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第一章  木漏れ日(2)

白い雲の合間から薄青色の空が見えていた。

楼杏ロウアンほど太陽の光に焦がれているわけではないけれど、洗濯物を干すならやっぱり晴れているときだと彰琳ショウリンは思う。


「ふぅ。」


父親と自分。

2人だけの洗濯物が綺麗に干されているのを確認して、彰琳はほっと息をついた。

楼杏のところも父と子の2人暮らしだ。

楼杏が干す洗濯物はいつも皺くちゃで、父親に怒られてばかりなんだと言う。

だから一緒にやろうと言うのに、幼馴染は変に矜持が高くて自分だけでやるんだと言ってきかない。


(今頃、洗濯してるのかな)


少し離れた先に見える屋根。

この里は斜面に沿うようにできているため、下に屋根が見えるが、隣家である。

里の家はどこも間隔を空けて建てられているが、楼杏の家は特に離れた位置にあった。

しかも畑を挟んでいるために、家の様子までは伺えない。


(今日、ご飯一緒に食べれるかな)


濁った水の張った洗濯桶をずるずると引きずりながら、明るい幼馴染のことを考える。

この水を畑に撒いたら、午前中の仕事はおしまいだ。

朝に炊いた芋がまだ残っているから(勿論、昼のために多く用意した)、幼馴染に持っていこう。

そう思うとなんだかウキウキして桶を引きずる手に力が入る。

と、家の前を通りかかったところで、その扉が開いた。

驚きに体が強張る。

彼女の見慣れた人物――父親がいっそ奇妙なくらいににっこりと笑いかけた。


「彰琳、お客様がお帰りだ。」


次いで現れた人影を見て、彰琳もやっと頬の緊張を解いた。






「おい、坊主。用がすんだなら、さっさと帰らんか!」


いくら小奇麗にしていても狭くてボロい(と言ったら、雷が落ちること間違いなしだが)小屋の中に怒声が響き渡った。

いや、怒声というほどでもない。彼が本気で怒声を発したら、この小屋なんてすぐにでも壊れてしまうに違いない。


「けーち。」


それを嫌というほど知っていたから、楼杏はさして怯えた様子もなく頬を膨らませた。

一応、耳に指だけはつっこんでいたが。


「まったく。……燕静エンセイに怒られても知らんぞ。」

「父さんは今日、お屋敷に行ってるから大丈夫だ!」


ひしゃげた帽子の位置を正しながら嘆息する彼に楼杏は満面の笑みを浮かべた。

反省の色皆無、だ。


「ばれるとは思わんのか。」

「じぃちゃんは告げ口したりしないだろ?」


呆れ半分で脅してみるが、この天真爛漫な子供には通用しなかったようだ。

その黒くて丸い瞳に疑いの色が全くないことを見てとると、彼は益々呆れた。

これだから、なかなか本気で追い出すことができない。


「だってさー、こいつら面白いんだもん。」


自分が心底呆れられているとは露とも思ってないんだろう。

目的のものに手を添えて暢気に笑っている。


「……どの辺が面白いんだ?」

「人間じゃないところ」

「アホか。」


ケロリした答えに彼……うまやのじぃこと田螺タニシは肩の力まで抜いた。

その肩を彼が世話している栗毛の馬が慰めるように叩いた。

といっても、長い顔を乗せただけだったが。


「お前さん、まさか余所にもこうやって入り浸ってんじゃなかろうのぅ?」

「てへ。」


ポカリ。

今度こそ、殴った。まぁ、彼の分厚い拳の音はポカリなんて可愛いものではなかったが。


「いってー!」


楼杏も楼杏でさっきまで暢気に笑っていた顔を歪ませて涙をためた。

痛い。父親の拳には負けるが、田螺の軽い拳骨だって充分に痛いのだ。


「まったく。サボることを覚えよって。ろくな大人になりゃせんぞぃ。」

「サボってないや!ちゃんと配達しただろ?!」


また脳天は痛かったが、ムッとして田螺を見上げた。

楼杏だって、ただ遊びにきたわけではない。

共同の材木小屋から薪用の木を運んできたのだ。


「『ついでにワシんとこのも持って来い』て言ったの、じぃちゃんじゃないか!」


いつもの早朝のかわやでの世間話で。

今日取りにいくつもりだと言ったら頼まれたのだ。

この里は北に丘、南に林があり中央の共同広場を挟んで集落は西と東に分かれている。

厠や井戸、それに材木小屋があるのは中央の共同広場だ。

最東端にある楼杏の家からはこの厩の横を通らないと行くことができない。

だからついでと言ったらついでだが、それなりに重かったのだ。

それをサボリと言われるのはいただけない。


「すまんすまん、それは感謝しておる。でもなぁ、もう終わったじゃろう。」


確かに、その自分の半分くらいの細い体で荷車をひいてきたときはすまなく感じたが。

あれからしばらく時が経っているのも事実。

それを指摘してやると、楼杏は膨れ面のままふいと横を向いた。


「今は休憩中なんだい。」

「……他の仕事は大丈夫なんじゃな?」

「うん。薪割りしたら昼前の仕事は終わり。」


膨れ面なままの楼杏に田螺は苦笑に似たものを浮かべた。


「薪割りなぁ。お前さんもようやくできるようになったのか。」

「あったりまえ!彰琳のとこのもやってんた。あ、じっちゃんのとこのもしようか?」

「ふん。ワシはまだまだ現役じゃい。」


薪も割れんようじゃコイツらの世話なんかできん。

そう言って後ろの馬の頭を軽く叩く田螺に、楼杏もそうだよなぁ、と笑う。

笑って泣いて怒ったかと思えばもう笑う。

そんな小さな子供に彼も遂に相好を崩して笑った。

やっぱり、これだから本気で追い返せない。


「ん?彰琳のところのも、か?」


ふと気付いて楼杏を見た。

素直に首を縦に振るのを見て、眉を寄せる。

確かに、二軒分にしては多い薪が積んであったが。


「あそこにゃ、男手があるだろう。」

「だって、彰琳のおっちゃん、やらないんだもん。水汲みだって俺がしてるんだ。」


エヘンと威張る楼杏だが、素直に褒めれるものではない。


「まったく、あやつめ。蝶香チョウカがお屋敷に上がってからサボリ癖がでたな。」


む、と楼杏の眉間に皺がよる。

何か言いたそうに口がもごもご動いたが。


「ああいう大人にならんように、お前さんもサボらずに働くんだぞぃ。」


そう言われて口を真一文字に引き結んだ。

サボってはいないけれど……少し楽をしようと思ってたことは間違いではないので。






リュウさん?」


急に立ち止まったその人に、彰琳は首をかしげて歩みを止めた。

その視線を追うように顔を上げて、それでもやっぱり分からず首を傾げる。


「田螺さんの厩がどうかしましたか?」

「……いや、なんでもないよ。」


そう言って振り返った黒い瞳と目が合う。

黒い瞳は見慣れたはずなのに、この老人の瞳には何故か違和感を感じてしまう。

真っ白で長い髪と同じく長い髭によって余計に際立って見えるからかもしれないが。


「あ。」


歩き出した白い姿の向こうに見つけたものに彰琳は思わず声をあげた。

今度は劉老人が首を傾げる番だ。結わえていない髪がサラリとこぼれる。


「ん?どうかしたかね?」

「いえ……楼杏がいるな、って思って。あの荷車。」


指を指した先はやはり田螺の厩だ。

古い木材で作られた小屋は里で一番不安定だが、小屋の周りはきちんと整えられて不潔さはない。

そこに少しだけ右に傾いた、よく見慣れた荷車を見つけたのだ。


「ほぅ。あれが楼杏くんの家のものだって分かるのかい?」


薪を積んだあの荷車は彰琳にとってはよく見慣れたものだ。

でも、同じような荷車を持つ家は多くて遠くから見たらどれも同じに見える。

だからか驚いた劉老人に、彰琳ははにかんだ笑顔を向けた。


「はい。楼杏がおじさんと一緒に作っているのを見たこと、あるから。」

「作った?」


再び老人の目が見開かれる。

子供一人でひける、といっても大人2人は余裕で乗れる大きさだ。

しかも、この里は材木の貯蓄に限りがある。貸し借りできる荷車を作るためにわざわざ作るとは考えられなかった。


「あ、違うんです。作った、というか直した、というか……」


荷車は運搬手段として重要なものだが、一家に1つ必ずあるわけではない。

水運みはこびの玄太のように、荷運にはこびを仕事にする者が荷車を使えない家を回ったりもしているのだ。

それに、斜面の多いこの里では荷車をひくにも力がいる。そのために荷車を処分する家(主に老人だが)も年々増えてきてはいた。

そういった古い荷車も他の家に譲られたり再処理されて材木として使われたりするのだが、ある日同時に2台の荷車が処分されることになった。持ち主が年と共に力を失った、というのもあるが使うのが難しいほどに古くなってしまっていたのだ。部品がかけたり、木が古く弱ってしまったり。それでも車輪はなんとかなりそうだったために、楼杏の父が申し出て2台とも譲り受けた。そして木が無事な部分を取り出して組み合わせ、一台の荷車にしたのだった。

彰琳も手出しはできなかったものの、お隣の親子が真剣な顔で作り上げていくのを傍らで眺めていた。

その様子をしどろもどろになりながらも熱心に説明する彰琳に、劉老人はようやく納得したように頷いた。


「……楼杏くんと燕静は仲が良いようだ。」

「はい、とても。」


ホッと安堵の息をつく。

母親に鍛えられたため、礼のある話し方はできるのだが…鍛えられすぎて少し苦手意識もあった。

もともと人前にでることは苦手なため、どうにも滑らかに話すことができない。

この老人相手には随分慣れたのだが。


「楼杏くんと君も仲が良い。」

「えぇっ。」


不意にかけられた言葉に頬に熱が集まるのが分かった。

頬に手を当ててうつむくと、団子頭の飾り布がユラユラと揺れた。

その飾り布よりも桃色になる彼女を老人が実に面白そうに見ているのが益々いたたまれない。


「なんなら、今からあちらへ行くといい。私は一人で帰れるから。」

「そんな!父さん(ツォンツェ)の大切なお客様なのに、そんなことしません!!」


この真っ白な髪の老人は東の集落にも西の集落にも住んでいない。

だから2年前のあの日まで、彰琳は彼を見たことがなかった。

そして2年前のあの日から、時折彼女の家を訪れるお客様となったのだ。


「まだ小さいのに、よくできた娘さんだ。さすが蝶香の子だな。」


「劉」と名乗るこの老人は北のお屋敷で仕事をしている、という。

彰琳の母や兄が「お勤め」をしているというあの屋敷で。


「あぁ、しかし。今日は此処でいいよ。」


再び老人が立ち止まったのは、東の集落の北端だった。

北の丘の上の屋敷まではここからも随分歩かなくてはならないらしいが、彰琳もそこまでは行ったことがない。

それでも丘の麓まではいつも見送るのだが。


「……あの?」


戸惑う少女に老人は愉快そうに笑った。


「いつも約束を守ってもらっているからね。これくらいは構わない。」

「あ、ありがとうございます。わ、私、楼杏にも言ってないですからっ。」

「分かっているよ。」


丘の上のお屋敷と集落には特に交流はない。

あの屋敷では里の守り神を祭っているのだという。だからお屋敷自体も神聖なものと考えているのか、噂好きの女たちもお屋敷の話は皆無と言っていいほどしないし、訪ねたりもしない。

守り神の加護篤く、時々お屋敷に「お勤め」に行くという燕静以外には。

そのためだろうか、初めて会ったときから彰琳はこの老人と約束事をしていた。


この老人のことを誰にも口外しないこと。


幸い老人と歩いている姿を目撃されたこともないため、この約束を守ることは簡単だった。

楼杏にまで黙っているのは少し気がひけたのだけども。


「だからお礼だよ。今日も楼杏くんと共に食事をするんだろう?」

「は、はい。」


まだ誘ったわけではないが、きっと大丈夫だろう。

燕静が「お勤め」に行っている間に食事を共にするのは最早日課となっていた。

また頬を薄っすらと染める彰琳に老人は満足そうに声をたてて笑った。

手を振って別れた後もなんだか気恥ずかしかったが……彰琳は急ぎ足で家への道を戻りだした。

畑の水撒きは珍しく父が代わってくれたから、あとは昼食の準備をするだけだ。

朝に炊いた芋はもうすっかり冷めてるから、もう一度焼いてもいいかもしれない。

それを美味しそうに頬張る幼馴染を思い描いて、少女は小さく微笑んだ。






「璋彬のとこの芋は本当うまいな!!」


満面の笑みを浮かべて家で焼いてきた芋に齧り付いている楼杏に璋彬は自然と笑みを浮かべた。

この里は自給自足が原則だ。

一歩里の境界を越えてしまえばそこに広がるのは迷いの森。

足を踏み入れると二度と助からないと言う。

まぁ、森に入る前に境界である川があるから誰もそこには近寄れないのだが。


だから楼杏たちは外の世界を知らない。

見上げればどこまでも広がる青い空と山と遠くに見える森。

北の小高い丘の上には立派なお屋敷があって、その下に共同の広場、東西の集落が並んでいる。

どの家の傍にも畑や小屋などがあり、村の西と東を流れる川の水を引いて利用している。

北の丘の向こうにも南の林の向こうにも川が流れていて、皆、川の内側で生活し、越えようなんて考えない。

足りないものがあったら協力してそれをまかない、怪我や病気をした時も里の者全員で助け合う。

楼杏たちにとってはそれが世界の全てだった。


父さん(ツォンツェ)自慢の野菜だもの。でも私、楼杏のところのタンも好きよ。」

「じゃ、今度腕によりをかけて作って食べさせてやるからな!」


「タン」は里では唯一楼杏と燕静の親子だけが作る料理だった。

「リュータン」という植物の実を粉状にしたものを中心にいくつかの植物の実を練り合わせて細く伸ばして切ったものを茹でて、魚を干したものなどで作ったスープにつけて食べるのだ。

茹でる前の状態ならば保存もきくし、ボリュームもあって結構美味しい。

里の人たちにも人気のある料理だった。


「タンか・・・朔潤サクジュンも好きだったよなぁ。」


言ってしまってから楼杏はハッとした。

半分以上齧った芋を口から遠ざけバッと璋彬に目をやる。

璋彬はうっすらと微笑んで「大丈夫だよ」と言う。

でもその目はひどく悲しそうで楼杏はギュッと胸を締め付けられるような思いがした。

楼杏は何も言えずに目の前の川の流れを見つめた。


村の一番東にある川。この向こうには迷いの森が広がっている。

この村の人々は総じて「水」が苦手だ。

川の横の3つの腰掛石。

楼杏たちはそれを自分たちの特等席としたけれど、こんなに川の近くで食事をとる者なんて他には1人もいなかった。

だから一歩踏み出せば二度と出てこれない迷いの森へ川を泳いでまで渡ろうとする者も1人もいなかったのだ。


朔潤以外は。


「水ってさ、綺麗だけど怖いよな。」

「・・・うん。」


朔潤は彼らより2つ上で璋彬の兄だった。

小さいころから3人で一緒に遊んで2人は年長の朔潤にいつも引っ張られていた。

賢くて勇敢で優しくて。そんな朔潤が2人とも大好きだった。


「外ってどんなところなんだろうな。」


それが朔潤の口癖だった。

<外>について話すと大人はすぐに怒る。

だから楼杏も父親に殴られるのが嫌で、例え幼馴染の前でも<外>について話したことはなかった。


でも朔潤はそんな楼杏にいつも言っていた。

「外には俺たちが知らないものが沢山あるんだ」と。

大人の目を気にせず堂々と言える朔潤に楼杏は憧れていた。

それが2年前。突如として朔潤は朔潤たちの母と共に消えた。

朔潤たちの父は「あの2人は丘の上のお屋敷で働いている」と言ったっきり何も言わなくなった。

でも、楼杏は密かに思っている。


朔潤はどうにかして<外>の世界へ行ったんだ。


「……私ね、今幸せだよ。……お兄ちゃんはいないけど、楼杏がいる。」


朔潤が母と共にいなくなったとき、一番辛そうにしていたのは璋彬だった。

彼女のお団子頭でいつも揺れている飾り布は、幼い朔潤が初めて1人で織った物だ。

木の実の汁で染めたそれは璋彬にぴったりの桃色をしている。

楼杏が羨ましくなるくらい仲の良い兄妹だったのだ。


「璋彬・・・なら大丈夫だな!おれはどこにも行かないしっ!!」

「うんっ。」


お日様のような笑顔を見せる楼杏に璋彬は頬を赤くしながらも花のように笑った。

その笑顔に楼杏はいつもホッとする。

幼い頃からずっと一緒にいる璋彬。彼女が笑顔だと楼杏もとても嬉しい。


「楼杏、もうお腹いっぱいになった?」

「え、あ、ううん。もうちょっと!!」


はにかみながら笑う璋彬の呼びかけにハッとして齧りかけの芋に齧りつく。

まるで「とられてなるものか!」というように必死で食べる楼杏に璋彬はくすくす笑った。


「もう、楼杏ったら。喉につまってしまうわ。」

「だいひょー……ぶっごほっ!!!」

「大変!大丈夫?!」


「大丈夫」と言いかけて楼杏は芋を喉に詰まらせて咳き込んだ。

こんな時に「ほらみろ!」と笑う朔潤はもういない。

その妹の璋彬は呆れなんて通り越して慌てて顔を真っ青にする。

勢いよく立ち上がって顔を青くしたり赤くしたりしている楼杏の腕を掴んで緩やかな川に近づく。


「楼杏、水を飲んで。」


念のために持ってきていた柄の長い柄杓ひしゃくで水を掬い渡す。

言われたとおりに楼杏は派手にこぼしながらもなんとか口に流し込む。

口いっぱいに水をためると真上を向いてゆっくりと飲み干した。

喉のつかえがとれて呼吸が楽になる。


「ゼェハァ……死ぬかと思った」

「縁起の悪いことを言わないで。」

「だ、大丈夫だって。……あ、璋彬。飾り布が……」

「え?」


思いのほか真剣な声にまずったなと思いながら幼馴染に目を向けて楼杏はハッと目を瞬かせた。

璋彬の大切な桃色の飾り布が片方だけほどけかけている。

なくしてしまったら大変だ。楼杏はサッとそれに手をのばす。

でも、何のことか気づいてない璋彬は驚いて身をひいてしまった。

そのわずかな行動がいけなかった。


「ぅわぁっ!」「きゃぁっ!」


びゅんっ!と鋭い音がして2人の間を一陣の風が吹きぬける。

楼杏は咄嗟に腕をかかげて、共に生じた砂埃などから目をかばう。

腕の下で細めた目に桃色の線が流れるのが映った。

璋彬は気づいていない。このままだったら突風に飛ばされて何処かに行ってしまう。

あれは仲のよかった兄と妹の唯一の思い出の品なのに。


「駄目、だ……!!」


そう思うと勝手に体が動いていた。

目を庇っていた腕を咄嗟に桃色の飾り布に伸ばす。

光に反射して瞳の周りが青く光る。その目はもう桃色の飾り布しか追っていない。

斧や農具を握って豆だらけになった表皮のひび割れた手の指先が流れる布にスルッとからみつく。

触れる感触にホッとしたとき、風が止みその一瞬の行動に気づいた璋彬は息を呑んだ。

彼女の視線の先にあるのは飾り布ではない。

楼杏の足元。


「川がっ!!」

「えっ?……っ!」


璋彬の声に驚いた楼杏は次の瞬間ゾッとした。

目の前に広がるのは冷たい水。

風に流された飾り布は川の上に飛び出していたのだった。


「ぅわぁぁぁぁぁぁっ!!!」

「楼杏っっ!!!」


ドボンッと大きな音とともに水しぶきが上がった。

水がかかるその感触にゾッとしながらも璋彬は川の淵に駆け寄り身を乗り出す。

でも、そこに幼馴染の姿はない。

足の力が一気に抜けた。その場に崩れ落ち、青ざめた顔の口元を小刻みに震える手で覆った。

目頭が熱い。震えが止まらない。

言い知れぬ恐怖が彼女の全身を襲った。


「あ……あ…・・・」


自分はまた、大切な人を失ってしまうのか。

この恐ろしい水の流れはまた自分の大切な人を奪う気でいるのか。

璋彬は思っていた。

大人たちは平気な顔で嘘をつく。だから。

2年前、突然いなくなった母と兄はこの水に飲まれてしまったのだ、と。


「鵬崙公……!!」


この村の守り神の名を叫ぶ。

そして思い出した。守り神の元へ出向いている楼杏の父を。

あの人なら、鵬崙公の加護の強いあの人なら息子を、楼杏を助けてくれるかもしれない。

璋彬はハッとして立ち上がった。泣き出しそうな瞳を一度川へ向け、里の方へと駆け出す。

璋彬はさほど足が速くない。でも、せめて他の大人にでも伝えられたらあの人へ伝えてくれるだろう。


その悲壮な後姿を、水の流れはただ穏やかに見送っていた。


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