つの瞳だけが、火に照らされて赤く映った。


「うわっ・・・!」


醜いわけでも、楼杏に襲い掛かろうとしているのでもない。

少し離れたところの木によりかかって立っているだけなのに。

恐ろしい存在を目の前にしたように、一瞬肝が冷えた。

男はそんな楼杏をまるでつまらないものかのように一瞥し、薄く嘲った。


「本物の『人でないもの』で暖をとっておいてよく言う。」

「ヴァル様。」

「え・・・?」


女が男をたしなめる。

でもそんなことより、楼杏は男が言ったことの方が気になった。

自分は川に落ちたはずだ。なのに、今は寒くない。

日は落ちて辺りは薄暗く、すぐ傍には火が焚いてあり暖かい。

火で温まっているのだ。では、背中は?

温かい藁か何かかと思っていたそれは、ひどく柔らかくふさふさしている。


「なっ・・・!」


恐る恐る振り向いた楼杏はそれにもたれた姿勢のまま固まった。

それは確かに人ではなかった。


背が楼杏の目の高さにあった。

毛の長い自分なんてすっぽり包んでしまう体は白銀に輝いている。

それには顔があった。

額に青い花びらを三枚乗せ、馬のように長い顔で瞳は木の実でしか見たことがない橙色だった。

でも、こんな獣まるで見たことがない。


「うわぁっ!!」


獣は呆然と見上げる楼杏と目が合うと、3本ある尾をひらりと振って立ち上がる。

体を預けていた少年は急なことにバランスを崩して前のめりに倒れそうになる。

まだ自由の利かない体は必死でバランスをとろうとし、差し出された手にしがみついた。

けれどもその手に触れた瞬間、妙な感覚が体中を襲った。

バランスがとれた瞬間、楼杏のかさついた手とは比べようもない綺麗な手を渾身の力で振り払う。


「きゃっ・・・!」


逆にバランスを崩した女を、男が駆けて来て支える。

白い獣は楼杏に向かって前足を出し、頭を低くして歯をむき出し、低く唸った。


「イザヤ、やめなさい!」


女が叫ぶ。

獣の名か。

獣はスッと体勢を戻すと、黒い瞳で楼杏を睨みつけひらりと女の隣に降り立つ。

すぐ隣にいた男を3本の尾で払いのけ、女の肩に擦り寄った。


「大丈夫……ですか?」


女の声に楼杏はハッとする。

離れたところに降り立ったため、女の表情は暗闇でよく分からない。

うすら暗い中ぼうっと浮き上がる2人と1匹の白銀の光。

それはなんとも異様で異質な感じがした。

けれども、今度は楼杏の中に恐れは生じない。

楼杏を気遣う女の眼が深く傷ついているのではないかと思った。


「えっと……」

「いいんですよ。」


後ろめたく戸惑う楼杏に女は微笑む。

大きな男と大きな獣を従えて、火で表情の分かるギリギリのラインまで下がった。

楼杏が怖がらないようにと思っているのだろう。

自分で振り払ったはずなのに、胸が痛んだ。

謝らなくちゃと思う。だけど、初めて目にするものばかりの混乱に言葉が追いつかない。


「こ、ここはどこ?おれは生きているよね?!鵬崙公のお膝元じゃないの?」

「ホウロンコウ……?残念ながら、違います。」

「じゃぁ……ここは、外?」


あの、川の向こうに出てきてしまったというのか。


朔潤の憧れていた外の世界?

辺りはうっそうと暗く、白銀の人や獣の住むこの異質な世界が?

恐れていた大人たちが正しく、憧れていた朔潤が間違っているような気がした。

戸惑い、小さく震える楼杏を尻目に男と女は視線を交わす。

何やら頷くと、女がもう少し近くまで進み出てきた。

楼杏を安心させるように微笑む。

髪も目も異質なのに、その微笑みは暗闇に浮き上がり、とても綺麗だった。


「私はセシリア。この方はヴァル様、この子はイザヤです。

 貴方に決して危害は与えないと約束しましょう。怖いのなら決して触れません。

 ですから、貴方のお名前を教えていただけませんか?」


全く聞き覚えのない言葉に目をしばたかせる。

一度で覚えれそうな名前ではない。


「おれ……楼杏。」

「ロウアン?……貴方が?」


名乗ると、女・・・セシリアはその紺色の目を丸めた。

つられて楼杏も驚く。


「おれを知ってんの?」

「……貴方は『朔潤』という方を覚えていますか?」

「!朔潤を知ってんのか!?」


ためらいがちにセシリアの告げた名前に楼杏は心臓が飛び出さんばかりに驚いた。

朔潤。その名前をどうして忘れることができるだろう。

いつだって眠ると夢に出てくる大切な、大切な幼馴染の名前だ。


「えぇ、今年17になる黒い髪と黒い目の方ですね。幼馴染の貴方の話を聞いたことがあります。」

「本当に?!」


喜色の色を浮かべて、恐れなんて忘れた様子で身を乗り出す楼杏にセシリアは微笑んだ。


「はい。『いつも妹と幼馴染と3人一緒だった』と伺っておりますわ。」


続けて言うセシリアの言葉に楼杏は心から安堵した。

生きてた・・・。

楼杏の予想は間違っていなかったのだ。

彼はあの村から憧れていた外の世界へと飛び出したのだと。


「楼杏様。もし貴方の村に戻られるのでしたら、私たちも同行させていただけないでしょうか?」


兄のように慕っていた朔潤のことを知っているということで、この時の楼杏の心はそれでいっぱいだった。

だから彼女たちが意志の強い目で視線を交わしたことにも気づかなかったし、柔らかなセシリアの申し出にも楼杏は無意識のうちに頷いていた。




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