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第一章  木漏れ日(1)


楼杏ロウアンの朝は早い。

まだ日のあまり差さないうちから起き出して、まずはかわやへと向かう。

厠は当然、家にはない。里の中央にあって、皆共同で使っている。

楼杏の家は集落の東端にあるから、急いで行かないと長蛇の列の最後尾になってしまうのだ。

日によっては足元もよく見えない中を、慣れた足取りで向かっていく。

この里にはあまり日が差さない。

薄暗い日が多いからこそ、楼杏は暖かい日差しが大好きであった。


「おぅおぅ。坊主、今日も早いのぅ。」


見えてきた厠から出てくるのは、見知った姿だった。

と言っても、この里で見知らぬ者など殆どいないのだけど。


「おはよう、うまやのじぃ。」

「おはよう。楼杏。」


里でも恰幅のよい類に入るこの男は60代半ばといったところか。

年の割りに黒々とした髪に、ひしゃげた平らな帽子を乗せていた。

彼のその帽子は、絶対に馬たちが踏んで潰したのだろうと楼杏は思っていた。


「また、厩のじぃに先越されちゃった。」

「ほっほっほ。年寄りの早起きを甘く見るもんじゃないぞぃ。」


大きな身体をそらして笑う。

里に3頭しかいない馬の世話を一人でしているというのに、彼の腰が曲がっているのを見たことがない。

同じくらいの年頃の機織のばぁや北の畑のじぃは、おかしいくらい腰が曲がっているというのに。

そんな厩のじぃは、里でも一番というくらいの早起きだった。

楼杏がいくら早起きしたって、必ず先に厠を使っているのだから。


「分かった!じぃ、実は厠で寝てるんだろう?!」

「バカ言うな!!」


ポカリ。

可愛らしい擬音だが、拳は垂直に降ろされていた。

村でも恰幅のいい部類の彼の拳はそれなりに、痛い。

あまりの痛みに楼杏は黒目がちの大きな瞳をくるくるとまわした。


「いってー!!」

「小便も一人前にできないガキが生意気言うからだ!!」

「あー!!その話はもうしないって言ったじゃないかー!!」


涙目で見上げると、厩のじぃは真っ赤な顔で鼻息荒く厠を指した。


「さっさと小便すましてこい!!」






「でさー、厩のじぃって本気で殴るんだぜー?ほんの冗談だったのにさ。」


未だに鈍く痛む脳天を抑えていた。

唇を尖らせて恨めしげに言う姿は、正真正銘のわんぱく坊主だ。

・・・まぁ、いささか細すぎるが。


「それは楼杏も失礼よ。」


くすくす笑うのは、楼杏と同じくらいに痩せた少女だ。

と言っても、少女らしい丸みも失わず、その愛らしい顔をふっくらとさせている。

名を彰琳ショウリン。楼杏の隣家に住む幼馴染の少女であった。


「彰琳まで!ちょーっと思いついただけじゃんか。」

「だって、田螺タニシさんは綺麗好きだもの。厠で一晩なんて考えられないわ。」


里一番の早起きで知られた厩のじぃこと田螺は里一番の綺麗好きでもとおっている。

彼の住まい兼仕事場である厩はいつもピカピカで、あまり匂いもしない。

他の家が担当している牛や鶏の飼育場は特有の匂いがするうえに雑然としているのに、だ。


「そうさね。そんなことしたら、あのじいさんは一晩でぽっくりいっちまうよ。」

「そうそう。あのじぃさんは血管切れやすいんだから。」


けらけらと笑いながら結構酷いことを言ってのけるのは、里の主婦たちだ。

皆一様に大きな桶や壷を持っている。家で使う水を汲みにきているのだ。

井戸の順番待ちで幼馴染や女たちとこうして話すのは朝の恒例行事のようなものだった。


「血管てさー」


頭を抑えていた楼杏はふと顔を上げた。

談笑してた女たちの視線が自然と集まる。


「なんで青いんだろー、血は赤いのにさー」


ん?と一同は首を傾げた。


「そんでさ、切れたらどうなんのかな。体中真っ赤になって血が吹き出ちゃうのかな。」

「そ、そうなんじゃないかね?」

「でもさ、厩のじぃも彰琳もよく顔真っ赤にするけどさ、あれって血管切れてんのかな。」


んんん?と一同は首を傾げた。

楼杏は期待を込めて年長の女たちを見上げるが、やがてそのうちの一人は困ったように笑った。


「なんでだろうねぇ?楼杏はいつも変なこと思いつくねぇ。」

「好奇心旺盛なのさ。まだまだ子供な証拠だよ。」


同調したもう1人が笑い飛ばすように言う。

なんだか馬鹿にされたようでムッとして楼杏は口を開きかけた。が。


「そんなことより、聞いたかい?西の裁縫のばぁがさ・・・」

「あぁ、夕べの異臭騒ぎだろう?調味壺の中身間違えたっていう。」

「それがさ、それだけでもないらしいんだよ。」

「えぇ、なんだいなんだい?」


もう話題が変わってしまっている。

女たちの話題の展開は早い。一日中の里の者は女でも子供でも老人でも仕事がある。

女たちにとっても、朝に好きなだけ情報交換できるこの場はとても貴重なのだ。

狭い里なだけに、ここで話された内容はその日のうちに広がることにはなるが。


「楼杏、順番きたわよ。」


弾丸のように話される噂話に一瞬呆気にとられていると、彰琳が袖をひいた。

自分の前で水を汲んでた男性がせい、と力を入れて2つの桶を吊るした棒を肩に担いでいった。


「んー。」


彰琳に促されて、いつも通り水を汲み上げていく。

が、知らず知らずのうちにため息をついていた。


「彰琳はさー、どう思うー?」

「え、私?」


縄を引っ張って滑車を回す姿を眺めていた彰琳は、ふってきた話題に目を瞬かせた。

目元のやや下がった黒い瞳が困ったように幼馴染の横顔を見つめる。


「さぁ・・・考えたこともなかったわ。楼杏はすごいわね。」

「別にすごくないよ。だって、答えは出てこないんだから。よっと・・・あ、桶とって。」


褒め言葉に楼杏は益々不満そうに息をつく。

慌てて桶を差し出した彰琳は楼杏の眉がぐっと寄っているのに気がついた。

幼馴染の彼女は知っている。

この顔は怒ってるのではなくて、うまく感情に出せなくてもやもやしているときの表情だ。

思ったことを口に出さなくてはすまない幼馴染はそういうときひどく悩む。


「楼杏?・・・大丈夫?」

「え?ああー、ん、大丈夫。大人ってさー、ずるいよな。」

「え。」


その言葉に慌てて後ろを見るが、先ほどの女たちはおかしそうに手を叩いて笑い声をあげている。

聞こえている心配はないだろう。


「なんでも聞いて、って言いながら何も知らないで、聞いたら子供だって馬鹿にするんだ。」


背中を向けているから表情は見えない。

それでも怒ってるような悲しんでるような声に彰琳は慌てた。


「そんな。おばさんたちは別に馬鹿にしたわけじゃないと思うわ。」

「・・・わかってるよ。」


分かってるから、感情が真っ直ぐ出てこないのだ。

そういう複雑な感情こそ「大人」に近いと思うけれども、彰琳は何も言えない。

ただただ心配そうに見つめていると、それが分かったかのように楼杏はくるっと振り返った。


「彰琳は大人だなぁ!おれ、『気にしてるうちはまだまだガキだ』って怒られちゃうね」


照れくさそうに笑って、桶を交換する。

また作業に入った背中を、彰琳は複雑そうに見つめた。

楼杏ももうすぐ15才になる。大人の仲間入りだとは言っても、誰よりも好奇心旺盛で知りたいことばかりだ。

同い年の彰琳だってそれは同じなのだが。

彰琳はそれを心のどこかで怖い、と思う。

日常に疑問を見つけること、それを知りたいと思うこと。

それが誰よりも強かったために、いなくなってしまった人を彼女は知っているから。


「お、楼杏と彰琳!お前ら、相変わらず仲良いなぁ!!」


しんみりとしてしまった雰囲気を断ち切るような明るい声が落とされた。

それにつられるように、ぱっとあげられた楼杏の表情も明るくなる。


水運みはこびのにいちゃん!!」

「お、おはようございます。」


「おう、おはよう」と言って2人の頭を順番に撫でていくのは、年の頃20代半ばの青年だった。

やせっぽっちの楼杏と彰琳なら軽く一度に持ち上げられそうな体躯の持ち主で、ボサボサの黒い頭を麻布で巻いている彼は肩に担いできた天秤を井戸の横に下ろした。

天秤の両側は桶ではなく、大きな水瓶みずがめ玄太げんたという名前があるのだが、その瓶一杯に水を汲んで、里中に配って歩くので「水運みはこび」と呼ばれることが多い。この小さな里では仕事がそのまま呼び名になっている者がほとんどだ。


「今日のオツトメはもう終わり?」


楼杏が作業の手を止めて、目をキラキラと輝かせて玄太を見上げる。

若さと仕事が手伝ってか、里で1,2位を争うがっしりとした体躯の彼を楼杏は憧れていた。

自分もそうなりたいらしいが、手足の小ささや手足首の細さからそれは無理だろうと周囲は温かく見守っている。


「いーや、東がまだだな。ほら、楼杏、手動かせ。後ろ並んでんだからな。」

「わわ、ごめん!」


後ろを振り返ると、玄太の登場に気がついたのか女たちが話を止めてこちらを見ていた。

待たせていたことに気付いて、急いでもう水を汲みだす。

彰琳も慌てて、水の溜まった桶に天秤の紐をくくりつけていった。


「いいんだよ。あたしらは別に急いでいるわけじゃないしねぇ。」

「だめだよ!『女を待たせる奴はろくな人間にならない』って、父さんも言ってた!」


のんびりと構える女たちに、楼杏は背を向けて叫ぶ。

井戸に反響して思いのほか大きな声になったが、背後ではそれにも負けない歓声が起こった。


「さっすが燕静エンセイさんだ!!」

「男ぶりが違うねぇ!!」


楼杏の父は何故か女たちに人気がある。

言ったのは父だけども、実行に移したのは自分なのに、と口を尖らせていると、玄太がひょっこり手元を覗き込んだ。満足そうに黒目を細める。


「だいぶ手際よくなったじゃねぇか」

「本当?!ぃやったー!水運のにいちゃんに褒められた!」


どんなことでも本職である人間に褒められるのは嬉しい。

汲み上げた水を2つ目の桶に入れて、喜色満面に飛び跳ねる。

女たちも微笑ましそうに笑って、井戸汲みの順番を変わると、玄太が黙って水を汲み始めた。

ギュン、と滑車が回り、あっという間に女の持っていた桶一杯に水が溜まる。

女たちからは歓声が上がり、楼杏は不満そうに唇を尖らせた。


「ちぇ、やっぱり兄ちゃんには負けるなぁ。」

「はっはっは、当たり前だ。楼杏に仕事をとられたくないからなー!」


次の女から桶を受け取り、玄太は楼杏の小さな背中をバンバン叩く。

毎朝水瓶を二つ担いで何度も往復する男の力に、痩せて平らな体が跳ね上がった。


「いってー!!とんないよ!おれには畑があるんだから!!」

「あの畑は燕静さんのだろう?」

「父さんは館のオツトメがあるからいーの!最近はずっとおれが世話してんだぞ!」


会話の間にも玄太はどんどん水を汲んで桶をいっぱいにしていく。

また一つ桶が満タンになったところで、えらいえらいと楼杏の頭を撫でた。

完全に片手間で子ども扱いだが、自信満々に胸張ってる楼杏はまるで気がついていない。


「はい、次の人ー」

「あぁ、あたしはいいよ。東の分、まだなんだろう?先にそれをしておやりよ。」

「え、いいのかい?」

「いいよいいよ。あたしはまだ喋っているつもりだし、急いじゃいないさ。」


最後尾にいた女が笑って手を振ると、玄太は礼を言って汲んだ水を大きな水瓶の中に入れだした。

楼杏や彰琳が抱えたら潰されるんじゃないかと思うくらい大きな水瓶だ。

これを2つも担いで歩き回れるのは、この里じゃ玄太と楼杏の父くらいだろう。


「おっきーなぁ・・・何軒分運ぶの?」

「よっと。ん?そーだなぁー、今は東で10くらいかな。西はもっと多いけど。」


この里は老人が多い。

成人していない子供は楼杏と彰琳の二人くらいで、次に若いのは玄太の年代になってしまう。

厩のじぃのように元気な老人も多いが、井戸から遠くて水を運んでいる途中に足腰を悪くしそうな者たちは皆、玄太に代理の水汲みを頼んでいた。


「10かぁ・・・全然足りないや」

「なんだ、楼杏。本当に俺から仕事とる気か?いくらお前でも容赦しねぇぞ?」


笑い混じりに脅す声に、玄太が来てから少し離れたところでいた彰琳の肩がピクリと震えた。

体も声も大きいこの若者が彰琳は少し怖い、らしい。

大きい体も声もうらやましい楼杏にはよく分からないのだが。

でも、彰琳を怖がらせるのはいただけない。


「いくら水運の兄ちゃんでも、彰琳泣かせたら容赦しないからな!!」

「お前が容赦しなくたって、別に怖くないな。」


玄太だって意図的に泣かせているわけではない。

むしろ視界に入るたびにビクビクされて困っているのだが。

細っこいのにナイト気取りの「わんぱく坊主」が面白くて仕方がない。

試しに、わめく子供の横に満杯にした水瓶をドンと置いてやる。


「うわっ!!」


ほら、驚いて丸い目を更に丸めているのもなかなか面白い。

玄太はニヤニヤとし、女たちもニマニマと楽しんでいる。

彰琳だけは次の言葉にはっきりと顔色を変えたけれど、誰も気がつかなかった。


「お前より燕静さんや朔潤サクジュンがでてくる方が怖いね。」


楼杏なんて、彼の商売道具で簡単に押しつぶせそうだった。勿論、水が入ってなくても。


「おれと朔潤にどんな違いがあ・・・」

「楼杏。」


顔を真っ赤にした楼杏は、その声にふと口をつぐんだ。

恐る恐る振り向いた先に寂しげに佇む幼馴染の姿があった。


「桶、結び終わったから。かえろ。」


いつもの鈴の転がるような、楼杏を気遣う優しさ溢れた声でなく。

ただただ静かに発せられた声に、楼杏は小さく頷いた。




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