序章2 過去、それは決断
◆鴻庵暦336年 境界の町『運暢』
町は活気付いていた。
今日は彼らの住む土地を治める長の息子「太子様」が<外>の世界から帰ってくるのだ。
町の人々は、町を囲む分厚い壁の更に向こうの世界を知らない。
ただ「恐ろしい」と思うだけだ。
壁に近づくだけでも、身の奥からおぞましい恐怖が湧き上がってくる。
だから、実情は知らなくとも<外>とは死の世界なのだと言われてきた。
一歩でも外に出れば、たちまち生気を失い屍と化すのだ、と。
ただ、太子だけは、次期長となる太子だけは1年間だけあの門の外から出ても平気なのだ。
それに、あの門は太子の手によってのみでしか開くことはない。
それこそが人々が長の一族を畏怖し服従する理由なのかもしれない。
「おい!門が開くぞ!!」
「太子様はきっとお疲れだ!宿と食事の準備はできているかー!!」
黒い髪、黒い瞳、小麦色の肌の人々がざわざわとざわめき出す。
滅多に開かれない赤い門が音を立て、今にも開かれようとしていた。
太子のご帰還だ。
住人たちは全員道の端に両膝を着いてその脇に拳を置き頭を下げる。
太子を迎えにきた州侯と数人の者たちだけは立った状態で両手を合わせ頭を下げている。
300年以上はこの町を守っているという大門。
その古さを主張するようなキキィッという音が長い時間をかけてやっと止まる。
そして、太子の帰還を信じ込む彼らの耳に聞こえたのは・・・数え切れない数の足音と聞きなれない金属のこすれる音だった。
何十人もの足音が門の傍に立つ州侯には目もくれずに真っ直ぐ歩いていく。
途端にひどい耳鳴りが彼らを襲った。
「な、なんだ・・・?!」
絶えられなくなった町の者たちは顔を上げ、そこに広がる光景に愕然とした。
本来ならそこに立つのは彼らの上に立つ太子と2,3人の従者であるはずだった。
それが、なんだこの人数は。
大門の幅いっぱいに紫色の波が広がっている。
次々に溢れる淡い紫の波は途絶えることを知らないように門の向こうまで続いていた。
カツカツと音をたてて紫の波は進む。その金属の音が酷く耳障りだった。
だが、この酷い耳鳴りはそのためではない。
何か、身の奥から這い上がってくるものがある。
「お、お前たちは何者だっ!!下界の者の侵入は許さぬぞ!!」
真っ先に我に返ったのは他ならぬ州侯だった。
黒い髪を逆立て、怒りをあらわにする州侯に他の者たちもやっと感覚を取り戻す。
だが、取り戻したところでどうにかなるものではなかった。
仙人の守るこの地で争いなんて起こったことはなかったのだ。
淡い紫の騎士服に身を包み、ただ前だけを向いて真っ直ぐ歩を進む騎士たち。
その土地の者たちには彼らが何者かなんて分かるはずもなかった。
「えぇぃっ!何をしておる!!早く門を閉めんか!!皆の者火を持て火を放て!鵬崙公様が守ってくださる!我らに火が降りかかる心配はないぞ!」
州侯の怒鳴り声に運暢の者たちはおおわらわで門へ駆け寄ったり家に入って火打石を取り出そうとする。
だが、その動作もはたっと止まった。
止まることのなかった淡い紫の波が突然ピタリと止まったのだ。
驚く運暢の者たちの前で、騎士たちはクルリと方向を変えた。
正面は外へ向き、背中は軍の中心に預ける。
突然自分たちの方を向いた騎士たちに運暢の者たちは揃って体を振るわせた。
耳鳴りは今も続く。だが、これはなんだろう。
それを圧倒するような強い気を軍の中心から感じる。
その場にいた者・・・州侯以外の全員が息を呑み注目する中、騎士たちがサッと避けた場所に新たな侵入者が現れた。
大門の下から現れたのは鬣の豊かな立派な白馬に乗った騎士。
騎士は他の者とは違い、紫の刺繍の入った白い騎士服に身を包んでいた。
そして更に他の者と違うのは。
「お、女っ?!」
豊かな赤銅色の1つに束ねた髪を靡かせ、馬をゆっくり進ませるその姿は20前後の若い女性。
女性が馬に乗っている・・・それだけでも驚くことであるのに、更によく見れば他の騎士はその女性を守っているようにも見えるのだ。
その横を大降りな旗を持った騎士が固め、斜め後ろには大降りの剣と杖を持った男性がそれぞれ仕えていた。
剣を持つ者は浅黄色の騎士服、杖を持つ者は金の刺繍が眩い白の騎士服をそれぞれ装備している。
皆一様に騎士服には龍と剣の紋章が描かれていた。
当然、町の彼らには見慣れない紋章である。
「げ、下界の奴らが我らに干渉しようというのかっ!!身の程知らずもはだはだしいっ!!・・・ひっ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ州侯に白の大きな杖の先が突きつけられる。
州侯とその後ろでそれを見ていた人々は息を呑む。
杖を突きつけた青年は無言で、呪文をかける様子もなかったがその金の瞳がすさまじい威力を持っていた。
瞳よりも淡い金の髪を持つ、美しい青年だ。そして、そこにいるだけで圧倒される不思議な力。彼らはそんなものを目の当たりにしたのも初めてだった。
そして不思議なことに、彼の金の瞳を見ていると先ほどまであんなにうるさかった耳鳴りも一気に収まっていく。
「・・・無駄な抵抗はしない方がいい。我らは抵抗なき者に力を加えたりはしない。」
口を開いたのはその金の瞳の青年・・・ではなく、彼の前を行く赤銅色の髪の女性だった。
女性にしては低いが落ち着いた声音だった。
怒鳴っているわけでもないのに、運暢の人は全員その声を聞いた。
静かな声。だが、従わずにはいられない声だ。
「抵抗」などという言葉を知らないかのように息を呑みただ自分を見つめてくる民たちを彼女はその紫色の瞳で静かに見渡した。
金の瞳の青年が州侯に力を注いでいるのを目の端で確認すると、すっと腰に差していた細身の剣を天に掲げる。
それを合図に大きな旗をもった2人の騎士がドンッという音を立てそれを地面に突き刺した。
赤でも青でもない紫の瞳が、揺らぐことなく前を見据える。
「我はアルクティス国王よりこの地に派遣されし者ロキア=ノア=エラン=クイーラ=アルクティス!
只今よりこの地を第84代ヴィロウス=ウル陛下の御名において支配致す!!」
地面に突き刺さった旗――龍と剣の紋章にアルクティスという文字の刻まれたもの――が、やっと開いた門からの風に事態を見守るかのようにそよいでいた。
◆アルクティス暦1983年 『アルクティス王宮』
その日王宮では1つの命が誕生し、1つの命が消えた。
それから数日後、また1つの命が・・・生まれたばかりの命が消えようとしている。
「アンナの病には本当に何も効かないのかい?!」
「はっ!わ、私どもも手はつくしましたが、アンナ=ノア王女殿下の病は何分原因もはっきりと見当たらず・・・」
王の沈んだ声に宮廷付医師は浮かび上がる汗を必死で拭いながらひたすら目を泳がせた。
そんな臣下の焦る様子には目もくれず王は「ああ」と組んだ両手に額を押し当てた。
「なんということだ!!せっかくあの頑固な母上から『ノア』の称号を授かったというのに。
フィーネも体が弱かったからな。まさかせっかく生まれたこの子まで黒髪の他にそれを継いでしまうとは。
生きていられたらきっと良いお婿さんを探してあげられたのに。あぁ、なんて可哀相なんだっ!!」
ちなみに、まだ死んではいない。
言っていることは40手前の一国の、しかも大国の国王のものとはとても思えないが、彼はいたって真面目だった。
「王、何弱音を吐いておられる。」
真面目に悲痛に自分の娘の哀れさを嘆いていた彼は聞こえてきた低い声にハッと顔を上げた。
王の情けなさっぷりを間近で見ていた宮廷付医師やその助手たちは現れた人物を見て慌てて宮廷式の礼をとる。
自然と背筋が伸びた。彼らにとっては、かの人は王よりも尊い人物だったのだ。
「母上っっ!!」
年老いても尚豊かな赤銅色の髪を靡かせ、厳しさの増した紫の瞳で前を見据えるのはこの国の「国母」だった。
毅然とした様子で年を感じさせずに歩いてくる母を王は希望に満ちた眼差しで見つめた。
彼にとっては母は別次元の人だった。彼女にできないことはない、とすら思っていた。
そしてそれは実の息子だけではなくこの国全体の想いでもあることを、賢い国母は知っていた。
「『母上!』でないわ。王、後で国王とは何かについてじっくり話し合う必要がありそうだね。」
頼りなさ過ぎる息子を強い瞳で一瞥すると、国母はスタスタとこの部屋の中央に向かった。
「え~・・・母上の説教って長いんだよなぁ。」とかぶつくさ呟いている息子にはもはや目もくれない。
中央に置かれているそれを覗き込むと国母は妥協の許さない瞳を医師に向けた。
無言の催促を受けた医師も姿勢を正してきびきびと報告をする。彼にとっても王よりも彼女の方が絶対的存在なのだ。
「ロキア=ノア先王陛下に申し上げます!第五王女アンナ=ノア殿下のご容態は勤めて芳しくなく、恐れながら非常に危険な状態と見受けられます。」
「原因は?」
「恐れながら今だに不明であります。」
「治癒法もまだか。」
「はっ!恐れながらその通りでございます。」
「あとどれくらい持つ。」
「・・・恐れながら、もって2日が限界かと。」
医師の固い声に「あぁっ我が娘よ!!」と王が大袈裟なくらい嘆いて跪いた。
国母は逆に顔色1つ変えることなく、赤子用の豪奢な寝台をのぞいたまま硬い声で呟く。
「アレキサンド。」
「お呼びでしょうか。ロキア=ノア。」
医師たちが驚く間もなかった。
黄金色の髪と同じ色の目を持った美丈夫が瞬きする間に現れ、ロキア=ノアから一歩離れたところに片足をついた臣下の礼をとったのだ。
だが医師たちは彼の姿を確認するとすぐに尊敬の念を瞳に抱いて彼に向けた。
彼は王族ではない。だが、他の者にとっては国母の次、いや同等にもそれ以上にも敬意を払う対象でもあった。
「本日中にアンナ=ノアをヴィロッサに届けることは可能か。」
「北の地、コロミール州ヴィロッサ領でございますか。」
「あぁ、そうだ。」
「は、母上!アンナをそんなところへ送ってどうするつもりですか!!せめてフィーネの隣に葬ってやろうとは・・・!!」
「黙れ、リックハルト=ウル。」
ロキア=ノアの声は静かだった。
だが、静かだからこそかえって王は黙らないわけにはいかなかった。
そして王は気づいた。母の体から抑えきれないピリピリとした物が溢れ出していることに。
「できるか、アレキサンド。」
「おそらくこちらへ向かっているであろうシャロー=ヴィロッサ卿も拾いますか。」
「あぁ。シャローと共に早く送り届けてくれ。」
「御意。今すぐ出発いたしましょう。医師殿、そこの者たちに姫の支度をさせて下さい。」
「は、はっ!かしこまりました!」
主要医師は直ぐに助手や控えていた侍女や召使たちに姫の旅立ちの準備をさせる。
彼には分からないことが沢山あった。
何故今にも死にそうな姫をヴィロッサ領に連れていくのか、どんなに急いでも半月はかかるその地へ1日でどうやって行くのか。
だが疑問は口にはしない。それは身分と相手をわきまえた正しい行動でもあった。
主要医師らは大慌てで部屋の外へ散って行った。
残されたのは国母と王と美丈夫だ。
「できるか、アレキサンド=ラヴェールタ。」
国母はもう一度尋ねた。
視線は寝台の上で儚い「命」という華を咲かす前に滅びようとしている淡い芽に向けられたままだ。
「この方は多大なる運命を背負われた御方。我がラヴェールタ家の名にかけて救ってみせましょう。」
ラヴェールタ家は王国有数の貴族・・・王家の次に権力を持つといっても差し支えのない家だ。
この一族の祖は国の始まりに神が王家のために遣わした神の子だとも言う。
歴代、その当主には飛びぬけて優秀なものがつく。
その当主の言葉なのだ。信用するべきだ。
そう判断したロキア=ノアは。けれども暫く離れる赤ん坊の姿を目に焼き付けようとばかりに凝視したまま動かない。
顔の判別なんてまだまだできない生まれたばかりの赤ん坊だ。
それが苦しそうに呻きながら暴れている。
自傷してしまわないように害のない拘束の魔法をかけられてはいるが、それでも悲惨なことに変わりはない。
ほとんどない髪の毛は亡き母と同じ黒い色、苦しみながら時節開ける目の色は祖母であるロキア=ノアと全く同じ深い紫色をしていた。
「アンナ」というのは彼女を産み落としてすぐに息絶えた母が。
「ノア」の称号はその様子を見守ったロキア=ノアが与えた。
アンナ=ノアは大切な友人の残した忘れ形見だ。
「絶対に死なせるものか・・・・・」
その呟きを聞いた王は、その時初めて母も人間なのだと悟った。
◆鴻庵暦336年 『迷いの森』
「ロキア様の下におられなくて宜しいのですか。」
「構わぬ。あの方は将軍たちが守る。」
3人の男が深い山道をただ一心に歩いている。
時節襲い掛かってくる木の枝を各々の武器で取り払う。
そして山へ一歩踏み入れたときから響くかすかな地鳴りにも戸惑うこともない。
「それに、あの方は未来の王の母君。このような危険な場所にお連れするわけにはいかぬ。」
そのうち1人の男の木々の取り払い方は一種異様であった。
白の身の丈ほどもあろう杖を襲い来る木々に一瞬向けるだけ。
それだけでその先に広がる意思ある木々は、いっせいに元の静かな木々へと変えていくのだ。
男は3人のうちで最も威厳のある口調だが、実際は20を過ぎたばかりの青年だった。
全身は白で覆われ、目と髪と胸元の紋章ばかりが金に輝いて、薄暗い森の中、一種不気味でもあるが神がかりなものを感じさせる。
「此処はそれ程危険だろうか。」
「この先はより危険だと答えておこう。一歩進むごとに瘴気の色が濃くなっている。」
先頭を行く者に答えて、杖を持つ青年は後ろを振り返る。
末尾の者は息荒く、弱弱しく、それでも一生懸命に襲いくる木々と戦うまだ10といくつかの少年だった。
杖を持つ男はサッとその杖をかかげた。途端、少年の体がふわりと軽くなり彼の隣に並ぶ。
少年のいた場所に一際大きな枝がどさりと落ちた。
「あ、ありがとうございます!魔導師さま!」
「・・・エンショー、この先はお前には辛い。今なら私の術で下へ送り返すことも可能だ。」
「いいえ、魔導師さま。」
エンショーと呼ばれた少年はひょろっとした戦闘には不向きな体型をしていた。
あちこちにかすり傷を作って、それでも瘴気に惑わされない澄んだ瞳を持っている。
「僕は太子さまに生涯かけてお仕えすると決めたんです。」
少年は1年前と少し前にたった1人の家族である母を失った。
家族を失った悲しみに暮れているときに温かい手を差し伸べてくれたのが今の主だったのだ。
「太子さまの出向かれる所なら何処へでもついていきます。」
だから、外の世界というそれまでは考えもしなかったところにだって喜んで供をしたし、あの想像したこともなかった大きな王城にだって共に上がった。
少年の視線は真っ直ぐに先頭を行く自分と同じ黒髪と黒い瞳を持つ青年に注がれる。
主が今から行おうとしていることは危なくて、勇敢で、でも裏切りにあたることなのかもしれない。
そのことで主が悩んでいたことも苦しんでいたことも知っていた。
でも主はそれを全て受け入れてもこうすることを選んだのだ。
少年には主の背中はひどく大きかった。
「・・・そうか。エンショー、お前弓は使えるか?」
「は、はい。太子様と外の世界へ行ったときに習わせていただきましたから。」
「では、お前に弓を与えよう。」
「えっ!で、でも、この森では不向きかと・・・」
慌てる少年に魔導師はそんな場合でもないのにうっすらと笑みを浮かべた。
そうする間にも杖で3人の周りの木々の枝を抑えることは怠らない。
「此処で使うのではない。目的地で私は太子とは別行動をとる。そこではお前が太子の背中を守れ。」
「僕が・・・太子様を?」
「左様。ただし、お前は大任を果たした後に太子を支える者でなくてはならない。この弓で2人の命を守りなさい。」
そう言って魔導師はどこからともなく小ぶりの金の弓を取り出した。
同時に少年の背中に矢の入った筒が取り付けられる。
目をしばたかせる少年に魔導師はその弓を握らせた。
それは少年の手に驚くほどぴったりと合った。
「ラヴェールタ公、エンショウ。ついたぞ。」
後ろの2人のやりとりなど耳にも入ってなかった先頭の男が立ち止まり声を発す。
男の階下にはのどかな里が広がっていた。
黒く深い瞳がその先に立つ大きな屋敷を見据える。
(父上・・・)
知らず知らずのうちに剣を握っていた手に力が入る。
豆がつぶれて血がにじみ出た。
それでも。
痛みなんて感じなかった。
(太子様・・・)
主の背を見ていた少年は胸のつまる想いでキュッと唇を引き結ぶ。
そして真っ直ぐに隣に立つ黄金の魔導師を見上げた。
「魔導師様、弓を有難うございます。」
守ってみせる。主の命も、自分の命も。
決意を湛えた少年の瞳を魔導師は一瞬好ましそうに見つめて小さく頷いた。
そしてひきしめた顔を真っ直ぐ前に向け、同じく決意を固めた青年の隣に並ぶ。
「覚悟はできたか、太子殿」
この土地で育った「太子」と呼ばれる青年はただ静かに頷いた。